煙草を吸う女。こういう女から産まれた子供は悲惨だろう。生来不健康のハンディキャップはないから。
2007年8月31日
2007年8月29日
2007年8月28日
2007年8月27日
信仰
愚民は純潔の意義が道徳にある事を知らぬ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。
君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。
君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。
2007年8月25日
性愛論
一夫一妻制度に適応しない個体は淘汰されて行く。人類は種の最多種化の為、如何なる個体へも繁殖の機会を提供しようと企画するから、害他的変異、つまりそのくみあわせをへらしてしまう姦淫を行う浮気者と、場合によっては同様の業を制度化する多妻主義者だけを厭う。
地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。
地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。
2007年8月24日
社会的幸福論
幸福そのものは人間の調和を意味する。社会と自然の調和が人間を築く。我々は獣性から神性へと絶えず導かれる。人間には度合いがあり、個性はその多様観をつくる。しかし如何なる個性と雖も精神向上への漸進にある。知能は人類を獣類からしかと見分ける唯一の特徴である。従って精神性も知能の範囲にある。それは彼らへ特定の性格を持たせて遠類の不条理から離脱させた。
人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。
人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。
文明論
文明化が野蛮からの脱出である限りそれは知能に原因する人間の精神化だろう。
福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。
福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。
2007年8月23日
実践理性と死
もし理性という働きそのものからの解放を求めるなら自殺する他にあり得ない。
義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。
義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。
聖性
権力構造は同時代的な作為である以上、理想趣味の為の利用価値しかない。政治家はこの意味で実践者としてしか存在しない。些かもその価値を減退する内容ではないが。
アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。
アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。
人類文明論
人々は宇宙の形態の一類に過ぎず、自らの集団生活を保つ為に文明を営々と築き上げる。彼らの構造はこうだ。しかし、なぜ君の魂はその中に含まれてしまったのか。実存は単に偶然でしかない。だが、その偶然は一度起こった以上何度でも繰り返される。人間は永続する。それは精神という仕方で永久に生き延びようとするアキレスに似ている。すべての文化とは哺乳類の繁殖活動から離脱した個体群による架構。人類の貧弱さを省みれば彼らは猿類界の敗惨者だったが、同時にその逃避によっていつしか新たな一族を物す。人類はそうして成立した哺乳類の一類だったし、これからも命ある限りそうだろう。果たして哺乳類自体にどのくらいの生存力があるのか我々は究極のところ想像的にしか予測できない。だがその想像は彼らに信仰の基礎、当為ないしは理想を与える。文明は理想に協賛する一族を新たに人類内に建築しようとする。文明人類とは人類そのものと次第に区別される。いわゆる文明国とそれ以外との格差の両端は永久に縮まないだろう。両者の中に存在している最高度の知能とチンパンジーに類似した野蛮人との生息条件とは殆ど同じ生物だとは感じられない程に異なって行くこと。
全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。
全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。
男女別義
数十億年かけて育んで来た地球生態観が朝礼暮改なしうる筈はない。よってfeminismは単に方便の増長をもたらすに過ぎない。白人社会で男女同権が適応的となったのはアメリカ文化のわずか200年前後の影響波に過ぎず、いずれ矛盾の露呈により愍滅されるだろう。
市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。
市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。
2007年8月22日
芸術論
文学に於けるrealismは絵画や彫刻に於ける場合と同様に幻想に過ぎない。芸術についてrealismはillusionismの換言である他ない。
幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。
幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。
思潮論
学術は文化史脈上にしか実在しない。それは見えない人々にとっては生涯見えず、見なくて済むものでさえある。
文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。
文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。
2007年8月21日
脱自由主義説
人間の世俗的価値は肩書きにしか存在しない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。
権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。
爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。
「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。
我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。
日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。
世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。
いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。
権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。
爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。
「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。
我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。
日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。
世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。
いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。
2007年8月20日
生死
全ての人間は時を経て死ぬ。その人に価値があるか否かは他の人によってしか測り得ない。人は人間にしか存在しない。意識を失う瞬間が自然に訪れるとは限らず、人間は常に生き方の表示を延長させて行く所にのみ存在価値を見出す他ない。生体ある限り如何なる栄誉に対してすら欲望の源が満たされる事は無い。
全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。
全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。
2007年8月19日
文学手本説
文学は聖書と雑誌の間を媒介する中間的書籍で、その衆生啓蒙性にのみ価値がある。世界宗教無き蛮族は何らかの信仰なしに心身健全を保ちえない。よって社会環境の編成に伴う新たな手本が需要される。
文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。
カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。
文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。
文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。
カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。
文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。
Feminismの考察
自然が分け与えた性別の理由、彼らの分業の用に足る様設らえられる。
突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。
突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。