3日前に書いた『絵画の品位』という小論、自分で読み返して、結論が間違いだと分かった。
細かい分析はいいのだが、皇室は皮肉だろうが婉曲表現だろうが気に入らなければ平気で弾圧するからだ。彼らはやくざの大親分でしかない。3日前の自分は状況的に論じすぎている。
皇室を信じる、という態度は、完全に間違いだ。それをして明治維新を興した水戸尊皇志士の墓の列がある回天神社に、一度たりとも皇族が慰霊したことはない。天皇なんてそんなものなのだ。要するに古代奈良のやくざが洗脳を使って民草をごみの様に扱い、最高位を維持する邪教祖である。
なぜ婉曲表現なら弾圧可能性が低いかといえば、それをやったら表現弾圧として皇室が不利になってしまうからで、間接的に信者や権力を使って邪魔するくらいなら平気でやってくる筈だ。紫式部が弾圧受けなかったのはほぼ宮内職員の一人だった上に、陰の方で当時の腐女子職員に受けてたからに過ぎない。
そもそも平安期は一夫一妻主義が存在しなかった上に、純愛の概念がキリスト教の洗礼を受けていなかった段階なので、光源氏が浮気三昧、不倫三昧、近親相姦三昧、児童性愛三昧していようが、絶対権力を握っていた藤原家に近い皇太子キャラの淫行として、宮内の猿的女宮にキャアキャアいわれていたのだ。平安朝というか京都時代の皇族のその後をみてたら、ほぼ女官に手をつけて事実婚にもちこみ、その子を跡継ぎにするという、今日の目でみればかなり野蛮な一夫多妻が常套手段だった。つまりは皇族男子による強姦って裁かれなかったし、本居宣長のもののあわれ論みたいに寧ろ賞美されてさえいたのだ。これがいつまで続いていた慣行かといえばたった150年前まで現実にあった話なのだから、皇族と最下等の町人に強姦罪なんてほぼ存在していなかったのである。それがあるとしても貧乏下級武士が一夫一妻に近かったので妻を取られたら相手を切り捨て御免可能だったくらいの限られた感じだったのだ。
生態的同位種というか、封建領主制は洋の東西で似ていたので、偶然の一致で武士と騎士は一夫一妻主義にある程度近い封建道徳をもっていた。まあ厳密には武士の方は貧乏だからそうなっていただけで騎士の方はキリスト教の建前があったからだろうけど。そして純愛主義の中に封建道徳が流れ込み、一夫一妻制度が成立し、後それがアメリカの影響などで崩れてロマンチックラブ・イデオロギーになる。
要は皇族の婚姻劇なんて実は最近の欧米風俗の表面的な真似で、元々やくざな不倫・強姦もどきの配偶法を1200年もくりかえしていた一族にすぎない。
話を戻すと、つまり皇族が民間の反天表現に直接介入してこないのは、表現の自由によって訴訟リスクがあるからで、本来は日帝がやってた様な大弾圧を加え兼ねない筈なのだ。たった74年だか前に天皇家は確かに国民全員の表現規制をしていて、それどころか疑わしきを罰しまくり、特別高等警察なるゲシュタポ級の傀儡組織を使ってひたすら首狩りみたいな冤罪事件を連打していたのだ。冤罪というか当時の法体系では疑わしいだけで一方的に逮捕され、実刑になっていたのである。
そう考えると宮内記者会を頂点とした記者クラブなる全国網を持つ報道カルテルがいかに天皇タブーに触れないよう異様な報道管制を敷いているか本当に恐るべき構造だ。前近代的なんて次元ではなく特高の名残なので、検閲も平気でやっている。だから少女像だけとりあげ御影焼きに触れない。
小沢一郎氏が冤罪にかけられたのも、鳩山由紀夫内閣が潰されたのも、はっきりいって宮内記者会による陰謀だろう。まあその背後に平成天皇(現上皇)がいたのも間違いないというか、はじめの彼による習近平接受拒否がそもそも傲慢すぎる形式主義だったのは実際会ったのからも明らかであろう。宮内職員のせいにして、いつもの無答責で、上皇明仁氏がほぼ直接国政介入した歴史の汚点を一般右翼は隠すのだろうが、国民主権や憲法解釈からいったら当時、小沢氏のいっていた内閣責任の範囲に公的接受はあたるので、宮内庁長官とつるみ明仁氏が冤罪攻撃をしかけた主体といっても間違いないと思う。
この明仁氏の恣意は強烈に国政を駄目にした。その後の展開をみてたら安倍独裁政の直接原因が明仁氏による冤罪攻撃だったのが間違いない。少なくとも震災があったとしても菅直人政権に変わっていなかったろうし、小沢氏も権力を保ち、今ほど自由派が弾圧され薩長寡頭政に退化していなかった筈だ。
