2019年12月20日

簡易日本語論

こないだイギリスの人に「日本語は難しすぎる。まず漢字の読み方が複数あってどれか分からない。もっと簡単にしろ」といわれた。それで「確かに日本語は日本人自身にもしばしば難しいし、特に外国人のため「シンプル(簡易)日本語」の様なものを作る必要はありそうだ」と答えた。これについてもう一度考える。

 日本人自身で文学マニア級になると、この漢字の読み方が指定されていない状態で言葉遊びとかしている場合がある。呉音・漢音・唐音とか各時代の中国標準語の発音が多かれ少なかれ保存されているだけでなく、仮名の振り方で当て字にしたり。特に漱石にこれが顕著で、漱石枕流でいう流石も当て字と思う。
 そもそも吏読方式で万葉仮名をうみだして以来、『古事記』筆者の太安万侶は最初期の奈良語を表記するのに大変苦労していたのに違いない。そこから今の標準表記である初期に漱石が採用していた風の「言文一致漢字かな混じり文」に至るまで膨大な試行錯誤があったわけで、古文全てを包含する文化だろう。
「もし英語でHeのあとにsをつけるなといわれたら?(三単元のsのこと)」と尋ねたら、その英人に「そんなの残滓だろう」といわれた。あのくらいしかクイーンズイングリッシュというか標準英語文化に執着ないのが普通としたら、現実に、虚構新聞式にそれが常識化し、isとareも統一されるかもしれない。

「シンプル日本語」をもし戦後政府がGHQにいわれて、常用漢字とか送り仮名を指定したとき見たく実際につくったら、むしろ日本人自身にもかなり役立つと思う。我々の文化になっている母語話者の使い方だと、英語と大分違って語順とかは思いっきり無視されているし、そもそも主語抜きが多くて高文脈だ。

 他に興味深い意見として、あるインド人留学生と親しくなった人が「日本語って簡単なんじゃないですか? アニメで学んだとかで(その)インド人はペラペラでしたよ」といった。サブカルが幼児英才教育的に働いたのを前提とし、語学力が高い人だろう事実を省いても、語族の親近さとも関係あると思う。
 多言語学習すればすぐわかる話でインド・ヨーロッパ語族とか基本が一緒であり、西洋圏のマルチリンガルとか複数方言つかえる式の脳の使い方しているだけだ。朝鮮語の語順が日本語と一緒とか、中国語の単語(というか文字)は当然だが漢字と同じなのがあるとか、母語と縁が近いと学習難易度が下がる。

 つまり、「シンプル日本語」を誰の為につくるかで、その内容もかなり違ってくるかなと思う。

 第一に想定すべきは、最も語族が遠い人にもすぐ学習できる代物にしなければならない。それがエスペラントや基本英語より簡単なら、大挽回で国際公用語の地位をとりかえすことも全くありえない話ではない。
 いまのところ、アニメとか漫画が勝手に、こどもによめるレベルの言い回しで世界の人達に、楽しみながら日本語教育させている節がある。ある意味では理想的だが、まあ内容はふざけたのが多くよかれあしかれ変な人間(いわゆるオタク)ばかり集まってくるのが難点だが、自動シンプル日本語になっている。
 世界市場やこども相手に、日本語版を作るなら、どうしても最大公約数かつ最低レベルの言語知能にも伝わる表現を使うほうが有利なので、サブカルの日本語はどんどん市場原理でシンプルになっていくだろう。放っておけばいい。ある程度広まったところで一番うけた基本ルールみたいなのを抽出すればいい。

