2022年6月10日

文の本質にあるもの

自分は長らく文を書き続けてきた。それは息を吸って吐く様に。そして今に至るのだけれども、これはもはや自由に音楽を演奏する勢いで、何でも言える様になってきた。それはいいのだが、問題は殆ど無限に書けるということにある。
 それで自分は工夫をしだして、ユーチューブに講義というものをつくりだした。最初はラジオと名づけていたが講義みたいになっていたので講義に名をかえた。内容は総じて哲学的なので番組名は『哲学講義』にしてみたが。

 なにしろ、ブログの管理というものが無理な規模になってきた。普通に前、このブログだとエクスポート(記事の持ち出し)すらできなかったのだ。膨大な量と判定されているかなんかで。エクスポート途中でバグってしまうので、全部手作業でやるか悩んで大変だった。毎日やって、作業自体は早いかも自分で最低1年以上は優にかかる量だから。かつその際、記事を推敲しだすともっと遥かに時間かかる。必要な集中力からして、そのあいだほかのしごとはできないかもしれなかった。
 しかし書くこと自体は苦も無くできる。正確にいうと、自分は永遠に読み継がれる完璧な文章を求めているので、推敲に莫大な労力がかかる。

 孔子はよくいったものだ。これを楽しむ者に如かず。まさにこのばあいの自分だ。

 自分は口語なら苦手だからどうせできまいと思ってやりだしたら、こないだ12時間以上講義ラジオ収録で話し続けることになった。しかも飲まず食わずで。集中し続けてて。自分は大体こんなだ。なにかをすき好んでやりだすと並でない集中力を発揮して、大抵常人をこえたレベルになる傾向がある。慣れるまでしばらくかかるけど。
 大体半年くらいやっててそうなったので、恐らく今後もそんななのだろう。アメーバピグも約3日だかぶっ続けで戦い続けた時があった。ほか、最高記録として1週間は一秒も寝ずに、夢中で勉強しつづけていて過労死しかけたことがあった。
 そういうわけだから過ぎたるは猶及ばざるが如しとも孔子がいいのこしたらしいよう、幾ら楽しんでようがなにかをやりすぎるとしぬ可能性がある。自分は勉強しすぎてしぬ可能性の直前まで行ったので大いに悟った。

 ところで、なにかを詳細に考えるのはいいことだ。それは内面を知り思考力を鍛えてくれるだけでなく、経験を咀嚼し、人生をより深く味わうのに必須でもある。が。口語でなにかを考えるというのをやってみた結果わかったのは、われわれの文語というものは、あとづけでできたものだったのだ。

 われわれはなにかを文語にするとき、おそらく高度に知性を酷使している。だからわれわれは文語だとなにやら難解めいた言い回しを修辞術としてやりかねない。だが口語だとそういうことがあまりできないらしいのだ、構造上。他人に面と向かって衒学的なことをいう人はいうのだろうが、世間的にそういう者は疎まれるだろうから、口頭だとなるだけ分かり易く説明しようとする様なきらいがある。他方、われわれは文語だとそういう遠慮があまりなくなる。他人が直接よむかどうかなんてあまり気にしないからもあるのかもしれないが、殊に東洋圏では文語の出自そのものが専門の書家による創作だったり、あるいはそれをよみかきできるのが読書人だったりしたからなのだろう。ある種の教養貴族側に出自があるのが文語ということだ。
 つまり口語はむかしからあるが、文語は割と近いうちにできたもので、しかも大抵わかりやすい言い方は口語的傾向にある一方、文語は高度に知的な内容を書きのこすのに向いている。ただこれは東洋圏、ことに漢字文化圏では恐らく共通した言葉の由来なので、ほかの文化圏ではなにかが違うかもしれない。
 こういう構造が現にある以上、口語と文語は根本的にことなる2つのもの、と捉えてもいい。勿論たがいに交流はあるが、自分は口語の実験をすることで大いに学んだ、と以前も軽く書きましたが、確かにそれはそうにせよ、だからといって、文語特有の表現がこの世から死滅するわけではない。漢字なんてかなりの部類が文語の方のみから出てきているものだろう。甲骨文字みたいな、もとは絵から。