愛知県知事・大村氏は空気を読み御影損壊の展示を早期撤回した「官僚的な優等生」だったが、スラップ訴訟を得意とする大阪府知事・吉村氏を、大阪民度への偏見から下手に挑発し、事を荒立ててしまっている。元々大村氏が模範解答じみた表現自由無制限論を述べているのも、天皇を間接的に挑発している。大村氏はこの種の人情に鈍感というか、天皇と名乗るガチやくざ中のやくざ、邪教祖中の邪教祖をなめすぎているのが大炎上の原因だ。彼ら一族は大化の改新から問答無用で1374年も大量殺人をくりかえしてきた暴力団長で、今では神道なる自己神格化の狂信的な殺人宗教勢力も国家単位で大規模にもっている。
要は表現自由の盾なんて天皇の手先からしたら自殺テロ一発で突き崩せるものなのは日本史上で「義士」扱いされてる尊皇派を掘り起こせば一瞬で分かる。その種の狂信的カルト列島だからこそ原爆投下されても万歳三唱し、人間魚雷で勝ち目のない戦に特攻していたのである。
自分のエッセイを修正するとしたら、「神道カルトはどんな手でも使ってくると心得て、あらゆる戦術を駆使し、皇室表現を扱え」ということ。婉曲的なら脅迫されないとかそんな話ではない。歴代天皇は不都合なら相手を日本史から普通に抹殺していたのである。表現自由とか全く関係ない。
2019年8月9日
命
どんなに言葉を極めても
どんな技を身につけても
君の美しさには届かない
だから私は絵描きをやめ
今すぐどの言葉も捨てるべきで
君の前にこの世の華という華をかき集め
終わりなきとわに比べた瞬くま
消え去りえないまことを誓うべきだろう
たとえ死に臨んでも
君より尊い命などないのだから
どんな技を身につけても
君の美しさには届かない
だから私は絵描きをやめ
今すぐどの言葉も捨てるべきで
君の前にこの世の華という華をかき集め
終わりなきとわに比べた瞬くま
消え去りえないまことを誓うべきだろう
たとえ死に臨んでも
君より尊い命などないのだから
愛知県知事大村氏とあいちトリエンナーレ2019芸術監督津田氏による捜査不能との虚偽の弁
愛知県知事大村秀章氏が、天皇ヘイトに触れた逆風の余りの激しさに腰が引け、東大論法・霞ヶ関文学風の修辞のつもりでいった「被害届を出したが送り先は確認できない」が犯人逮捕で虚偽とばれた。脅迫でやむをえない検閲なる虚構の筋書きにあうようちょっとした出来心で、会見で嘘をついた可能性がある。
2019年8月2日~3日の時点で津田大介・大村の両氏は脅迫を理由に検閲するシナリオを書き、天皇タブー検閲の「建前」となる嘘を、考慮に欠き会見に入れ込んだ。
又は、愛知県警が3日~6日の間に曖昧な言動を使い分け
1.展覧会中止
2.犯人逮捕
の2目的を兼ねるため大村・津田氏をはめた、いずれかだ。
愛知県知事・大村氏は、事実上、津田氏・東氏らのアートテロ策謀による特定宗教ヘイト作品(今回なら神道を狙い撃ちした天皇ヘイト)を許可している第一責任者なのに、会見で自分の検閲を脅迫者や抗議者の責任にすりかえて詭弁を使った。
結局、愛知県警の担当者側は、大村氏に反感をおぼえていて、3日の時点で展覧会中止を暗に決定させるため知事を騙し討ちした可能性が出てくる。これがあたらずといえども遠からずなら、文民統制に触れるかもしれない。警察が知事の命令に従わないどころか、尊王思想で知事に虚偽を伝えたことになる。
2019年8月2日~3日の時点で津田大介・大村の両氏は脅迫を理由に検閲するシナリオを書き、天皇タブー検閲の「建前」となる嘘を、考慮に欠き会見に入れ込んだ。
又は、愛知県警が3日~6日の間に曖昧な言動を使い分け
1.展覧会中止
2.犯人逮捕
の2目的を兼ねるため大村・津田氏をはめた、いずれかだ。
愛知県知事・大村氏は、事実上、津田氏・東氏らのアートテロ策謀による特定宗教ヘイト作品(今回なら神道を狙い撃ちした天皇ヘイト)を許可している第一責任者なのに、会見で自分の検閲を脅迫者や抗議者の責任にすりかえて詭弁を使った。
