2022年6月30日
2022年6月26日
2022年6月23日
恒星
僕の人生は孤独だった
だが孤独のままの方が
遥かによかったかもしれない
なにしろ君の存在は
さも完成された宇宙で
手に取ることもできず
自分の存在をはね返すだけだから
無限のそらのどこかに
たったひとつの恒星があり
その輝きさえまがいもので
君の存在は光より尊い
だが君さえいなければ
自分はより幸福だった
2022年6月15日
東京マスコミとSNS文化人、サイコパス・インフルエンサーらへの対策案
東京マスコミによる連日の悪業に対する最善の対処は、それらを一切見聞きしない事だ。それらは悪意によって作られた負の差別的・偏見報道による釣り稼業であり、買わないのはいうまでもなく、一切見聞きしない事で広告収益がえられず世界から完全に廃絶される。悪辣なSNS文化人、サイコパス・インフルエンサーのたぐいも、ほぼ同様の広告その他の収益に依存して生活している新興芸能人の一種なので、全く見聞きせず相手にしない事、完全無視する事で悉く滅び去る。
2022年6月14日
2022年6月11日
日本国民一般の自業自得
日本の人々は一般に卑陋なものを貴いと、また立派なものを下賤だと思い込んでいる。それは彼らが一般に愚昧だからだ。この点で日本国民一般は正真正銘の愚民である。
彼らはサイコパスや人道犯罪者を崇め尊び、聖人君子を冤罪に陥れけなして自慢している。集団でイジメを大変に好み、差別や偏見を何より好物とする。
卑しい人々が立派な成果をあげる事は偶然でしかありえない。だから日本国という存在が世界史の中で優れた働きをあげる事は全く期待できない。それはその国を構成する人々の民度が、世界基準の人倫に引き比べ甚だ劣っていて、普段の行いが悪すぎるからである。
天皇と称する大量殺人鬼一味を世襲で贅沢三昧させ、差別の象徴として崇め奉っている人々には人権というものが理解できない。その様な救えない衆愚のあいだで、自国民の中でもことさら善良な人々が、単に徳行が優れているというだけで徹底的に辱められているのはいうまでもない。自称上皇(明仁氏)のみならず公選された元首相(安倍晋三氏)も無法な犯行の証拠で埋まっているが、その様な極悪人達を単なる純粋な悪意で必死にもちあげる悪の極みというべき習俗など世界のどこにも存在しないのだから、日本国の平均的道徳性が世界一低いと考えるべきなのは当然である。
試しに日本人らの日常使いしている何らかのサイトをみているがいい。そこは先ず例外なく匿名の悪意でうずまっている。それは日本人一般の心底卑劣な日常習慣と根っから浅ましい悪質な精神性のあらわれ以外なにかではない。業が存在するなら彼らが自滅への一途をたどっているのは彼ら自身の悪徳の必然である。イーロン・マスク氏が看破したよう少子高齢化・経済衰退・政治腐敗・文化退廃などは彼ら自身のすべての行動がもたらしている単なる自業自得なのである。
2022年6月10日
文の本質にあるもの
自分は長らく文を書き続けてきた。それは息を吸って吐く様に。そして今に至るのだけれども、これはもはや自由に音楽を演奏する勢いで、何でも言える様になってきた。それはいいのだが、問題は殆ど無限に書けるということにある。
それで自分は工夫をしだして、ユーチューブに講義というものをつくりだした。最初はラジオと名づけていたが講義みたいになっていたので講義に名をかえた。内容は総じて哲学的なので番組名は『哲学講義』にしてみたが。
なにしろ、ブログの管理というものが無理な規模になってきた。普通に前、このブログだとエクスポート(記事の持ち出し)すらできなかったのだ。膨大な量と判定されているかなんかで。エクスポート途中でバグってしまうので、全部手作業でやるか悩んで大変だった。毎日やって、作業自体は早いかも自分で最低1年以上は優にかかる量だから。かつその際、記事を推敲しだすともっと遥かに時間かかる。必要な集中力からして、そのあいだほかのしごとはできないかもしれなかった。
しかし書くこと自体は苦も無くできる。正確にいうと、自分は永遠に読み継がれる完璧な文章を求めているので、推敲に莫大な労力がかかる。
孔子はよくいったものだ。これを楽しむ者に如かず。まさにこのばあいの自分だ。
自分は口語なら苦手だからどうせできまいと思ってやりだしたら、こないだ12時間以上講義ラジオ収録で話し続けることになった。しかも飲まず食わずで。集中し続けてて。自分は大体こんなだ。なにかをすき好んでやりだすと並でない集中力を発揮して、大抵常人をこえたレベルになる傾向がある。慣れるまでしばらくかかるけど。
