2022年6月10日

本居宣長と小室眞子

もと眞子内親王と小室圭さんとの恋愛結婚についてだが、あのあいだ、特にネットでみてたかぎり竹田恒泰さんや茂木健一郎さんが非常に反対していた。というか彼らはネット上の発信などで殆ど二人の仲を小馬鹿にしていたし今もしている様に思う。それは一般人に向けてやったら明らかに何らかの犯罪、名誉毀損か侮辱その他の法定刑になりそうな勢いだったので、竹田・茂木両氏による当時のツイート群とか、(茂木氏のは)ブログ記事とか、ユーチューブ動画とかを改めて確認してみればみなもわかると思う。
 僕は当時それをみて、色々感じることがあった。ちなみにヤフコメ民のほぼ全員も猛烈な勢いで眞子内親王・秋篠宮家、小室圭さん・小室家を結びつけつ非難しまくっていたのも、当時のヤフコメがなんらかの形で残っていたら確かだと再検証できよう。

 なお眞子内親王は竹田・茂木氏がほのめかすのとちがって、決して馬鹿ではないと思う。さも彼女は小室圭さんにだまされてるみたいにいうけど違うのではないか。自分に都合がいいときには憲法をもちだし父(文仁親王)を説得してしまったのだろうこと、都合の悪い質問は回避し国外逃亡までのわがままを日本国民の一般世論を無視して押し通したことなどがその実例だ。それは賢さといっても狡猾さかもしれないが。
(なお似た様な事は自分が生きてた間でも今上上皇こと明仁さんもやっている。国民へ動画メッセージ後、突如退位法成立とか立法権行使にすぎないので、国民主権の戦後法制を明白に破壊しているのは確かだ。「皇室典範のとおり、なぜ摂政を置かない?」との疑問を、いまだに統治権総攬してた明治憲法のつもりなのか、だれも彼ら皇室界隈に投げかけないのだけど)

 自分はこの案件に強い興味をもったので、驚くなかれ、当時関連した膨大な量に及ぶヤフコメをたどれるかぎり全部たどって読み切っていた。文仁親王は全部よみきれないと仰っていたが僕は国民の声を一番聞いたという意味でいうとおそらく全世界で確実に3位以内に入る可能性がかなりある。謙遜抜きにいえば最も関連コメント読んだ人として人類1位かもしれない。さすがに完璧に何らかのシステム導入し、全コメントを一個の原理的手落ちもなくあまねく読んだ人もいるかもしれないが、僕は自分に気づけた更新も極力、手動でリロードしながらすべて即時読んでいた。

 そんで、僕が感じた事というのが色々ありすぎたので、それらを一度に短期間で消化するのは難しい。まだ自分のなかで情報処理しきれていない。

 現時点でいえるのは、あれは「もののあわれ」をしっているかしらないかで全く別の反応をしたんだろう案件だった。物の哀れ論というのは、ご存知本居宣長が江戸時代中期につくりだした思想で、『源氏物語』解釈としてはじまっている。