結局、愛知県警の担当者側は、大村氏に反感をおぼえていて、3日の時点で展覧会中止を暗に決定させるため知事を騙し討ちした可能性が出てくる。これがあたらずといえども遠からずなら、文民統制に触れるかもしれない。警察が知事の命令に従わないどころか、尊王思想で知事に虚偽を伝えたことになる。
2019年8月8日
結婚報道の差
清潔なイメージが大事な政治家が婚前交渉を開き直って発表したのはヤンキー的なものだからまだしも、官邸前でそれを全国公表したからブルボン王朝視が否応なくはじまるのであり、「特権階級化したセレブ議員」なるスティグマが進次郎に貼りつけられてしまった。自分で貼ったんだけど。
眞子内親王と小室圭氏のときは引き返せない懐妊までなかったから進次郎議員よりは上品っぽく月と太陽の詩まで飛び出て、完全にロミジュリ効果の象徴になった。進次郎のほうはなんらロマンティシズムの香りがなく、猿のたとえとか底の浅いやくざ上がり世襲議員の地金が出まくってて、過剰評価がばれた。
現実の眞子氏と小室氏は電車の中で写真見せてといって接近し、ぶさいくだからやだ~などいちゃつくなどただの俗人なんだけど、演技がうまい。演技力だけで皇族か、ただの議員か別れるんだから、国政の内幕ってまさに猿芝居なんだろう。しかも大和王朝の昔から。
改めて思うのは社会民主主義の欺瞞だ。一体なぜ我々、経済・社会的弱者にして現制度の犠牲者(しかも独身、子なし)がセレブ議員の子育てに彼よりはるかに少ない貯金から税を払うのか。どうみても山本太郎理論の破綻ではないのか。
経済・社会弱者を恵むのが社民主義で、それを通俗化した山本太郎人気主義だというなら、なぜその非累進的な制度で弱者がますます不利になるのか。MMTの最終負担は国債を買う銀行・保険から間接的に、全国民のうち最も貯金が少ない人々により重くかかってくるのだが。なぜまともに累進課税を目指さぬ。
眞子内親王と小室圭氏のときは引き返せない懐妊までなかったから進次郎議員よりは上品っぽく月と太陽の詩まで飛び出て、完全にロミジュリ効果の象徴になった。進次郎のほうはなんらロマンティシズムの香りがなく、猿のたとえとか底の浅いやくざ上がり世襲議員の地金が出まくってて、過剰評価がばれた。
現実の眞子氏と小室氏は電車の中で写真見せてといって接近し、ぶさいくだからやだ~などいちゃつくなどただの俗人なんだけど、演技がうまい。演技力だけで皇族か、ただの議員か別れるんだから、国政の内幕ってまさに猿芝居なんだろう。しかも大和王朝の昔から。
改めて思うのは社会民主主義の欺瞞だ。一体なぜ我々、経済・社会的弱者にして現制度の犠牲者(しかも独身、子なし)がセレブ議員の子育てに彼よりはるかに少ない貯金から税を払うのか。どうみても山本太郎理論の破綻ではないのか。
経済・社会弱者を恵むのが社民主義で、それを通俗化した山本太郎人気主義だというなら、なぜその非累進的な制度で弱者がますます不利になるのか。MMTの最終負担は国債を買う銀行・保険から間接的に、全国民のうち最も貯金が少ない人々により重くかかってくるのだが。なぜまともに累進課税を目指さぬ。
進次郎の実績
進次郎震災の後わがいちに来て復興官していたのは事実
音頭とり他県の知事選干渉し俗受け狙うポピュリズムも事実
某議員全会一致で排除した国会に一人反対も事実
芸能人気取りで官邸背景に懐妊報道下賎なるも事実
音頭とり他県の知事選干渉し俗受け狙うポピュリズムも事実
某議員全会一致で排除した国会に一人反対も事実
芸能人気取りで官邸背景に懐妊報道下賎なるも事実
反天DAYS
俺は東京生まれサブカル育ち
悪そうな奴は大体友達悪そうな奴と大体同じ
カジュアルブロックしながらみてきたこの町
駒場五反田そう博士課程も早々にしかも同棲し
原発なら置きっぱなしてきた福島に
マジいわきに迷惑かけた本当に
だが時は経ち今じゃ新聞で炎上
そこらじゅう脅迫きかすBAN DADA
コロスリスト入れたらマジでNo.1
愛知代表トップアート素人だ
そうこの地この国にチャンス授かり
河村に無敵の説教預かり
黒瀬たちひろゆきたち大村たちに
今日も感謝して進む荒れたオフロード
悪そうな奴は大体友達悪そうな奴と大体同じ
カジュアルブロックしながらみてきたこの町
駒場五反田そう博士課程も早々にしかも同棲し
原発なら置きっぱなしてきた福島に
マジいわきに迷惑かけた本当に
だが時は経ち今じゃ新聞で炎上