大体半年くらいやっててそうなったので、恐らく今後もそんななのだろう。アメーバピグも約3日だかぶっ続けで戦い続けた時があった。ほか、最高記録として1週間は一秒も寝ずに、夢中で勉強しつづけていて過労死しかけたことがあった。
そういうわけだから過ぎたるは猶及ばざるが如しとも孔子がいいのこしたらしいよう、幾ら楽しんでようがなにかをやりすぎるとしぬ可能性がある。自分は勉強しすぎてしぬ可能性の直前まで行ったので大いに悟った。
ところで、なにかを詳細に考えるのはいいことだ。それは内面を知り思考力を鍛えてくれるだけでなく、経験を咀嚼し、人生をより深く味わうのに必須でもある。が。口語でなにかを考えるというのをやってみた結果わかったのは、われわれの文語というものは、あとづけでできたものだったのだ。
われわれはなにかを文語にするとき、おそらく高度に知性を酷使している。だからわれわれは文語だとなにやら難解めいた言い回しを修辞術としてやりかねない。だが口語だとそういうことがあまりできないらしいのだ、構造上。他人に面と向かって衒学的なことをいう人はいうのだろうが、世間的にそういう者は疎まれるだろうから、口頭だとなるだけ分かり易く説明しようとする様なきらいがある。他方、われわれは文語だとそういう遠慮があまりなくなる。他人が直接よむかどうかなんてあまり気にしないからもあるのかもしれないが、殊に東洋圏では文語の出自そのものが専門の書家による創作だったり、あるいはそれをよみかきできるのが読書人だったりしたからなのだろう。ある種の教養貴族側に出自があるのが文語ということだ。
つまり口語はむかしからあるが、文語は割と近いうちにできたもので、しかも大抵わかりやすい言い方は口語的傾向にある一方、文語は高度に知的な内容を書きのこすのに向いている。ただこれは東洋圏、ことに漢字文化圏では恐らく共通した言葉の由来なので、ほかの文化圏ではなにかが違うかもしれない。
こういう構造が現にある以上、口語と文語は根本的にことなる2つのもの、と捉えてもいい。勿論たがいに交流はあるが、自分は口語の実験をすることで大いに学んだ、と以前も軽く書きましたが、確かにそれはそうにせよ、だからといって、文語特有の表現がこの世から死滅するわけではない。漢字なんてかなりの部類が文語の方のみから出てきているものだろう。甲骨文字みたいな、もとは絵から。
だからこういえるだろう。自分は根本的には文を書くことで絵を描いているのだと。それは確からしい。だから僕は文が好きだったのかもしれない。あまりしゃべることは好きではない。だから敢えてやってみた結果――自分が苦手な事をわざとやるのは、自分の能力値を客観視しつつ、それをより高度に鍛える為にかなり有効な手法である――言語流暢性には口語・文語ともに似た領域があるが、文語の方が自分は結局、好きらしいのだ。その本質にあるものが絵だからっぽい。
じゃあ絵のなにが好きなのかとはここでくわしく書くと主題がずれるので別の機会に詳述するけど、一番いいのは一瞬で伝わることだ。文とか言葉だとそうはいかない。一定の読む時間が必要だ。しかし絵は一瞬で全体の情報が伝わる。それが自分には相性がいいらしい。自分は恐らくだが脳内の情報処理が速いかなんかなので、一瞬で全体が伝わる絵が一番好きっぽく感じる。直感力が自分の色々な能力値でも一番高そうな気がしているのであるが、それとごく深く関連している好みと思われる。
ちなみにそういう理由で色々な文芸のなかでも短詩の類が、自分は絵に近い要素をもっているので好きなのだろうと思う。シェークスピア『ソネット集』が自分が世界最高の文芸の一つと思うものだが、あの視覚的にひと塊中に納まっている情報量が一瞬で見渡せるのが、ほかの文芸要素を除いても自分にはいいのだろう。自分には驚きだったのは、それにもかかわらず、ツイッター民一般という連中は自分が短詩が好きなことを理解できない、あるいはするつもりもないらしく、140文字以内を「長文だ」「短くいえないやつはバカだ」云々といってきていた。未だに全く意味が分からないが、散々彼らの敵性思考を分析した感じは、彼らは言語知能かその流暢性が著しく低い人々で、また根っから荒らしでもあるのだろうと思われた。彼らがおもにスマートフォンしかもっていないのでフリック入力などで短文しかうまく書けないという面もあるのかもしれないが、どうみても大人も混じっていたし、そういう道具不全の人ばかりでもなさげで、殆ど全員が群れていたので等しく失読症でも全然ない感じだった。いづれにせよ彼らには文章読解そのものがほぼできていないので、特に短い文芸分野である短詩と箴言もろくにわかると思えなかった。実際短くいえというので返歌してやったら逆上して殺害予告してきたとある神奈川人もいた。彼らに一般に十分長い傾向のある大抵の良い文芸が正しく判定できるはずもなさげだった。
