選択しなければ貶められる。
自然には徳義なし。
瞬時損得は秩序の具にならず。
賢ければ未来の幸福の為、現在の快を犠牲にする。
社会は道徳を制度化する。生まれ来るもの死に絶える。生体は自然に逆らう。知能はその極点を目指す。
我々に知覚しうる次元は夢と考えてもおかしくない。
我々の知覚以外にその現実感を実証する手段なし。
論理はそれ自体にしか理由なし。
2007年9月30日
2007年9月27日
2007年9月26日
2007年9月25日
2007年9月24日
2007年9月22日
個人主義論
あらゆる生物の歴史において大多数が進化の速度に遅れて行ったことを考えれば、生き延びられた聖者の子孫においてのみ、人類より進化した生物は発見できるだろう。
もし途中で俗物に蹂躙され死亡したら、その種は場所の適応に耐えなかったという事。俗物の大勢が愚かな侭生き残る確率は低いから、この進化系統樹は衆愚として失敗するだろう。
これらが天才を生かす個人主義の正統性。
もし途中で俗物に蹂躙され死亡したら、その種は場所の適応に耐えなかったという事。俗物の大勢が愚かな侭生き残る確率は低いから、この進化系統樹は衆愚として失敗するだろう。
これらが天才を生かす個人主義の正統性。
信仰
人間界ほど愚劣な地獄なし。
俗物は集団になって聖者を殺す。ジーザスが神に召された如く。
かく如き早く去れば去るほど幸せな地獄に居残る理由、磔の義務以外になし。
かくの如き磔は派手にして大袈裟であればあるほど良い。
その演技が巧ければ巧いだけ俗物に原罪を感化させ、己れの悪業を反省させうるから。
フランクリン13徳に曰くソクラテスとジーザスを模範にせよ、とは誠に至言である。
太宰より川端の方が、川端より三島の方が、三島より芥川の方が、芥川より漱石の方が役者が上であるだろう。
聖者の磔と俗物のそれとには天地の価値差が存在するのは唯、演技力差に過ぎぬ。誰しも肉体が人間たらざるを得ぬ以上は。
生き急ぐなかれ、死の覚悟を引き連れて天寿まで往け。「牛歩」を主義にせよ。
俗物は集団になって聖者を殺す。ジーザスが神に召された如く。
かく如き早く去れば去るほど幸せな地獄に居残る理由、磔の義務以外になし。
かくの如き磔は派手にして大袈裟であればあるほど良い。
その演技が巧ければ巧いだけ俗物に原罪を感化させ、己れの悪業を反省させうるから。
フランクリン13徳に曰くソクラテスとジーザスを模範にせよ、とは誠に至言である。
太宰より川端の方が、川端より三島の方が、三島より芥川の方が、芥川より漱石の方が役者が上であるだろう。
聖者の磔と俗物のそれとには天地の価値差が存在するのは唯、演技力差に過ぎぬ。誰しも肉体が人間たらざるを得ぬ以上は。
生き急ぐなかれ、死の覚悟を引き連れて天寿まで往け。「牛歩」を主義にせよ。
学園論
どの学園、大学、学校、学舎、まなびやも同時代内偏見を免れない。抜群の天才は学外から出る。かれは潮流を脱構築するがゆえに当代無名。
演技の方便に長ける人物は浮世に能才を振る舞う。この人物の中には真実の俗物もあるが、一方では隔世の秀才も潜む。
演技の方便に長ける人物は浮世に能才を振る舞う。この人物の中には真実の俗物もあるが、一方では隔世の秀才も潜む。
2007年9月21日
2007年9月20日
字説
戻は犬と戸による旧字から生まれた異体の日本字と考えてよい。モドルという語がモトルから派生したにせよ、現代人が戻を見て表意的に解釈してもさほど不都合はないからだ。
そして戸の下に大(ひと)を埋めるような風習は散見されない以上、戻は旧字とは異なる新しく作られた漢字と考えてよい。
そして戸の下に大(ひと)を埋めるような風習は散見されない以上、戻は旧字とは異なる新しく作られた漢字と考えてよい。