そこらじゅう脅迫きかすBAN DADA
コロスリスト入れたらマジでNo.1
愛知代表トップアート素人だ
そうこの地この国にチャンス授かり
河村に無敵の説教預かり
黒瀬たちひろゆきたち大村たちに
今日も感謝して進む荒れたオフロード
議論嫌いの中身は論理的無能
高度な中身のある議論を好まない人は、独りのとき脳内でもその種の過程を経ていない。本質的に論理的知性の質は、或る人とわずかに会話しただけでもわかる。脳内で常々その種の厳しい操作を行っている人は理路を整理するのに慣れているから。無論、非論理的な表現ができる(感情表現等)のと別文脈で。
知的謙虚さは分別によっている
我々に全てがわかるということ、つまり全知は永遠にこないので、重要なのはわかる範囲とそうでない範囲をきちんと見分けることだ。我々が間違えるのはこの分別を失ったときである。例えば神性を公言し始めた教祖とか、なんらかの肩書きでとりまきらの権威になった人にみられる知的高慢さ。
2019年8月7日
賛美歌
学ぶのだ
だがなにを
死までのときに
すごす時のできるだけすべてを
君に捧げるための手順を
その宇宙に僕が色とりどり夢を描き
君の魂を浄化するための技を
学ぶのだ
死まですぐなら
君の喜びという名の救いの定義を
わが命が燃え尽き
あとに残るのがこの歌だけでも
偉大な勇気を
限りない賛美と共に
だがなにを
死までのときに
すごす時のできるだけすべてを
君に捧げるための手順を
その宇宙に僕が色とりどり夢を描き
君の魂を浄化するための技を
学ぶのだ
死まですぐなら
君の喜びという名の救いの定義を
わが命が燃え尽き
あとに残るのがこの歌だけでも
偉大な勇気を
限りない賛美と共に
哲学とはよりよく生きることそのもの
柄谷も浅田も東浩紀も現実の政治運動では無力を晒しまくった。この系譜は空想的左派と分類されるのだろうが、津田氏は東・浅田を頭脳なり背骨にしたので活動家としての政治勘のなさまで受け継いでしまった。
今回の致命傷は、彼の今後のメディア活動のどこでも右派全体からの汚名として作用する筈。
東浩紀の場合、そもそも彼は特定の政治思想をもっているというより、クールジャパン発生のとき猪瀬都知事にロビー活動し、村上隆と共にオタクアートの権威づけを行ったとき以外は、棄権よびかけ問題くらいだけど。それ以外はほぼ有料情報やブロックの城で囲い込み、「知的なノンポリ」ごっこしていた。「知的なノンポリ」って哲学の伝統からみたらある種の虚構への逃避というか、そもそも清談やポリスの理想として最初期から政治哲学が全学問の最高段階の知恵といえるのに、東氏は内輪受けする学閥マウント稼業みたいな閉じた言論空間を作り、一種の新興宗教教祖みたいになっている。
津田氏はそのゲンロン教団とほぼ一体化しており、今回の展示も蓋をあけてみればアヅマ教義が現実社会ではまるで通じない論理になってしまっていた。政治的リアリズムが全く欠けているから、彼らの教団一派は今後も閉じた権威づけサーキットの内外で色々な炎上、しかも異様な狂気を起こす筈だ。
老荘やストア派みたく政治的逃避を主義していた思想家もいたが、アヅマ教団のそれは隠遁の部類のものではない様に思う。寧ろ今回のアートテロのよう排他的同調者らの閉じた輪の内で、過激派の反響室をつくる類のものと思う。それで極左アートテロの類を僕が「過激」と指摘しても津田氏は見逃していた。
一体その種の知性って、ごっこ遊びの類でなければなんだというのか。ほぼなんでも自分に同調してくる暗愚なお仲間や金を払ってくれる信者へ、日がな現実感のない教義を説く。柄谷や浅田がやっていたファッションえせ知識人ごっこでしかなかった批評空間なる思想誌。今日読んでも俗物の虚勢でしかない。
彼らの愚劣過ぎる知性ぶった虚勢って、いわゆるソーカル事件で批判対象になった意味での「ポストモダン」に分類されるのだろうけど、中身はほぼ全部が無意味なスノビズムの塊でしかない。
僕は東浩紀の本で1度も感心したこともなければ、小説はぱらぱら読んでて吐き気するほど酷くてびっくりした。どこにびっくりしたかといえば、『クオンタムファミリーズ』というやつで気持ち悪いオタクの主人公みたいなのが自慰し始めたのだ。なんというか文芸として成り立っていない似非私小説なんだけど、単に醜悪なだけで、それで東京の三流馬鹿作家どもや出版社に同業組合賞もらって威張っているのだ。