 第二に、これは純粋な日本語論を兼ねるけど、なんで平安期には仮名書き文があれだけ流行ったのに、鎌倉文学以後は漢字比率がまた上がったかについては、自分は結構長い間、文芸的に研究してきた。ひとつの答えからいうと、これまた漱石が「凝縮した漢文体」を好んでいたよう、情報伝達の効率がある。
 文を濫読する人には多少わかってもらえるだろうけど、英文より和文の方が視覚的直観がやり易い。速読しても情報が受け取り易いといいかえてもいい。英語も(ハングルみたいな)厳密な表音文字でなく、単語単位に表意性は入っているのだが、日本語は漢字混じりのおかげで余計、表意性が高いのである。
 なぜ冒頭の英人が困ったか、つまるところ日本語の音で読めないからであって、漢字が混じっているからではない。Appleがアップルなのかアッポーなのかわからない式の話で、表意性そのものは読み解き易さと関係している。別の言い方をすると、シンプル日本語は決してかな文字だけで書けばいい話ではないのである(NHKの「やさしい日本語ニュース」のウェブページでよくみられる様に、大人の標準語をそのままひらがなにしても逆に、日本人自身にもわかりづらくなるみたいなもの)。
 参考になると思うのは、朝鮮語が戦後やった、国語浄化運動(국어순화운동)だ。単に日帝が強制輸入してきた言葉を排除しただけでなく、韓国の人達は「できるだけ単純な言い回し」を使う様、共和政府から指導されていたらしい。前者は日本語の豊富さを損なうから無用にしても、後者は単純化に一理ある。
 すなわち、シンプル日本語では難渋な言い回しをできるだけ避け(知的権威づけの為、難読語は一種の装飾としてどこでもよく使われる)、子供でも大人でもわかる簡単な言い方を優先とするのがよい。これはハリウッドなアメリカ英語がイケズなイギリス英語より世界を席巻した一つの原因だろうと思われる。

 以上をまとめると、シンプル日本語では
1.漫画アニメなどサブカルを放置してれば勝手にシンプル日本語の原型ができる
2.漢字かな混じりは情報理論的にみると漢字の表意性のおかげで仮名オンリーより伝達効率がよい
3.できるだけ簡単な言い回しを使うと誰もにわかりやすくなる

 細かくは、中国語(中文)では共産政府が強制的に漢字を改造した。特に伝統改変といえたのは、カタカナみたく部首だけにおきかえた字を混ぜたところで、白川静レベルの漢字学者からみたら漢字文化への冒涜だった。しかし漢字はもともと遡れる形で筆画省略されてきたので、表音化に問題があるだけだ。
 すなわち「筆画省略」の方は、台湾でも日本でもむしろ効率の為まねていいと思うが(為だって为でいいだろう)、「部首とり表音化」の方は漢字の意味がわからなくなる点で必ずしもよくない(習が习だと羽と見分けつかぬ)。特に日本語だと仮名なる表音文字が確立済みなので、再輸入の価値がない。
 つまり
4.筆画省略は推進すべき

 また、冒頭の英人が(朝鮮語とか中国語みたく)漢字に1音を固定化しろといっていた点については、実は用法のほうで工夫すればできる。例えば「方」はホウともかたとも読めるので多音語と定義すると、文脈上どちらかに固定できるなら漢字を開いてほうと書けばいい。
 実はこの工夫は、僕は自分の文の技法として結構前から使っており、多音語の読み手は脳内で1度数パターンから最も正しい読みをサーチしているのだが、その分の手間をこちらで省いてあげている。ルビをふる必要性が減るので、ウェブの文体として記述に便利でもある。
5.多音語はできるだけかなで開く

 最後につけ加えておくと、将来、覇権言語に対する日本語の地位がどの辺りになるかに決定的な話題を上ではしていると思うが、最重要なのは伝統を変えたり、前に進めたりするとき過去との断絶が起きぬよう、時代の先鋒にいる者が熟慮と古典的教養をもって進路を適切に選んでいく事だろう。
 例えば現代中国語の学習者は古文を読みづらくなるし、朝鮮語の場合は更に、新たに学ばねば漢字すら読めない。だがかけがえない文化は各古語に保存されているのだから、いわば民族全体の知恵が徐々にぬけおちる様なものである。和文で在来・外来語をひらがなカタカナ等で書きわけ分類する習慣は大切だ。