 あの物語の中では、ほぼ姦淫といっていいありさまがつぎつぎ描写されるが、ほとんど勧善懲悪の色彩はなく、まぁ結果としては不埒な皇族男子らが事実上破滅または最終的には求愛に挫折する筋に一応なってはいるのだが、作者紫式部は当時の宮廷付近にいた藤原定子つきの家庭教師として、藤原道長ちかくの世界観を虚構化して述べていそうにみえる内容だけに、皇族へのこびへつらいが凄まじい。女性の人権が全くない中世京都社会が書かれており(現実になかった)、ある読んだ女性がいってたけど作中ではまるで「虫みたい」な平安期当時の京都人らが、求愛と交尾だけでまことむなしく生きている。
 大抵の読者らが――といってもアダルト作品だから子供に読ませるべき内容とは到底いえない――読んだら、全体になんとなく納得できないというか、救いがなく悲惨な感じを受けて終わる。決して浄化される(心が洗われる)感じではない。
 それで自分は『源氏物語』は、たとえば浄化感がはっきりあり感激しかしない『平家物語』に比べ、はるか駄作だと確信している。『源氏物語』の方は悲劇の筋立てとして単にうまくないばかりか、勧善懲悪性もはなはだ緩いので、もともと脳内に道徳知能というものが育っていない段階の女子とかが読むと、世界は淫行万歳でできているらしい、と人生観初期設定されてしまい、そのまま生きていくと大半は、頭おかしな人生になりそうに思う。頭おかしなというか正確には不貞な人生。
『源氏物語』読んでたお陰で幸福になれました、という人とか聞いたことがない。作者がろくでもないから地獄に堕ちた説は上田秋成が『雨月物語』冒頭に書いていた。悪徳賛美とも読めるだからだろう。
 なんかね僕は京女のあるしりあいがリアル公家みたいな家庭環境みたいな感じで、あーこういう事ねとちょっと以上に悟った。令和になっても京都界隈ではいまだ姦淫万歳世界みたいなのが現役でのこっているらしいのだ。不倫する方が偉いみたいな、いまでいう安倍御用学者だったといえる三浦瑠麗風に或る意味で歪んだ、退廃的社会観というのは、平安朝が帯びていた政治腐敗と密接に関係している。というか同じ原因をもっている。
 天皇独裁のもとで受領と呼ばれる売官する連中の金権政治がはびこって、しかも天皇家やその親戚と交尾・妊娠さえすれば地位とカネにありつけたすえのありさまなのだ。
 結果として関西ではそんな悪政を長々したがってきているので、実力主義によった東国政府が複数樹立したのは必然性がある。当時としても民衆側あるいは他の為政者側としては、自堕落で虚栄心に満ちた自文化中心主義者・関西の自称皇族の犠牲になるべきではないからだ。元寇への対処でも当時の山城国の自称皇族界隈は「紅旗征戎吾が事に非ず」と藤原定家が威張ってて、根源的無能さを遺憾なく発揮。ひとりでに政権の座からずりおち潰えていく。そこには会田誠なんかが考えるのと違って、文化英雄的な面は存在していない。
 飽くまで嘘の文学ごときにはまって平安期をやたら美化する人は、単なる実証科学による複合史学が十分足りない。民の幸をふみにじる政治屋あるいは自称皇室がいつまでも私利を目的とした不正な乱費なんてできないのだ。それだから平安期の権力者による浪費の証拠であるところの中世遺産を誇る京都人一般の自文化中華史観も、国民主権の時代にあって例外なく全部おかしいと自分は思う。ただ自分が色々観察してきた感じ、平安京と名づけた中世移民地区に自称天皇一味によって植えつけられた虚栄心が余りに激しいので、彼ら京都人一般自身がその落ち度に気づいたり、反省的に自文化を相対化したりする可能性は万に一つも期待できないまま、その社会自体が完全に滅び去るだろうけど。

 で、それにもかかわらず、本居という人はその種の生活形態の帯びている根底的不埒さを正当化したのだ。ある意味ではマリー・アントワネット万歳説みたいなもので。ま、僕はマリーみたいなお転婆姫タイプは嫌いではないんだがそれは僕が小4のころやったドラクエ4・2章「おてんば姫の冒険」に、アリーナ姫がでてくるせいである。しかしそれとこれとは話が別だ。
 民衆が無能すぎる宮廷に徹底して強制搾取され、上位者に狂った生活され差別される負担が無限に重くて、それってほんと万歳みたいな、市民革命を全否定していくたぐいの凄く謎説を本居が唱えた色々な理由は考えられる。もともと本居自体サイコパスなのではないかとか。たしかにそのきらいはある。
 他方、必ずしもサイコ説をとらず最も彼の説を解釈し易くするひとつの文芸論として、丸谷才一のそれがある。すなわち本居は奥さんとたがいに再婚でその奥さんは本居にとって初恋かなんかのひとだったぽく、いわば略奪愛の形式をもつ夫婦だったというやつ。そのうえで、『女大学』風に解釈すれば当時の支配的倫理観からして本居再婚夫妻は「貞婦は二夫にまみえず」をふみあやまっているため、彼ら夫妻は当時不道徳な存在ということになるはずだったっぽい。だからこそ本居は、そんな中国由来の私徳観をなんとか否定せざるをえず、勉強中、その為の理論を上記姦淫小説のなかに偶然みいだしたのだろう、と予想されると。
 実際そうだったのか自分はしらない。丸谷がそういってたらしい。『恋と日本文学と本居宣長』で。
 ただ解釈としては、本居の奇妙な思想をきわめて咀嚼しやすくするわけだから、「本居はただのサイコだった。おわり」ではなくなる点で、事実誤認、もしくは丸谷個人の虚偽をみいだされ当該論説が否定されないかぎり、割と有利な位置を占めることになる説ではないかと現時点では思う。はっきりした根拠があるかもしらない。まだ丸谷の原文よんでないので。そのうち読むかもしれない。自分として現時点で丸谷説をまだはっきりそうと信じているわけではない。