村上春樹も大江健三郎も石原新太郎もあらかた読んで今思うと全部色々俗悪で酷いなと思うのだが、東浩紀の小説はモドキなばかりか単に本気で吐き気がする描写が一箇所あるだけで、ほかにどんな感慨も出てこないものだった。一体全体、そんなのが驕りまくるポストモダンの自称知性って虚でなければ何か。
簡単にいってしまうと、彼らは学閥既得権みたいなのとか文芸誌の箔づけごっこ、都内マスコミとつるんでの俗受けばかり狙っていて何一つ、知性と呼べる代物は入っていない。まあはっきりいうとごみで金儲けしている。それに大喜びしてる連中が少数ながらいるのでいいのかもしれないが、僕は近づかない。
今回の大炎上は傍目にみてて痛快ではあったが、別に今回に限らずいずれこうなるのは規定路線だった気もする。ソーカル事件のアートテロ版みたいなものだ。中身の空っぽな悪戯レベルの内輪ウケは、何も都内マスコミだけでなく大学界も出版界もほぼ全部を侵食しきっている。東京文化圏は腐っているのだ。大企業病みたいなものとして東京文化圏を蝕んでいるのは、学閥利権ではないかと今回感じた。アヅマ教団幹部の顔ぶれはほぼ東京圏の偏差値序列で埋められ、頂点に東大博士の東浩紀教祖が君臨する儀礼をとる。笑う身分制。なにせ知性の印ですらない学閥を露骨に位階にしてるのは科挙ブラックジョークだ。
学問なり芸術の本質って、彼らがおもってる類の洋学仕草では全くないのだ。単に人が懸命に真理を探究している姿だったり、その議論の中身そのものに結晶している立派な知恵だったり、或いは人として恥ずかしくないものを残そうと妥協のない表現になんとか迫る純粋すぎる魂だったりする。
僕がみたというか間接的に眺めた範囲で、最も僕の人生に影響を与えたのは妹島和世さんの事務所とそこが兼ねてたSANAAでみた彼女の全力を捧げた仕事に対する姿勢だった。それは現場でみないとわからないというか、そもそも全員が理想の設計に魂を捧げている。妥協のない自己犠牲を限界までやっている。ここで十分説明できているとは思わないが、言語化して残せる部分にできるだけ僕が感じたことを後生に伝えたいけど、もっとスペースのある別のところで書く。とにかく自分は畏敬の念を感じた。尊敬できる人の下で働きなさい、とバフェットが言ってたがあれは本当と思う。人生によい影響を与えるからだ。
僕の行ってた専門学校の講師はほぼ全員実務やってる建築士だったり、いわゆる建築家と一応名乗ってる類の人はみたが、一流と二流を分けているものは仕事への真剣さだ。人生自体を含め完全に全身全霊を一点に捧げないと一流になれない。みな途中で恐れて逃げたり妥協する。それで一流の数が少ないのだ。
一流と二流は実際にはすぐわかるもので、二流の方が威張ってたり派手だったりするものだ。たとえ偽物にどれほどメッキしてもすぐ剥げてくる。僕は一流の人を人生で一人だけ間近にみた。それが妹島氏だったが、古今の建築家でも彼女は世界史に残る人なのは間違いないと感じた。他の人達と根が違うのだ。
孔子が「年40にして悪まれるはそれ終わらんのみ」とか、仏陀が「ただ年をとっただけなら空しく老いぼれた人と呼ばれる」と説教してたのは、長幼の序が成立するのは或る人の徳によっているという意味だろう。
孔子の弟子だった子夏は『論語』学而第一の七で「徳行の優れた人なら学歴がなくとも既に学んだとみなしていい」といっている。これも洋学仕草がただの教養俗物を作るポストモダン的なものなら空しいと示している。それどころか学歴学閥の後光を種に金儲けするの類は、孔子が「浮雲」というとおりだ。
現時点の政府や企業は、マイケルスペンスのシグナリング理論に基づく学歴差別を行っている。安冨歩氏が指摘するとおりこれが人間軽視の風潮に拍車をかけているのは間違いない。徳行面が優れている人と、単に学歴だけ立派な俗物なら後者が出世する組織では、当然ながらろくな結果を出せないだろう。バフェットは採用時の経歴書で学歴をみない、ただ実績だけ見るといっていた。或いは仕事のパートナーなり経営者にとって最も大事なのは人格だとも。つまり彼は孔子、仏陀、子夏らと多かれ少なかれ同じ観点をもっているのだ。何の実績もない時点でも既に人徳者で、独学した人というのがいるのだから。
