2023年2月12日
英国勢、佐賀勢、天皇一味ら邪悪な帝国主義者の分析と対策
他方、茂木健一郎氏の周辺にはJ-popもあった筈だが、その文法を彼は殊更憎悪している。これは単なる俗物主義で理解できる。オペラ音楽の様な日本側の市民階級文化ではない代物には感激し、外国の同時代通俗大衆音楽には誉め言葉をいうのだから、単に国内でハイカラ教養人面の馬乗りをしたいだけだろう。
ルパート氏は第二次大戦の戦勝に驕った無意識の英国文化帝国主義者、もしくは唯の好みの自己中心主義者にすぎず、BBCオリエンタリズムの偏見に媚び売って日本文化の一部を辱め、自分が教育的上位に立ったつもりになっていたのだろう。それで茂木氏に諂うツイートで自分の地位と面目を担保しようとした。
茂木氏は剣橋帰朝者たる英国出羽守で、輸入学府卒の馬乗り芸が十八番なのはもう周知の事で、大抵の見物人らのうち常識ある者は彼の的外れな幕末西軍系の直輸入式ハイカラごっこにうんざりしている筈だが、彼自身、その種の輸入学者腹踊りに羞恥心を感じず、逆に薩長成り上がり華族風の快感をえている。
このルパート・茂木氏による最悪の文化植民地主義タッグは、特定文化の尊厳をひたすら陥れる凶悪な無教養の蛮行に至った。自分には予想できていた。恐らくそうなるだろうと。粗野で無作法な幕末佐賀人の下士は似た様に、江戸や東日本、琉球、朝鮮等の文化を破壊し、西洋古典建築擬きの東京駅を設計した。佐賀の人々は自分達の文化に自信がないのか、猿まねした西洋流儀擬きを強制的に上から目線で各地に植えつけようとばかりしてきた。ブレグジットで驕れるBBCによる、多文化共生を骨抜きにする悪意(害意や事情通)に満ちた自文化中心主義記事をたねに、今度も全く同じ仕草だった。普段から人文素人の茂木氏はそうだった。
だが今回は、自分は彼らのいつもの英国文化帝国主義やそれに従属する幕末西軍系の強制西洋化が出る目を完璧に読んでいたので、相手側の出方を伺ってから先回りして抑えの高飛車を打った。これで傲慢にも日本の大衆文化を、間接的に庶民を見下すつもりでいた相手がたは罠に嵌り、藻掻くほど自壊しだした。
英国勢にせよ佐賀勢にせよ、彼らの全動機を解明した上で相手方の行動原理を読み切り、彼らの常態的な悪意ある蛮行を抑えきらねばならない。
ラスボス天皇一味も英国帝国主義の手先を進んでやって、名目王政のふりで政教分離せず命ながらえている超法規的邪教祖一派なので、解析を怠るな。
「鉄は熱いうちに打て」の科学的根拠
がさつな人
がさつな人は繊細な優しさと弱さを混同している。心優しく同時に気も体も強い人がいる。場合分けは次の様になる。
・心優しく気も体も強い或る人が繊細さを繊弱さと容易に取り違えるのは、その人の共感知能が未発達で、細やかな気遣いによる思いやりに、がさつで不躾な(しばしば大胆にみえる)行いより高い価値をみいだせないからだ。その様な人こそ一般に「がさつな人」とみなせる。
・心優しく気が強く体は弱い
・心優しく気が弱く体は強い
・心優しく気も体も弱い
・心ががさつで気も体も強い
・心ががさつで気が強く体は弱い
・心ががさつで気が弱く体は強い
・心ががさつで気も体も弱い
がさつな人は思いやり深さをただちに軽蔑的文脈での女性的資質、女々しさと見間違えることも多い。当人に殆ど相手の立場に立った気遣いができないので、特に無意識にすら十分な悪意を持って、自分にない資質を見下す為の性差偏見が起動し易いのである。
詩才や詩心を馬鹿にする人はがさつな事がとても多い。感情の襞が少しも分からないのだ。またそんな人は無思慮な行動主義に驕って、人々の気持ちを踏みにじる事に快適さすら感じており、往々にして細やかな心の人々に残される彼らの蛮行による傷の深さと耐え難い痛みを僅かたりとも思いやるつもりがない。
西村博之や茂木健一郎の無法行為について
西村博之一味が知識人扱いな東京は、三流文化都市だと自己証明している。何しろ彼の言説に哲学史上の功績があった試しがないばかりか、iPhoneのヒットすら大幅に外し平気でいる当の詭弁屋は、相対主義で衆愚政治をつくりあげ亡国の因になったソフィスト同然、賠償金を踏み倒す無法者の愉快犯だからだ。
西村一味を賢者かの如く扱う茂木健一郎は倫理崩壊しきった悪党にほかならず、東大法学士でありながら世間の順法精神を台無しにする大のつく不良だ。国費教育に失敗した事を東大当局は認め、彼の学士号を公に剥奪すべきだろう。法の抜け道を使う子供だましで匿名犯罪を換金した罪は消えない。
なぜ一部の人がJ-popを攻撃するのか?