自分の方は長文の作品もむかしからよく読むし嫌いではないが、もともと上記理由で、ひとつひとつの作品が短くまとまっている傾向にある文筆家といっていいのだろう。そういう比較短文系の作家を長文系と取り違えている時点で、短文厨系のツイッター民一般というものは、自分が初めて接触したたぐいの、この世に存在しうる本物の愚か者達なのだろう。
書はここでは文芸と別分類だとしても、書自体は視覚美術の一種だろう。それもまた絵画的要素を使えるので、自分には気分が近いのだろう。小学生で書道教室かよってた時は言語理論化はしておらず素で覚えていたが、あのお習字のとめ・はね・はらいなどいわゆる永字八法風の訓練は、絵の基礎的理解ととてもよく似ている。デッサンならより詳しく調整をはかるし、使うのがほぼ一発勝負の筆・硯・墨・半紙などではなく、割と書き直しできる紙・鉛筆・木炭など別の画材・支持体なだけである。今の一般日本画の画材は、水彩もそうだが書道の側に近いので、その際使う神経も油画系よりやり直しがきかなさ、不可逆性に直結している。
本居宣長と小室眞子
もと眞子内親王と小室圭さんとの恋愛結婚についてだが、あのあいだ、特にネットでみてたかぎり竹田恒泰さんや茂木健一郎さんが非常に反対していた。というか彼らはネット上の発信などで殆ど二人の仲を小馬鹿にしていたし今もしている様に思う。それは一般人に向けてやったら明らかに何らかの犯罪、名誉毀損か侮辱その他の法定刑になりそうな勢いだったので、竹田・茂木両氏による当時のツイート群とか、(茂木氏のは)ブログ記事とか、ユーチューブ動画とかを改めて確認してみればみなもわかると思う。
僕は当時それをみて、色々感じることがあった。ちなみにヤフコメ民のほぼ全員も猛烈な勢いで眞子内親王・秋篠宮家、小室圭さん・小室家を結びつけつ非難しまくっていたのも、当時のヤフコメがなんらかの形で残っていたら確かだと再検証できよう。
なお眞子内親王は竹田・茂木氏がほのめかすのとちがって、決して馬鹿ではないと思う。さも彼女は小室圭さんにだまされてるみたいにいうけど違うのではないか。自分に都合がいいときには憲法をもちだし父(文仁親王)を説得してしまったのだろうこと、都合の悪い質問は回避し国外逃亡までのわがままを日本国民の一般世論を無視して押し通したことなどがその実例だ。それは賢さといっても狡猾さかもしれないが。
(なお似た様な事は自分が生きてた間でも今上上皇こと明仁さんもやっている。国民へ動画メッセージ後、突如退位法成立とか立法権行使にすぎないので、国民主権の戦後法制を明白に破壊しているのは確かだ。「皇室典範のとおり、なぜ摂政を置かない?」との疑問を、いまだに統治権総攬してた明治憲法のつもりなのか、だれも彼ら皇室界隈に投げかけないのだけど)
自分はこの案件に強い興味をもったので、驚くなかれ、当時関連した膨大な量に及ぶヤフコメをたどれるかぎり全部たどって読み切っていた。文仁親王は全部よみきれないと仰っていたが僕は国民の声を一番聞いたという意味でいうとおそらく全世界で確実に3位以内に入る可能性がかなりある。謙遜抜きにいえば最も関連コメント読んだ人として人類1位かもしれない。さすがに完璧に何らかのシステム導入し、全コメントを一個の原理的手落ちもなくあまねく読んだ人もいるかもしれないが、僕は自分に気づけた更新も極力、手動でリロードしながらすべて即時読んでいた。
そんで、僕が感じた事というのが色々ありすぎたので、それらを一度に短期間で消化するのは難しい。まだ自分のなかで情報処理しきれていない。
現時点でいえるのは、あれは「もののあわれ」をしっているかしらないかで全く別の反応をしたんだろう案件だった。物の哀れ論というのは、ご存知本居宣長が江戸時代中期につくりだした思想で、『源氏物語』解釈としてはじまっている。