科学主義は人々の知能のうち、特定分野の研究史的潮流を知っていることに余りに重きを置きすぎている。それは確かに一定の学習を意味しているにしても、応用のきく知能の証拠でもなければその知識そのものが将来的に否定され間違いな場合すらある。科学的知能を主とする限り、狂った科学者が出現する。
科学を主に教える大学までの教育課程は、別の言い方をすれば洗脳だ。研究史の履歴を辿らせ教条的に試験するのだからゆたぼんがいう「ロボット」の方が得意といいかえてもいい。勿論、科学者としては研究史を踏まえつつ別課題をみつけたり、既存知識の誤りを修正する。だがこれは倫理と特に関係がない。研究倫理とか科学者倫理という狭義の学会文法はあるものの、本質的に倫理は後自然学的なもの、科学の後に自ら考えるもので、故に上位の知恵である。どれほど科学的に優れていても乱用すれば却って悪い結果をもたらすかぎり、各科学はどれも道徳的な文明社会にとっての道具でしかないからだ。
いわゆる哲学という語彙は、科学を下位の要素として踏まえつつ、この種の倫理を考究する広義の知的活動の総称だ。その中には全芸術の工学的側面や、趣味の批評も含まれているので、応用科学のみならず感性論や感情知能、美学といった審美的要素も扱う。つまり道徳とは本来、全学問の総合的知見である。
ではアヅマ教団はどうか? 彼らがプラトンや孔子の学園式に全学の総合を行えているか。
自分の見るかぎり全然そうではない。単に真を穿った異見に排他的なばかりか不埒極まりない教義をうみだし、今回でいえば昭和天皇の侮辱が行政展で可と判定してしまった。結果からいえば、大衆に批判された。
なぜ東浩紀一派が排他教団化していて、本来の哲学が斯くあるべき全学の総合、即ち全批評の止揚を行えないか。それは彼の知恵を愛する心が足りないからなのである。ソクラテスがそうしたよう大衆の只中に自ら進んで行って、賢者らと議論を重ねる必要がある。それが哲学という活動、つまり対話術なのだ。下らない選良主義もどき、今回でいえば身分制じみた学閥・学歴・学位序列だのが含まれるが、それは自分のもっている知識と似た知識の者を近づけ、寧ろ知恵の本体というべき未知の世界を遠ざけるだけだ。哲学は全知全能を前提にしなければ永遠に全徳に到達しない。多重知能的に、異なる人に学ぶべきだ。
津田氏は盟友の選択を間違えた。東浩紀氏は上記の理由で、真に知恵を愛する人ではなく、親友の破滅を多かれ少なかれ予想しながらも面白がってアートテロで炎上させたり、それどころか元々徳を探求していないので差別観を弄して一般大衆を食い物にしている。人徳とは全人類をよりよく導くものなのに。
アヅマ教団は今後も二転三転しながら然るべき末路を得るだろう。自分がここでいいたかったのは、哲学の王道とは決して洋学仕草だの大学風だので履行できる代物ではないということだ。それは純粋な徳の探求で、最も知恵を愛する人へ与えられた最高の仕事の一つなのと同時に、よく生きることそのものだ。
今回の致命傷は、彼の今後のメディア活動のどこでも右派全体からの汚名として作用する筈。
東浩紀の場合、そもそも彼は特定の政治思想をもっているというより、クールジャパン発生のとき猪瀬都知事にロビー活動し、村上隆と共にオタクアートの権威づけを行ったとき以外は、棄権よびかけ問題くらいだけど。それ以外はほぼ有料情報やブロックの城で囲い込み、「知的なノンポリ」ごっこしていた。「知的なノンポリ」って哲学の伝統からみたらある種の虚構への逃避というか、そもそも清談やポリスの理想として最初期から政治哲学が全学問の最高段階の知恵といえるのに、東氏は内輪受けする学閥マウント稼業みたいな閉じた言論空間を作り、一種の新興宗教教祖みたいになっている。
津田氏はそのゲンロン教団とほぼ一体化しており、今回の展示も蓋をあけてみればアヅマ教義が現実社会ではまるで通じない論理になってしまっていた。政治的リアリズムが全く欠けているから、彼らの教団一派は今後も閉じた権威づけサーキットの内外で色々な炎上、しかも異様な狂気を起こす筈だ。