趣味主義論
パスカル曰く、考える葦たる悲惨から目を背け、とるにたらぬ慰めに耽らせる気晴らしは危険なり、と。我答う。いずれすべては気晴らしに過ぎず、と。神の国を建設する為の道程に幾段の階段ありしや我々知らず。されど人間を進化させる原動力は目的的活動、すなわち趣味なり。もし信仰を批判すればそれすなわち神話伝承の趣味にあらずや。どれだけ主義へ熱心淡白にても人間存在これ一個の自由実存に過ぎず。かれが偉大か悲惨か分けるのはただ活動の種類によりけり。人間は人間なり、いかに獣類未満の悪業愚劣を尽くせども、いかに救世主同然の善導を尽くせどもやはりこれ人間の仕業に他ならず。趣味主義は人間個性を容認すなり。主義の自由を気晴らしの方便として寛容すなり。
ある人曰く、殺人の気晴らしこれ如何、また人事無用のパズルゲームへの熱狂人これ如何、あるいはアブラハムの地にて布教に狂信するキリスト者これ如何などと。我答う、主義は自由なり。気晴らしがなければ人生これ単なる奴隷機械なり。気晴らしの種類に応じては他者に損害を与う場合あり、自己欺瞞に陥り世界独我の発狂をもたらし独裁者や恐怖政治家をも生む危険なきに非ず、されどこれに反して第二第三の才をももたらすに非ずや。自己一個の主人たるには主義もたざるべからず、またこの主義は成長あらばしばしば改新せざるを得ず。
暇つぶしは理性の自在な発達を養生す。而して人間に気晴らしを許すべし。その功罪の罪の悲惨にのみ目を向け功の偉大を退ける臆病は真の勇気の沙汰にあらぬなり。
パスカルによるかのごとき対ギリシア保守論客の見解は人類文化に遅滞をもたらすものにして、ヘレニズムの英知をかろんずるヘブライズム偏向の狭量と言わざるべからず。もし賢あらば以上わが述べし見解の善悪をよくよく考察せよ。人間の最高幸福とはなんぞや。和辻曰く幸福は風土的なりと。されどカント曰く、理論という語に最も今も保存される意味で理性の自律した使用はこれすなわち信の行いなり。ならばあらゆる風土的な幸福もまた、様々な文化を通じて信ずべき理性を目的にするのは明らかなりき。文明とはその結果なりし。いかなる未開の部族にも人類ならざるかぎり語族としての文明は存在す。その分妙は必ずしも厳密に決定できずとて、突然変異による種の差異の範囲で仮定し真理へ漸近させることはなしあたうべし。
ある人曰く、殺人の気晴らしこれ如何、また人事無用のパズルゲームへの熱狂人これ如何、あるいはアブラハムの地にて布教に狂信するキリスト者これ如何などと。我答う、主義は自由なり。気晴らしがなければ人生これ単なる奴隷機械なり。気晴らしの種類に応じては他者に損害を与う場合あり、自己欺瞞に陥り世界独我の発狂をもたらし独裁者や恐怖政治家をも生む危険なきに非ず、されどこれに反して第二第三の才をももたらすに非ずや。自己一個の主人たるには主義もたざるべからず、またこの主義は成長あらばしばしば改新せざるを得ず。
暇つぶしは理性の自在な発達を養生す。而して人間に気晴らしを許すべし。その功罪の罪の悲惨にのみ目を向け功の偉大を退ける臆病は真の勇気の沙汰にあらぬなり。
パスカルによるかのごとき対ギリシア保守論客の見解は人類文化に遅滞をもたらすものにして、ヘレニズムの英知をかろんずるヘブライズム偏向の狭量と言わざるべからず。もし賢あらば以上わが述べし見解の善悪をよくよく考察せよ。人間の最高幸福とはなんぞや。和辻曰く幸福は風土的なりと。されどカント曰く、理論という語に最も今も保存される意味で理性の自律した使用はこれすなわち信の行いなり。ならばあらゆる風土的な幸福もまた、様々な文化を通じて信ずべき理性を目的にするのは明らかなりき。文明とはその結果なりし。いかなる未開の部族にも人類ならざるかぎり語族としての文明は存在す。その分妙は必ずしも厳密に決定できずとて、突然変異による種の差異の範囲で仮定し真理へ漸近させることはなしあたうべし。