あの物語の中では、ほぼ姦淫といっていいありさまがつぎつぎ描写されるが、ほとんど勧善懲悪の色彩はなく、まぁ結果としては不埒な皇族男子らが事実上破滅または最終的には求愛に挫折する筋に一応なってはいるのだが、作者紫式部は当時の宮廷付近にいた藤原定子つきの家庭教師として、藤原道長ちかくの世界観を虚構化して述べていそうにみえる内容だけに、皇族へのこびへつらいが凄まじい。女性の人権が全くない中世京都社会が書かれており(現実になかった)、ある読んだ女性がいってたけど作中ではまるで「虫みたい」な平安期当時の京都人らが、求愛と交尾だけでまことむなしく生きている。
大抵の読者らが――といってもアダルト作品だから子供に読ませるべき内容とは到底いえない――読んだら、全体になんとなく納得できないというか、救いがなく悲惨な感じを受けて終わる。決して浄化される(心が洗われる)感じではない。
それで自分は『源氏物語』は、たとえば浄化感がはっきりあり感激しかしない『平家物語』に比べ、はるか駄作だと確信している。『源氏物語』の方は悲劇の筋立てとして単にうまくないばかりか、勧善懲悪性もはなはだ緩いので、もともと脳内に道徳知能というものが育っていない段階の女子とかが読むと、世界は淫行万歳でできているらしい、と人生観初期設定されてしまい、そのまま生きていくと大半は、頭おかしな人生になりそうに思う。頭おかしなというか正確には不貞な人生。
『源氏物語』読んでたお陰で幸福になれました、という人とか聞いたことがない。作者がろくでもないから地獄に堕ちた説は上田秋成が『雨月物語』冒頭に書いていた。悪徳賛美とも読めるだからだろう。
なんかね僕は京女のあるしりあいがリアル公家みたいな家庭環境みたいな感じで、あーこういう事ねとちょっと以上に悟った。令和になっても京都界隈ではいまだ姦淫万歳世界みたいなのが現役でのこっているらしいのだ。不倫する方が偉いみたいな、いまでいう安倍御用学者だったといえる三浦瑠麗風に或る意味で歪んだ、退廃的社会観というのは、平安朝が帯びていた政治腐敗と密接に関係している。というか同じ原因をもっている。
天皇独裁のもとで受領と呼ばれる売官する連中の金権政治がはびこって、しかも天皇家やその親戚と交尾・妊娠さえすれば地位とカネにありつけたすえのありさまなのだ。
結果として関西ではそんな悪政を長々したがってきているので、実力主義によった東国政府が複数樹立したのは必然性がある。当時としても民衆側あるいは他の為政者側としては、自堕落で虚栄心に満ちた自文化中心主義者・関西の自称皇族の犠牲になるべきではないからだ。元寇への対処でも当時の山城国の自称皇族界隈は「紅旗征戎吾が事に非ず」と藤原定家が威張ってて、根源的無能さを遺憾なく発揮。ひとりでに政権の座からずりおち潰えていく。そこには会田誠なんかが考えるのと違って、文化英雄的な面は存在していない。
飽くまで嘘の文学ごときにはまって平安期をやたら美化する人は、単なる実証科学による複合史学が十分足りない。民の幸をふみにじる政治屋あるいは自称皇室がいつまでも私利を目的とした不正な乱費なんてできないのだ。それだから平安期の権力者による浪費の証拠であるところの中世遺産を誇る京都人一般の自文化中華史観も、国民主権の時代にあって例外なく全部おかしいと自分は思う。ただ自分が色々観察してきた感じ、平安京と名づけた中世移民地区に自称天皇一味によって植えつけられた虚栄心が余りに激しいので、彼ら京都人一般自身がその落ち度に気づいたり、反省的に自文化を相対化したりする可能性は万に一つも期待できないまま、その社会自体が完全に滅び去るだろうけど。
で、それにもかかわらず、本居という人はその種の生活形態の帯びている根底的不埒さを正当化したのだ。ある意味ではマリー・アントワネット万歳説みたいなもので。ま、僕はマリーみたいなお転婆姫タイプは嫌いではないんだがそれは僕が小4のころやったドラクエ4・2章「おてんば姫の冒険」に、アリーナ姫がでてくるせいである。しかしそれとこれとは話が別だ。
民衆が無能すぎる宮廷に徹底して強制搾取され、上位者に狂った生活され差別される負担が無限に重くて、それってほんと万歳みたいな、市民革命を全否定していくたぐいの凄く謎説を本居が唱えた色々な理由は考えられる。もともと本居自体サイコパスなのではないかとか。たしかにそのきらいはある。
他方、必ずしもサイコ説をとらず最も彼の説を解釈し易くするひとつの文芸論として、丸谷才一のそれがある。すなわち本居は奥さんとたがいに再婚でその奥さんは本居にとって初恋かなんかのひとだったぽく、いわば略奪愛の形式をもつ夫婦だったというやつ。そのうえで、『女大学』風に解釈すれば当時の支配的倫理観からして本居再婚夫妻は「貞婦は二夫にまみえず」をふみあやまっているため、彼ら夫妻は当時不道徳な存在ということになるはずだったっぽい。だからこそ本居は、そんな中国由来の私徳観をなんとか否定せざるをえず、勉強中、その為の理論を上記姦淫小説のなかに偶然みいだしたのだろう、と予想されると。