 いづれにせよ物の哀れ論とは、大体がその様に紐解けるしろもので、その次元では恋愛というのはことごとに道徳を超えてくることがあるかもしれないはず、なのが有体な解釈である。それをしっているかしらないかで、人が或る種の「大和民族こと奈良県民固有の民族」性を帯びるかどうか決まると本居は考えていたらしいのだろう。
 なおここでいう大和民族なるものに、アイヌとか琉球人も入ってくるかといえば江戸時代中期の説なので入らないし、また当時の大和国(奈良県)や山城国(京都府)と国自体が違うから、今の概念でいう大抵の圧倒的多数日本人らは入っていないともいえる。
 現実の奈良人は何人かみしったことがあるけど、大半が到底物の哀れなんざしらなかった様に思うし、これは飽くまで本居個人の思想というべきだろう。
『源氏物語』で舞台になってる付近にまだ生きている現役京都市民らについても自分がおおかれすくなかれ接した感じ、文化自体は奈良とかなりちがうにしても性道徳に関する人間性という意味で、奈良の人らとその点では似たり寄ったりだったと思う。要は、そこでいえることが現実にも適合するとしたら、奈良や京都界隈では性道徳がとある規準に照らしてろくに存在していないか(そりゃあ別の文化からみたら世界中がそうなるかもしれないが)、あったとしてもとても軽視されているくらいの事ではないかと思われる。性道徳にとかく厳しいと思われた関西人というのは、自分は、まだひとりもみたことがない。
 京都市民の未成年女で、ネット上にいる大人の不倫の証拠を激しく意地悪な悪意で探し、わざわざ当の大人の女性が嫌がる様に晒す事で、やさぐれたやりかたで遊んでいた一定よりかなりすれきった感じの性悪を自分はみたことがある。しかも京都市民というものにちょっと例外はないけど、彼女もまたも地域差別的な言動を一般人へ連発していた。ああいう種類の京女は、子供のイジメ発生率の高さとか既往の京文化のたちを考えるとあのあたりにはよくいそうではあるし、自分としても京都圏では出現率100%でそんな感じのばっかりと直面しているから、現地では別に特別な人間ではなさそうだった。しかしいうまでもないがあれほど邪悪な人間は世界中さがしてもそういることもない。ラスボス城付近の様に出現敵の底意地が悪い。
 特に自分がみた京女全般の裏表使い分ける媚び芸者ぶりというのは心底すさまじかった。それはほかの地域ではほとんどみられない性格特性で――ある種の東京女も若干にているが、どちらかといえば遊女風である――そのかたよった性格特性があまりに極端なので、なにか社会的風紀(の過去から続く乱れ?)のみならず、そのなかで性選択されている遺伝的原因すらあるのかもしれないほどである。京都市界隈の一般女性に固有の性格特性に特定共通項目が多すぎるからあえて描写してみるが、まずほかの地域では想像もできないくらい突出して底意地が悪く、かつ実にズルい言い方で本音と建て前を老獪に使い分けつつ、社会的地位有る男に問答無用でこびまくって自分の私利を得ようとするお局行動をし、また陰湿ないじめっ子集団本丸や根本原因タイプの性格者が有意にはなはだ多い様に見た。そのうえ例外なく極端なすれっからしだ。
 すれっからし自体がまずいない田舎町からみたら、その性格特性は余りに目立ちまくる。京女というのを何人も何人も見たけど例外なく本当にそうだった。反証しようと試みたが不可能なレベルで。これは偏見ではないと思う。くりかえすが、だってそこまで極端に性格違うのなんて、東日本側だとそう沢山はいないんだから。というか自分の経験上は東京圏ですら、京都出身者を除いて0であった。
 ラスボス城とか腐敗した町とかで、敵の出現率ちがうことありますよね。それと何ら変わらない。特定の場所に特定の性格特性が異常に集まっている事がこの世にはある。偏見ぬきで。
 東京・横浜とか南関東陣もしくは仙台陣は一定よりすれてるけど、京都人というものは、また別のすれ方なのである。
 なお京都市当地の男性陣も、関西一般で立派な人格というよりかなり不埒な人柄というか、「イジメ大好きですよ」とか人生で唯一聞いた衝撃のセリフいってたひとがいたりした。仲良くなってみたら急に嫌味いいだしたりなどは京男あるあるに思う。性根が悪くて他人をだしぬく私利追求が生きがいみたいなズルいだけの人を「良い適応価値」と判定する様な、地球史的にみて相当奇怪ともいえる中世都会ずれた傾向があるのであろうと推測された。さもなければやたら喜劇的でおかしな人間(唯の馬鹿の可能性を含む)を好評する形跡も、大阪とか奈良あたりとかわらず普通以上にあり、当人らがひたすら京文化自慢するとおり、実に独特の文化なのは確かだ。
 男性陣についてはもう中世初期で固まってしまったのだろう京女カルチャーと違って少しは例外あるかもしれないが単に表面上、より本性隠してるだけの様な気もした。再三いうがつきあった人が片寄ってんじゃないか説を科学的検証のためにひたすら反証しようと自分は京都人一般とかなり広くつきあったが、残念なのか賞賛すべきなのかまじでそんなでした。自慢できる文化なのですか、それらは?