哲学のひきだし
学校は知識を教育できるが、みずから学ぶ哲学の心を与えることはできない。唯、ある程度のまねびの手ほどきを与えられるのは事実だろう。従って学校の最大の価値とは優れた同志のまねができる環境にある。学校教育に価値があるのは衆知の平均を向上しえるからである。学校が真理を生み出すのではないし、むしろ集団教育は独創性を摘む場合が多い。ダ・ビンチやエジソンばかりかガリレオやニュートン、アインシュタインも独学が主体だったことを思えば、我々はつねに「例外」的な天才を許容する余地を持って教育の任に当たらねばならない。教育には教えよりeduct(ひきだす)心構えがなければならない。人間は個性を通じてしか理解をしないものだ。比較していかに出来のよくない生徒でも、哲学する心さえ養生できればみにくいアヒルの子になりえるかも知れない。ニュートンやアインシュタインでさえその思索的な天才性によって幼い頃ただの劣等生扱いされたことは歴史が記録している。重要なのは成績というゲームの点数よりも、智恵を愛する心なのだと指導せよ。いずれ哲学者は秀才の群れを抜きん出る。
2007年9月19日
学歴論
女性の高学歴化には少しも憂うべきところなし。唯、命令は男性の尚更の高学歴化に過ぎない。生体本来の出来栄えには性別格差あり、同じだけ努力したところで男性の方に知力の軍配が挙がるのは相撲を取らせた場合と変わりない。そこに特徴あるなら、女性一般はその母体の必要から男性一般より比較的成長が早く、伸びが少ないという事実である。従って男性の成人は女性の二十歳に比べて三十路に引き上げられて然り、嘗てこれを丈人 と呼んだ。その間、真剣に勉強すれば社会は劣等視する余地を持たない。男性の成熟のゆっくりさは貫禄といわれる。
考慮されるべきは女性の学問の種類、女性学者は極めて少ないのが事実で、またそこには必然もある。なぜなら家内として構造的に最も適応的な女性という性別にとって、育児に無関係な知識の増長は却って身を滅ぼす原因になる可能性がある。それは男性からも男性としてしか見てもらえないような奇妙さをもたらすだろう。そしてこのような非家庭的な種が性選択で淘汰されるのは自然である。現代結婚は両性の合意に基づくから。よって、女性には家政学や一般教養という特別な学問部門が設けられるべきだろう。国際適応にはある程度の社交性を必要とするとあらば、花嫁修業的な女子大学における家政学部とは別に、一般大学内に一般教養学部を確立することは教育者の急に迫った命題である。現状では文学部にこの含みがある場合もあるが、それでは本来の文芸研究者志望と混同される節があり好ましいとは言えない。一般教養学部の新設は大学の必然となる。
考慮されるべきは女性の学問の種類、女性学者は極めて少ないのが事実で、またそこには必然もある。なぜなら家内として構造的に最も適応的な女性という性別にとって、育児に無関係な知識の増長は却って身を滅ぼす原因になる可能性がある。それは男性からも男性としてしか見てもらえないような奇妙さをもたらすだろう。そしてこのような非家庭的な種が性選択で淘汰されるのは自然である。現代結婚は両性の合意に基づくから。よって、女性には家政学や一般教養という特別な学問部門が設けられるべきだろう。国際適応にはある程度の社交性を必要とするとあらば、花嫁修業的な女子大学における家政学部とは別に、一般大学内に一般教養学部を確立することは教育者の急に迫った命題である。現状では文学部にこの含みがある場合もあるが、それでは本来の文芸研究者志望と混同される節があり好ましいとは言えない。一般教養学部の新設は大学の必然となる。