実際そうだったのか自分はしらない。丸谷がそういってたらしい。『恋と日本文学と本居宣長』で。
ただ解釈としては、本居の奇妙な思想をきわめて咀嚼しやすくするわけだから、「本居はただのサイコだった。おわり」ではなくなる点で、事実誤認、もしくは丸谷個人の虚偽をみいだされ当該論説が否定されないかぎり、割と有利な位置を占めることになる説ではないかと現時点では思う。はっきりした根拠があるかもしらない。まだ丸谷の原文よんでないので。そのうち読むかもしれない。自分として現時点で丸谷説をまだはっきりそうと信じているわけではない。
いづれにせよ物の哀れ論とは、大体がその様に紐解けるしろもので、その次元では恋愛というのはことごとに道徳を超えてくることがあるかもしれないはず、なのが有体な解釈である。それをしっているかしらないかで、人が或る種の「大和民族こと奈良県民固有の民族」性を帯びるかどうか決まると本居は考えていたらしいのだろう。
なおここでいう大和民族なるものに、アイヌとか琉球人も入ってくるかといえば江戸時代中期の説なので入らないし、また当時の大和国(奈良県)や山城国(京都府)と国自体が違うから、今の概念でいう大抵の圧倒的多数日本人らは入っていないともいえる。
現実の奈良人は何人かみしったことがあるけど、大半が到底物の哀れなんざしらなかった様に思うし、これは飽くまで本居個人の思想というべきだろう。
『源氏物語』で舞台になってる付近にまだ生きている現役京都市民らについても自分がおおかれすくなかれ接した感じ、文化自体は奈良とかなりちがうにしても性道徳に関する人間性という意味で、奈良の人らとその点では似たり寄ったりだったと思う。要は、そこでいえることが現実にも適合するとしたら、奈良や京都界隈では性道徳がとある規準に照らしてろくに存在していないか(そりゃあ別の文化からみたら世界中がそうなるかもしれないが)、あったとしてもとても軽視されているくらいの事ではないかと思われる。性道徳にとかく厳しいと思われた関西人というのは、自分は、まだひとりもみたことがない。
京都市民の未成年女で、ネット上にいる大人の不倫の証拠を激しく意地悪な悪意で探し、わざわざ当の大人の女性が嫌がる様に晒す事で、やさぐれたやりかたで遊んでいた一定よりかなりすれきった感じの性悪を自分はみたことがある。しかも京都市民というものにちょっと例外はないけど、彼女もまたも地域差別的な言動を一般人へ連発していた。ああいう種類の京女は、子供のイジメ発生率の高さとか既往の京文化のたちを考えるとあのあたりにはよくいそうではあるし、自分としても京都圏では出現率100%でそんな感じのばっかりと直面しているから、現地では別に特別な人間ではなさそうだった。しかしいうまでもないがあれほど邪悪な人間は世界中さがしてもそういることもない。ラスボス城付近の様に出現敵の底意地が悪い。
特に自分がみた京女全般の裏表使い分ける媚び芸者ぶりというのは心底すさまじかった。それはほかの地域ではほとんどみられない性格特性で――ある種の東京女も若干にているが、どちらかといえば遊女風である――そのかたよった性格特性があまりに極端なので、なにか社会的風紀(の過去から続く乱れ?)のみならず、そのなかで性選択されている遺伝的原因すらあるのかもしれないほどである。京都市界隈の一般女性に固有の性格特性に特定共通項目が多すぎるからあえて描写してみるが、まずほかの地域では想像もできないくらい突出して底意地が悪く、かつ実にズルい言い方で本音と建て前を老獪に使い分けつつ、社会的地位有る男に問答無用でこびまくって自分の私利を得ようとするお局行動をし、また陰湿ないじめっ子集団本丸や根本原因タイプの性格者が有意にはなはだ多い様に見た。そのうえ例外なく極端なすれっからしだ。
すれっからし自体がまずいない田舎町からみたら、その性格特性は余りに目立ちまくる。京女というのを何人も何人も見たけど例外なく本当にそうだった。反証しようと試みたが不可能なレベルで。これは偏見ではないと思う。くりかえすが、だってそこまで極端に性格違うのなんて、東日本側だとそう沢山はいないんだから。というか自分の経験上は東京圏ですら、京都出身者を除いて0であった。