 なお物の哀れを知っている京都人なんてひとりも自分はまだみたことがない。やはり本居の妄想だったのである。自分のみしった奈良人一般についても、すでに述べたとおり無論だけど。

 以下に述べるが竹田さんとか茂木さんとかもなんら物の哀れをしらない。なるほど竹田さんは、もともと天皇の家系なのだからしっていてもよさそうなものだけど、それは天皇一味の無法さを正当化する手段としか捉えられていないのだから本居説よりさらに極端な、人種・民族・身分・門地その他の差別主義そのものであるところの神道信仰といったものなのであろう。物の哀れなんざより、天皇の品位を大変貶めることになる、と竹田さんに判断されるのだろう「いかにも民間人っぽい結婚」(つまり眞子内親王の小室圭さんとの結婚)に大反対の方が、おそらく「皇族の親族」的に妥当らしい。果たして家柄(門地)差別がだれかなにかの品位を高めるのだろうか? 竹田さんのなかでは、天皇家ってか秋篠宮家ってのは、まだ中世に生きていることになっているのだろうか。反語。
 茂木氏に関しては最初から埼玉あたりから都内に出てきているので、背後の文化的に物の哀れ論と別に関係してはないだろうし、当人が本居信者と述べているわりには、その理論をみずから体現するほど理解してはいないだけなのだろう。ユーチューブ動画のコメントなんかでもみられた一般的感想だけど、彼は何事につけ浅い事例が多いから真に受けてるとすぐ自説を変節したりして、多少なりとも信じてると裏切られひどい目にあう事がウォッチャー経験的にも多い。軽薄な若手論客ガーとか言ってたと思ったら次の日には当人へ会うの楽しみにしてるよとかいってみたりする。専門の脳のことだけいえばいいのにとツイッターとかでもよくつっこまれているけど。
 こういう道理で、彼らは眞子内親王と小室圭さんのあいだに存在していた、もしくは現にしているのかもだろう恋心というものを全く無視か、軽侮し、両者のあいだに割って入って恋愛関係をダメにしようとしていたのだった。

 世人も一般に、竹田・茂木氏と多少あれ似た行動をしていた様に思う。

 ということは物の哀れ論なんざ現実では、ほぼ誰も信じてないのだ。はっきりいって役立たずの理論ともいえる。寧ろそんなの信じてたら「不埒な人間」として世間から後ろ指さされる位のものだ。それは本居の生きてた時代からそうだったのだろうし今もそうなのだ。日本に道徳、殊に性道徳がないなんて嘘っぱちにもほどがある。 あることはあるが、現に生きていて、当時の規範的性道徳が気にいらない人がなにか虚構のなかに不届きな事を書きつけ、自己満足しているだけのことなのである。飽くまで虚構のなかでは成立するかもしれない色々な不道徳ぶりは、現実ではまず成立しないか、してほしいと人々一般は願っていない。
 だからこういえる。紫式部の物語論は『源氏物語』蛍の帖にでてくるが、そこで語られている事、つまり
「物語は現実の本質を抽出し、強調して書いたものだから、嘘も方便で、なにごとか作者が忘れえない事を人々に伝える役割を担う」
とは半分くらい誤った説だったことになる。もし現代こと令和期の日本のあり様を伝えたければ僕が今書いてるみたく、虚構ぬきで史実ドキュメンタリーをそのまま書いた方が正確に物事は伝わるはずだからだ。それをやたら嘘つき、現実に起きた事を改変し伝えてしまえば、根底にある事象が誤解されるだけだからだ。
 また心の中を伝えたければ、人形劇みたく作り物の人物群を動して比喩にするより、ただ抒情詩の様な形式の方が向いている様に思う。物語の意義というのが別個にあるとすれば、何らかの演劇形式の作り事による儀式的再現、にすぎない様に思う。