追記:別のところで或る外国人が「難しい日本語の言語障壁のおかげで、英語圏と違い低IQの移民が入ってこない」と言っていた。これは重々考えるべき事だ。確かにその種の事実はありそうであり、一種の足きりとして機能している可能性がある。簡易日本語は、実は無用なばかりか有害なのかもしれない。
 英語圏だと、米大統領選の演説分析から、聴衆に白人より黒人が多いと、より平易な言葉を使う傾向が確認されたという(Cydney Dupreeら“Self-Presentation in Interracial Settings")。つまり移民社会のアメリカ英語にすら言葉の階級性が暗に残る以上、簡易日本語もその種の被差別言語になりかねない。
(実際東京のテレビでも、黒人の知識人キャラはまずみられず(逆に白人で多い)、明らかに馬鹿っぽく、または未開っぽく振舞ってうけをとる、事実に反するキャラクターでの出演がみられる。その種の稚拙な差別は都民一般によって無意識に行われておりBPOも気づいていない。言葉使いもそこに含まれる)
 津田幸男『日本語防衛論』、藤原正彦『祖国とは国語』など、英語帝国主義に対し国語教育を強化し、三島『文化防衛論』の延長上で文化防衛を図るべきという意見も保守論客の一部にある。この理屈だと日本語自身が更に難易度を上げた方がよいとなるが、京都文化みたく外部にわかりづらくなる懸念もある。
(既に日本語圏は高文脈な社会の一つといわれ日本人自身も不文律の「空気」を読むのに四苦八苦している)

 結局、難易度のバリエーションを広く内包しつつ、できれば学術言語として覇権をめざすのがよいのではないか。嘗てラテン語の地位を英語が奪った様、重要な日本語の学術文書がふえるのがよい。
 理想的なのは、子供でもわかるサブカルを経由して幼児から日本語に親しんだ外国人が、やがて一般的な日本文化を理解し、更には最高度の学術研究や日本思想の真髄にも参加できるルートをつくっておくことではないか。その種の人達がふえればふえるほど、わが国の移民が偏見で見下げられることもない。

 低言語IQの人達が参加しにくい言語障壁が、縁遠いインド・ヨーロッパ語族の人達に対し現にあるのは確かとして、裏返せば日本語で高度な議論をするため英語からシフトする動機がない。翻訳文化が発達するわけだ。手を拱いて英語学習費を全員負担し続けるのも不経済、簡易日本語を蜘蛛の糸と考えるべし。

追記2:さらに調べていて、1999年頃から弘前大の佐藤和之らが作り出した「やさしい日本語」の12の規則をみつけた。
 これを使った実験では小学低学年で約4倍、外国人留学生で約1.4倍よめたらしい。国語読解力の下がっている日本人への効果の方が高い可能性があるわけだ。
1.簡単な言葉を使う
2.分かち書きで一文を短く
3.重要語はそのまま
4.カタカナ外来語は控える
5.ローマ字禁止
6.擬音・擬態語禁止
7.簡単な漢字で全てかなをふる
8.時・年月日は略記しない
9.動詞を名詞化しない
10.曖昧表現を避ける
11.二重否定を避ける
12.文末を統一
またNHKのやさしい日本語ニュースや、災害時の表現にはこれらの規則が既に使われているのを知ったが、思うに、これは来日在日外国人より絶賛読解力低下中の日本人自身に4/1.4≒約3倍も役立つわけで、特に、一般にしぬほどわかりづらい行政文書とか法律も、できたらこの書式に倣えばいいのではないか?
 なぜ日本の行政文書がわざとわかりづらい霞ヶ関文法を連打し、明らかに国民全体へ嫌がらせしているかというと、実際、愚民観をもつ官僚主義の弊害というか、天皇制官尊民卑のいきついたはてでしかないだろう。象徴天皇政で共和政になっていないのでこの国害をとりのぞけていないが、時間の問題と思う。
 ちなみに、いわゆるゆとり教育を受けた世代で、本を一冊も読んだ事がないという或る大卒の人と長期文通して確かめた感じ、文脈が全く読めないとか、筆者の意図をよもうとせず勝手に主観をはさんでしまうとか、基本的読解力の低下は簡単な日本語でも解決できない。通常の国語教育も重要ということだ。