ラスボス城とか腐敗した町とかで、敵の出現率ちがうことありますよね。それと何ら変わらない。特定の場所に特定の性格特性が異常に集まっている事がこの世にはある。偏見ぬきで。
東京・横浜とか南関東陣もしくは仙台陣は一定よりすれてるけど、京都人というものは、また別のすれ方なのである。
なお京都市当地の男性陣も、関西一般で立派な人格というよりかなり不埒な人柄というか、「イジメ大好きですよ」とか人生で唯一聞いた衝撃のセリフいってたひとがいたりした。仲良くなってみたら急に嫌味いいだしたりなどは京男あるあるに思う。性根が悪くて他人をだしぬく私利追求が生きがいみたいなズルいだけの人を「良い適応価値」と判定する様な、地球史的にみて相当奇怪ともいえる中世都会ずれた傾向があるのであろうと推測された。さもなければやたら喜劇的でおかしな人間(唯の馬鹿の可能性を含む)を好評する形跡も、大阪とか奈良あたりとかわらず普通以上にあり、当人らがひたすら京文化自慢するとおり、実に独特の文化なのは確かだ。
男性陣についてはもう中世初期で固まってしまったのだろう京女カルチャーと違って少しは例外あるかもしれないが単に表面上、より本性隠してるだけの様な気もした。再三いうがつきあった人が片寄ってんじゃないか説を科学的検証のためにひたすら反証しようと自分は京都人一般とかなり広くつきあったが、残念なのか賞賛すべきなのかまじでそんなでした。自慢できる文化なのですか、それらは?
なお物の哀れを知っている京都人なんてひとりも自分はまだみたことがない。やはり本居の妄想だったのである。自分のみしった奈良人一般についても、すでに述べたとおり無論だけど。
以下に述べるが竹田さんとか茂木さんとかもなんら物の哀れをしらない。なるほど竹田さんは、もともと天皇の家系なのだからしっていてもよさそうなものだけど、それは天皇一味の無法さを正当化する手段としか捉えられていないのだから本居説よりさらに極端な、人種・民族・身分・門地その他の差別主義そのものであるところの神道信仰といったものなのであろう。物の哀れなんざより、天皇の品位を大変貶めることになる、と竹田さんに判断されるのだろう「いかにも民間人っぽい結婚」(つまり眞子内親王の小室圭さんとの結婚)に大反対の方が、おそらく「皇族の親族」的に妥当らしい。果たして家柄(門地)差別がだれかなにかの品位を高めるのだろうか? 竹田さんのなかでは、天皇家ってか秋篠宮家ってのは、まだ中世に生きていることになっているのだろうか。反語。
茂木氏に関しては最初から埼玉あたりから都内に出てきているので、背後の文化的に物の哀れ論と別に関係してはないだろうし、当人が本居信者と述べているわりには、その理論をみずから体現するほど理解してはいないだけなのだろう。ユーチューブ動画のコメントなんかでもみられた一般的感想だけど、彼は何事につけ浅い事例が多いから真に受けてるとすぐ自説を変節したりして、多少なりとも信じてると裏切られひどい目にあう事がウォッチャー経験的にも多い。軽薄な若手論客ガーとか言ってたと思ったら次の日には当人へ会うの楽しみにしてるよとかいってみたりする。専門の脳のことだけいえばいいのにとツイッターとかでもよくつっこまれているけど。
こういう道理で、彼らは眞子内親王と小室圭さんのあいだに存在していた、もしくは現にしているのかもだろう恋心というものを全く無視か、軽侮し、両者のあいだに割って入って恋愛関係をダメにしようとしていたのだった。
世人も一般に、竹田・茂木氏と多少あれ似た行動をしていた様に思う。
ということは物の哀れ論なんざ現実では、ほぼ誰も信じてないのだ。はっきりいって役立たずの理論ともいえる。寧ろそんなの信じてたら「不埒な人間」として世間から後ろ指さされる位のものだ。それは本居の生きてた時代からそうだったのだろうし今もそうなのだ。日本に道徳、殊に性道徳がないなんて嘘っぱちにもほどがある。 あることはあるが、現に生きていて、当時の規範的性道徳が気にいらない人がなにか虚構のなかに不届きな事を書きつけ、自己満足しているだけのことなのである。飽くまで虚構のなかでは成立するかもしれない色々な不道徳ぶりは、現実ではまず成立しないか、してほしいと人々一般は願っていない。
だからこういえる。紫式部の物語論は『源氏物語』蛍の帖にでてくるが、そこで語られている事、つまり
「物語は現実の本質を抽出し、強調して書いたものだから、嘘も方便で、なにごとか作者が忘れえない事を人々に伝える役割を担う」