 現実は本居の理論どおりになっていない。しかも現実の日本人一般は、物の哀れなんざ少しも尊重していないに等しい。彼らはなんらかの性道徳をもっていて、それに応じて世間を裁こうとする。しかも竹田氏の様な皇族界隈でもそうだし、茂木氏みたいな最低でも東京俗世間で文化人面しているとみなせるだろう人あたりでもそうなんである。口先物の哀れ論を唱えてきている茂木氏は、現実にそう判定すべき場面がきても「性道徳を無視せよ」とはまったくのたまわらない。むしろ真逆に振舞う。これが現実だった。
 みなさんは嘘つきを信用するだろうか。もししているなら小説家とか物語作家とかが書いたことをうのみにしているのは、実にあなたがたの為になるだろう(容易にだまされたいのだったら!)。だが嘘つきを信じないなら、あなたがたが虚構を現実ととりちがえるのは全く賢明なことではないだろう。

 ただひとついえるのは、これらの事実にもかかわらず、自分は眞子内親王と小室圭さんに関しては、その恋愛事情についてだけは、国民の私権を侵害するたぐいの制度上の齟齬とちがって、基本的に完全放置すべきだったのではないかということである。すべてをかんがみ、自称天皇とかいう一般関西人が捏造してきた邪教のまがまがしさが世間に実証されるのは、今の自称・象徴天皇に依拠しかの邪教に洗脳されきっている政体に於いては公益度が高い。しかも一般国民が当の邪教のおろかしさをたまたま鬱屈がたまっていたので客観視でき、結果として、「お金が足りないで苦しんでいる国民より国税を潤沢に使ってはなはだ恵まれているがゆえに」随分安っぽい――尤も当人達にはまぎれなく世界一真剣な恋愛ドラマに感激する人が相当少なさそうな事情があるからには、余計そうだ。世人一般は調度コロナ禍で困窮、手先の暴力団に徴税させてきた自称大和王朝よろしく浪費皇族がたの英国勢ぶった王侯しぐさに反感をおぼえていた。その際、飽くまで暴力振るって嘘をつき、地位を独占・寡占してきた自称皇室だの自称神道だのという制度・宗教が、信者による無謬論・君主無答責や尊崇の念をこえて、いわばまぬけにも自己矛盾を露呈していることになっていた。
 しかもその決定的失敗の内部には、ここでいう物の哀れの典型ともいうべき私利を公徳へ絶対に優先させようとする眞子内親王自身の恋愛事情があったわけです。一般ヤフコメ民でさえそれはたしかにみてとることができていた。
 自分がかさねて思うには特につぎの彼女のお歌。

望月に月の兎が棲まふかと思う気持ちを持ちつぎゆかな

(私の一読み下し:小さなころ満月には兎が住んでいるのだろうと素直に信じていましたが、うぶでけがれなき童心を忘れず、これからも生きていこうと感じています)

烏瓜その実は冴ゆる朱の色に染まりてゆけり深まる秋に

(私の一読み下し:カラスウリの実が、冴えて朱色に染まっているばかりか、徐々に深まっていく秋にいます)

しってる人はしってるに違いないがこれらはそれぞれ令和23年歌会始の作。大体、彼女がすでに小室家へ嫁ぐことを前提に自身の想いをその詩に託している様にもみえなくもない。こういう心情をもった人に、共感知能という点をあえて働かせれば、あれこれちょっかいだすのが望ましくないのはいうまでもないはずだが、問題はこれらを歌った人が、国税なるもので、つまり苦しい状況にある全国民の負担で、それをしていることにあった。

 最終的に、日本文学を学ぶということは、特にその平安期の宮廷付近でつくられた作品解釈の系譜としては、物の哀れ論みたいな特殊類型の思想形態にも一定の理解を示す可能性を開く意味では、世界史的にみて希なしわざなのではないか。そうであれば、世界史にあって今自分がしているたぐいの特殊なまなざしで、今や小室眞子さんとなった人とその夫であるところの圭氏の現実を、ふたりの国籍が今後どこの人かはわからぬけど、ある種の温かな――あるいは微温的な見方でみていくことができるのは、実は日本文学なるものに内在された、虚構に託された或る種独特の理路だったのではないか?
 その理路は実に危ういもので、一歩ふみあやまれば慰安婦問題なんかをも起こす。また東京圏を中心としたオタク業界の変態性欲表現の数々、性風俗業界のそれらはまったく倫理の底が抜けているのが事実。寧ろ規範的倫理を無視するところに、それらの江戸町人・東京商人文化は或る意味で下流的快楽をみいだす傾向が有る。性道徳無効化なんて使いどころを間違えたら多くの人々の生きる尊厳を蹂躙する。その意味で、本居の考えは最たる危険思想だったのは『ザ・レイプ・オブ南京』なんか読んでも全く、確かだ。しかしそれでも、その種の特殊な考え方を帯びることができる、という点に、本居固有の文芸批評史上の業績があったのではないか?