 だからこういえるだろう。自分は根本的には文を書くことで絵を描いているのだと。それは確からしい。だから僕は文が好きだったのかもしれない。あまりしゃべることは好きではない。だから敢えてやってみた結果――自分が苦手な事をわざとやるのは、自分の能力値を客観視しつつ、それをより高度に鍛える為にかなり有効な手法である――言語流暢性には口語・文語ともに似た領域があるが、文語の方が自分は結局、好きらしいのだ。その本質にあるものが絵だからっぽい。
 じゃあ絵のなにが好きなのかとはここでくわしく書くと主題がずれるので別の機会に詳述するけど、一番いいのは一瞬で伝わることだ。文とか言葉だとそうはいかない。一定の読む時間が必要だ。しかし絵は一瞬で全体の情報が伝わる。それが自分には相性がいいらしい。自分は恐らくだが脳内の情報処理が速いかなんかなので、一瞬で全体が伝わる絵が一番好きっぽく感じる。直感力が自分の色々な能力値でも一番高そうな気がしているのであるが、それとごく深く関連している好みと思われる。
 ちなみにそういう理由で色々な文芸のなかでも短詩の類が、自分は絵に近い要素をもっているので好きなのだろうと思う。シェークスピア『ソネット集』が自分が世界最高の文芸の一つと思うものだが、あの視覚的にひと塊中に納まっている情報量が一瞬で見渡せるのが、ほかの文芸要素を除いても自分にはいいのだろう。自分には驚きだったのは、それにもかかわらず、ツイッター民一般という連中は自分が短詩が好きなことを理解できない、あるいはするつもりもないらしく、140文字以内を「長文だ」「短くいえないやつはバカだ」云々といってきていた。未だに全く意味が分からないが、散々彼らの敵性思考を分析した感じは、彼らは言語知能かその流暢性が著しく低い人々で、また根っから荒らしでもあるのだろうと思われた。彼らがおもにスマートフォンしかもっていないのでフリック入力などで短文しかうまく書けないという面もあるのかもしれないが、どうみても大人も混じっていたし、そういう道具不全の人ばかりでもなさげで、殆ど全員が群れていたので等しく失読症でも全然ない感じだった。いづれにせよ彼らには文章読解そのものがほぼできていないので、特に短い文芸分野である短詩と箴言もろくにわかると思えなかった。実際短くいえというので返歌してやったら逆上して殺害予告してきたとある神奈川人もいた。彼らに一般に十分長い傾向のある大抵の良い文芸が正しく判定できるはずもなさげだった。
 自分の方は長文の作品もむかしからよく読むし嫌いではないが、もともと上記理由で、ひとつひとつの作品が短くまとまっている傾向にある文筆家といっていいのだろう。そういう比較短文系の作家を長文系と取り違えている時点で、短文厨系のツイッター民一般というものは、自分が初めて接触したたぐいの、この世に存在しうる本物の愚か者達なのだろう。

 書はここでは文芸と別分類だとしても、書自体は視覚美術の一種だろう。それもまた絵画的要素を使えるので、自分には気分が近いのだろう。小学生で書道教室かよってた時は言語理論化はしておらず素で覚えていたが、あのお習字のとめ・はね・はらいなどいわゆる永字八法風の訓練は、絵の基礎的理解ととてもよく似ている。デッサンならより詳しく調整をはかるし、使うのがほぼ一発勝負の筆・硯・墨・半紙などではなく、割と書き直しできる紙・鉛筆・木炭など別の画材・支持体なだけである。今の一般日本画の画材は、水彩もそうだが書道の側に近いので、その際使う神経も油画系よりやり直しがきかなさ、不可逆性に直結している。