とは半分くらい誤った説だったことになる。もし現代こと令和期の日本のあり様を伝えたければ僕が今書いてるみたく、虚構ぬきで史実ドキュメンタリーをそのまま書いた方が正確に物事は伝わるはずだからだ。それをやたら嘘つき、現実に起きた事を改変し伝えてしまえば、根底にある事象が誤解されるだけだからだ。
また心の中を伝えたければ、人形劇みたく作り物の人物群を動して比喩にするより、ただ抒情詩の様な形式の方が向いている様に思う。物語の意義というのが別個にあるとすれば、何らかの演劇形式の作り事による儀式的再現、にすぎない様に思う。
現実は本居の理論どおりになっていない。しかも現実の日本人一般は、物の哀れなんざ少しも尊重していないに等しい。彼らはなんらかの性道徳をもっていて、それに応じて世間を裁こうとする。しかも竹田氏の様な皇族界隈でもそうだし、茂木氏みたいな最低でも東京俗世間で文化人面しているとみなせるだろう人あたりでもそうなんである。口先物の哀れ論を唱えてきている茂木氏は、現実にそう判定すべき場面がきても「性道徳を無視せよ」とはまったくのたまわらない。むしろ真逆に振舞う。これが現実だった。
みなさんは嘘つきを信用するだろうか。もししているなら小説家とか物語作家とかが書いたことをうのみにしているのは、実にあなたがたの為になるだろう(容易にだまされたいのだったら!)。だが嘘つきを信じないなら、あなたがたが虚構を現実ととりちがえるのは全く賢明なことではないだろう。
ただひとついえるのは、これらの事実にもかかわらず、自分は眞子内親王と小室圭さんに関しては、その恋愛事情についてだけは、国民の私権を侵害するたぐいの制度上の齟齬とちがって、基本的に完全放置すべきだったのではないかということである。すべてをかんがみ、自称天皇とかいう一般関西人が捏造してきた邪教のまがまがしさが世間に実証されるのは、今の自称・象徴天皇に依拠しかの邪教に洗脳されきっている政体に於いては公益度が高い。しかも一般国民が当の邪教のおろかしさをたまたま鬱屈がたまっていたので客観視でき、結果として、「お金が足りないで苦しんでいる国民より国税を潤沢に使ってはなはだ恵まれているがゆえに」随分安っぽい――尤も当人達にはまぎれなく世界一真剣な恋愛ドラマに感激する人が相当少なさそうな事情があるからには、余計そうだ。世人一般は調度コロナ禍で困窮、手先の暴力団に徴税させてきた自称大和王朝よろしく浪費皇族がたの英国勢ぶった王侯しぐさに反感をおぼえていた。その際、飽くまで暴力振るって嘘をつき、地位を独占・寡占してきた自称皇室だの自称神道だのという制度・宗教が、信者による無謬論・君主無答責や尊崇の念をこえて、いわばまぬけにも自己矛盾を露呈していることになっていた。
しかもその決定的失敗の内部には、ここでいう物の哀れの典型ともいうべき私利を公徳へ絶対に優先させようとする眞子内親王自身の恋愛事情があったわけです。一般ヤフコメ民でさえそれはたしかにみてとることができていた。
自分がかさねて思うには特につぎの彼女のお歌。
望月に月の兎が棲まふかと思う気持ちを持ちつぎゆかな
(私の一読み下し:小さなころ満月には兎が住んでいるのだろうと素直に信じていましたが、うぶでけがれなき童心を忘れず、これからも生きていこうと感じています)烏瓜その実は冴ゆる朱の色に染まりてゆけり深まる秋に
(私の一読み下し:カラスウリの実が、冴えて朱色に染まっているばかりか、徐々に深まっていく秋にいます)
しってる人はしってるに違いないがこれらはそれぞれ令和2と3年の歌会始の作。大体、彼女がすでに小室家へ嫁ぐことを前提に自身の想いをその詩に託している様にもみえなくもない。こういう心情をもった人に、共感知能という点をあえて働かせれば、あれこれちょっかいだすのが望ましくないのはいうまでもないはずだが、問題はこれらを歌った人が、国税なるもので、つまり苦しい状況にある全国民の負担で、それをしていることにあった。
最終的に、日本文学を学ぶということは、特にその平安期の宮廷付近でつくられた作品解釈の系譜としては、物の哀れ論みたいな特殊類型の思想形態にも一定の理解を示す可能性を開く意味では、世界史的にみて希なしわざなのではないか。そうであれば、世界史にあって今自分がしているたぐいの特殊なまなざしで、今や小室眞子さんとなった人とその夫であるところの圭氏の現実を、ふたりの国籍が今後どこの人かはわからぬけど、ある種の温かな――あるいは微温的な見方でみていくことができるのは、実は日本文学なるものに内在された、虚構に託された或る種独特の理路だったのではないか?