老荘やストア派みたく政治的逃避を主義していた思想家もいたが、アヅマ教団のそれは隠遁の部類のものではない様に思う。寧ろ今回のアートテロのよう排他的同調者らの閉じた輪の内で、過激派の反響室をつくる類のものと思う。それで極左アートテロの類を僕が「過激」と指摘しても津田氏は見逃していた。
一体その種の知性って、ごっこ遊びの類でなければなんだというのか。ほぼなんでも自分に同調してくる暗愚なお仲間や金を払ってくれる信者へ、日がな現実感のない教義を説く。柄谷や浅田がやっていたファッションえせ知識人ごっこでしかなかった批評空間なる思想誌。今日読んでも俗物の虚勢でしかない。
彼らの愚劣過ぎる知性ぶった虚勢って、いわゆるソーカル事件で批判対象になった意味での「ポストモダン」に分類されるのだろうけど、中身はほぼ全部が無意味なスノビズムの塊でしかない。
僕は東浩紀の本で1度も感心したこともなければ、小説はぱらぱら読んでて吐き気するほど酷くてびっくりした。どこにびっくりしたかといえば、『クオンタムファミリーズ』というやつで気持ち悪いオタクの主人公みたいなのが自慰し始めたのだ。なんというか文芸として成り立っていない似非私小説なんだけど、単に醜悪なだけで、それで東京の三流馬鹿作家どもや出版社に同業組合賞もらって威張っているのだ。
村上春樹も大江健三郎も石原新太郎もあらかた読んで今思うと全部色々俗悪で酷いなと思うのだが、東浩紀の小説はモドキなばかりか単に本気で吐き気がする描写が一箇所あるだけで、ほかにどんな感慨も出てこないものだった。一体全体、そんなのが驕りまくるポストモダンの自称知性って虚でなければ何か。
簡単にいってしまうと、彼らは学閥既得権みたいなのとか文芸誌の箔づけごっこ、都内マスコミとつるんでの俗受けばかり狙っていて何一つ、知性と呼べる代物は入っていない。まあはっきりいうとごみで金儲けしている。それに大喜びしてる連中が少数ながらいるのでいいのかもしれないが、僕は近づかない。
今回の大炎上は傍目にみてて痛快ではあったが、別に今回に限らずいずれこうなるのは規定路線だった気もする。ソーカル事件のアートテロ版みたいなものだ。中身の空っぽな悪戯レベルの内輪ウケは、何も都内マスコミだけでなく大学界も出版界もほぼ全部を侵食しきっている。東京文化圏は腐っているのだ。大企業病みたいなものとして東京文化圏を蝕んでいるのは、学閥利権ではないかと今回感じた。アヅマ教団幹部の顔ぶれはほぼ東京圏の偏差値序列で埋められ、頂点に東大博士の東浩紀教祖が君臨する儀礼をとる。笑う身分制。なにせ知性の印ですらない学閥を露骨に位階にしてるのは科挙ブラックジョークだ。
学問なり芸術の本質って、彼らがおもってる類の洋学仕草では全くないのだ。単に人が懸命に真理を探究している姿だったり、その議論の中身そのものに結晶している立派な知恵だったり、或いは人として恥ずかしくないものを残そうと妥協のない表現になんとか迫る純粋すぎる魂だったりする。
僕がみたというか間接的に眺めた範囲で、最も僕の人生に影響を与えたのは妹島和世さんの事務所とそこが兼ねてたSANAAでみた彼女の全力を捧げた仕事に対する姿勢だった。それは現場でみないとわからないというか、そもそも全員が理想の設計に魂を捧げている。妥協のない自己犠牲を限界までやっている。ここで十分説明できているとは思わないが、言語化して残せる部分にできるだけ僕が感じたことを後生に伝えたいけど、もっとスペースのある別のところで書く。とにかく自分は畏敬の念を感じた。尊敬できる人の下で働きなさい、とバフェットが言ってたがあれは本当と思う。人生によい影響を与えるからだ。
僕の行ってた専門学校の講師はほぼ全員実務やってる建築士だったり、いわゆる建築家と一応名乗ってる類の人はみたが、一流と二流を分けているものは仕事への真剣さだ。人生自体を含め完全に全身全霊を一点に捧げないと一流になれない。みな途中で恐れて逃げたり妥協する。それで一流の数が少ないのだ。
一流と二流は実際にはすぐわかるもので、二流の方が威張ってたり派手だったりするものだ。たとえ偽物にどれほどメッキしてもすぐ剥げてくる。僕は一流の人を人生で一人だけ間近にみた。それが妹島氏だったが、古今の建築家でも彼女は世界史に残る人なのは間違いないと感じた。他の人達と根が違うのだ。
孔子が「年40にして悪まれるはそれ終わらんのみ」とか、仏陀が「ただ年をとっただけなら空しく老いぼれた人と呼ばれる」と説教してたのは、長幼の序が成立するのは或る人の徳によっているという意味だろう。
孔子の弟子だった子夏は『論語』学而第一の七で「徳行の優れた人なら学歴がなくとも既に学んだとみなしていい」といっている。これも洋学仕草がただの教養俗物を作るポストモダン的なものなら空しいと示している。それどころか学歴学閥の後光を種に金儲けするの類は、孔子が「浮雲」というとおりだ。
現時点の政府や企業は、マイケルスペンスのシグナリング理論に基づく学歴差別を行っている。安冨歩氏が指摘するとおりこれが人間軽視の風潮に拍車をかけているのは間違いない。徳行面が優れている人と、単に学歴だけ立派な俗物なら後者が出世する組織では、当然ながらろくな結果を出せないだろう。バフェットは採用時の経歴書で学歴をみない、ただ実績だけ見るといっていた。或いは仕事のパートナーなり経営者にとって最も大事なのは人格だとも。つまり彼は孔子、仏陀、子夏らと多かれ少なかれ同じ観点をもっているのだ。何の実績もない時点でも既に人徳者で、独学した人というのがいるのだから。
科学主義は人々の知能のうち、特定分野の研究史的潮流を知っていることに余りに重きを置きすぎている。それは確かに一定の学習を意味しているにしても、応用のきく知能の証拠でもなければその知識そのものが将来的に否定され間違いな場合すらある。科学的知能を主とする限り、狂った科学者が出現する。
科学を主に教える大学までの教育課程は、別の言い方をすれば洗脳だ。研究史の履歴を辿らせ教条的に試験するのだからゆたぼんがいう「ロボット」の方が得意といいかえてもいい。勿論、科学者としては研究史を踏まえつつ別課題をみつけたり、既存知識の誤りを修正する。だがこれは倫理と特に関係がない。研究倫理とか科学者倫理という狭義の学会文法はあるものの、本質的に倫理は後自然学的なもの、科学の後に自ら考えるもので、故に上位の知恵である。どれほど科学的に優れていても乱用すれば却って悪い結果をもたらすかぎり、各科学はどれも道徳的な文明社会にとっての道具でしかないからだ。
いわゆる哲学という語彙は、科学を下位の要素として踏まえつつ、この種の倫理を考究する広義の知的活動の総称だ。その中には全芸術の工学的側面や、趣味の批評も含まれているので、応用科学のみならず感性論や感情知能、美学といった審美的要素も扱う。つまり道徳とは本来、全学問の総合的知見である。
ではアヅマ教団はどうか? 彼らがプラトンや孔子の学園式に全学の総合を行えているか。
自分の見るかぎり全然そうではない。単に真を穿った異見に排他的なばかりか不埒極まりない教義をうみだし、今回でいえば昭和天皇の侮辱が行政展で可と判定してしまった。結果からいえば、大衆に批判された。
なぜ東浩紀一派が排他教団化していて、本来の哲学が斯くあるべき全学の総合、即ち全批評の止揚を行えないか。それは彼の知恵を愛する心が足りないからなのである。ソクラテスがそうしたよう大衆の只中に自ら進んで行って、賢者らと議論を重ねる必要がある。それが哲学という活動、つまり対話術なのだ。下らない選良主義もどき、今回でいえば身分制じみた学閥・学歴・学位序列だのが含まれるが、それは自分のもっている知識と似た知識の者を近づけ、寧ろ知恵の本体というべき未知の世界を遠ざけるだけだ。哲学は全知全能を前提にしなければ永遠に全徳に到達しない。多重知能的に、異なる人に学ぶべきだ。
津田氏は盟友の選択を間違えた。東浩紀氏は上記の理由で、真に知恵を愛する人ではなく、親友の破滅を多かれ少なかれ予想しながらも面白がってアートテロで炎上させたり、それどころか元々徳を探求していないので差別観を弄して一般大衆を食い物にしている。人徳とは全人類をよりよく導くものなのに。
アヅマ教団は今後も二転三転しながら然るべき末路を得るだろう。自分がここでいいたかったのは、哲学の王道とは決して洋学仕草だの大学風だので履行できる代物ではないということだ。それは純粋な徳の探求で、最も知恵を愛する人へ与えられた最高の仕事の一つなのと同時に、よく生きることそのものだ。