その理路は実に危ういもので、一歩ふみあやまれば慰安婦問題なんかをも起こす。また東京圏を中心としたオタク業界の変態性欲表現の数々、性風俗業界のそれらはまったく倫理の底が抜けているのが事実。寧ろ規範的倫理を無視するところに、それらの江戸町人・東京商人文化は或る意味で下流的快楽をみいだす傾向が有る。性道徳無効化なんて使いどころを間違えたら多くの人々の生きる尊厳を蹂躙する。その意味で、本居の考えは最たる危険思想だったのは『ザ・レイプ・オブ南京』なんか読んでも全く、確かだ。しかしそれでも、その種の特殊な考え方を帯びることができる、という点に、本居固有の文芸批評史上の業績があったのではないか?
2022年6月9日
卑しい人々の一様の好み
卑しい人達は尊い場所や暮らし易い地域を貶めている。そして住みづらい過酷な過密都市部や、大自然の観光地をやたら好む。
彼らはその様な考え方によってろくな人生を送っていないが、それは彼らが犯罪性向を持っている人々だからだ。都市部を好むのは犯罪率が高く、そこに性悪で道徳心のない彼らの同類がいるとみなしているからであり、大自然の観光地を無闇に好むのは、彼らの中ではそこを一時遊びほうけて汚して帰るつもりだからである。
逆に彼らには合理的な思考力が全くと言っていいほど欠けているので、都市部を開発している住宅・建築・建設業者や、遠出で金をとれる観光・交通業者のなすがままになるばかりか、暮らし易さの類を冷静に評価する能力が寸分もない。また尊さとは何かを認知する能力も想像をこえ全く期待できない。
こうして都市部には卑しい人々がたかっているものだ。その傾向は都心部に近づくほど高まる。
彼らが口先だけで現実の真逆の事をのたまうのは全て嘘にすぎない。悪意から彼らは言動しているのだ。愚にもつかない差別や浅ましい偏見をまき散らす事は彼ら自身の卑しさを正当化するからである。
特に彼らが最も忌み嫌うのが「農村」である。そうであるかぎり農村は、全ての人々の生活環境の中で最善・最美で最も尊い場所なのだろう。下賎な者にとってそれほど住み心地の悪い場所がないという事は、裏返せば、そこが道徳的精神の持ち主にとって最も好適な事を同時に意味している。
2022年6月7日
2022年6月5日
悪徳ゆえに滅びゆく国
2022年6月1日
幸の前提
下劣な人々と関わりあいにならない事がこの世では幸の必要条件である。下劣な人々は諸々の悪徳をもちこんでくる存在だからだ。
下劣な人々と遠く離れ、彼らから何の影響もない場所をみいだし、そこに安住できれば人は決して不幸になりはしないだろう。だから下劣な人々を避けて生きる為、彼らの決してやってこれない場所をみいださねばならない。
下劣な人々は同類と群れてふえる。だがその一生は不幸である。彼らのみいだしている幸福とは飽くまで利己的な快楽にすぎないからだ。彼らの社会にあって幸福というものは快楽から区別されていない。そうして彼らは人でなし集団を作り、その間で差別や偏見、公害をまきちらして自慢しきっている。だがその生涯はどこまで行こうとも不幸なままである。
世界で最も非文化的な国とその必然の末路
食は民の天たり、農は国の本なりを現役でふみあやまっている東京圏一帯のマスコミ各社や人々、もしくは、それに少なからず同調する日本国民ら全般は、飢餓によって滅び去る。
彼らは農業県あるいは営農活動とその従事者らを完全な悪意からきた差別的偏見で日々致命的に侮辱しつづけてきている。さらに農地へ「なにもない」「田舎い」「田舎臭い」「魅力が最低」などと、その一次生産に日々の食事を支えられながら悪質な虚偽をいい、自らが遊びほうけ汚して帰るつもりの観光先としかみなかったので、遂には自分達がばらまくコロナ禍で大量死していっている。がそれだけでは業の清算が足りず、世界食糧危機に際し、彼らこそ真っ先にこの世を去る事になるだろう。
この世で最も非文化的な態度とは、食料を他者あるいは他生物に依拠しながら、その感謝を忘れる事だ。烈公が農人形を作った事、偕楽園と弘道館に梅を植えた事は実に、象徴的な意味がある。そしてこの意味で、茨城県と違って、東京圏全般は無論、日本国は世界一非文化的な国柄である。それは人口増加の傾向にある世界の反面教師に値する。先進国界隈で最初に日本だけ少子化・財政破綻・性的退廃・衆愚政治などで最も先に滅亡しつつあるのは、彼ら日本人一般の持っている決定的悪徳という全くの必然があるのだ。