1、茂木健一郎
2、ルパート・ウィングフィールド・ヘイズ
3、てんちゃん
4、みき
茂木の意見は、この音楽様式が軽薄な恋愛詩が多すぎ典型的で同じ様に聞こえるといったものだ。
第一に茂木個人の恋愛劣等感は他人には関係ないのでそれは問題外だが、恋愛詩自体の内容の真剣みとか深み、その他、様々な恋愛感情の表現を軽蔑する様な仕草というのは、ある種の生真面目な生徒にありがちなものだ。自分も中高生の頃はちょうど反抗期になっていて、安直な恋愛感情に皮肉交じりの反発を感じる事もあった。『ニシエヒガシエ』で恋愛を動物視する様な形で。いわば恋愛感情は人間性の一部で有性生物が帯びる本能の一側面として捉えられねばならず、それを否定して回るのは単に人間憎悪にすぎない。ロックやパンクなどでの恋愛憎悪に共感を感じるのは、ヒトの動物性を容認できない思春期らしい感情の一側面で、より大人になれば恋愛表現自体をメタ認知できる。
J.S.ミルは自伝で、当時の合理主義的な教育方針により、あらゆる感情を動物的で劣った要素として抑圧するよう親からいわれて死んだ様な気分で生きていたが、思春期に詩を読んで生き返った様に感じたと書いた。
いわば茂木はまだ、この人間の自然な感情の蘇生をされないまま、年老いてしまった人である。
J-pop文法に一様性があるのは、大衆の好みの中央値へ最適化しているせいだ。出自としてカセットやCD隆盛期に商業的消費商品として企画された様式で、一定の短時間にCMやドラマの挿入歌などで使い易く、カラオケで誰でもまねられる音程に近く作曲される。一定の手軽な旋律をもつ「サビ」の節が必ずある。小室哲哉がシンセサイザーなる新楽器がもたらしたピアノ楽曲の可能性のもとユーロビートの影響下に作ったサビ旋律をもつ作品群が典型例だが、他にもバンド構成によるビートルズ風大衆歌を全く別の多様性に応用しヒット量産してきたMr.Childrenの楽曲などは、極めて規範的にJ-pop文法を使いこなしている。
彼らの創作は茂木が言うよう下らないものとは到底いえない。単に独創性が甚だ高いので、他国で理解されるのが遅れているだけである。楽典自体が分からない茂木はこの事に気づけないのだ。小室音楽を売り出したレコード会社avexなどが十分大きな国内市場を取った為、他国へ売りに行く動機がなかったのだ。
ルパートという人については日本語が陸に読めないと言っていた。従って日本語歌詞が分かっているとは思えない。それは歌を聞いていながら音の構成にしか理解が及ばない様なものだ。だが彼は音楽構成そのものの理解も欠けているので、芸術における独創的分野の意義が分からないまま生きているのである。ルパートの英国人独特の嫌味ったらしい皮肉が、彼らの中では知性の証かの様に思わせる、ある種のスノッブ表現もあっただろう。それでマンホール装飾など審美的デザインに金儲け効率より低い価値しか認めないBBC記事の感じから、陸に知りもしないだろう芸術分野に口を出し、低自由教養の尻尾が出ている。
てんちゃんはこう言っていた、「もし典型的J-pop文法があるなら自分はそれを絶対使いたくない」と。もし北海道に移住した彼があのピグ民の彼だったら、最近はそのJ-popを弾き語りしてる様に見えるので、意見を変えたのだろうか?
思うに売れる大衆歌は十分な分かり易さがある。だが売れる必要はない。
みきについてはボカロ世代なので、それ以前の古い音楽に聞こえるのだろうと思われる。確かにボカロ楽曲はJ-pop文法をそのまま流用したものだから、楽曲の構成そのものにはさしたる変化はないにせよ、歌っているのが機械音声だ、という点に違いがある。「こぶし」の様な微妙な音声変化が抑制されている。
以上が僕がみた全J-pop批判者らへの反論だが、結局、彼らの理論的視座は、全員がJ-pop楽典への攻撃になっていない。茂木とルパートは、単に楽曲づくりの副次要素な国内向け大衆音楽市場規模を、英語圏その他の市場規模より小さいので楽曲としての質も低いかのよう悪意で混同させ、辱めている卑怯者だ。
自分は音楽を単に甚だ愛好するばかりか楽典の歴史的本質ごと研究してきて、現代前衛音楽の創作者の一員でもあるから、ある種の確信を持ってルパートのBBC記事を見た瞬間に、上記の事柄には気づいた。だが彼にその事を教えるのは極めて大変そうだった。彼の周りに同調する茂木もいたので余計厄介だった。茂木もルパートも典型的スノッブだといっていい。スノッブとはケンブリッジ大などで「部外者」の靴屋を指す意味で使われていた学生言葉だったようだが、今では上流気取りの見栄っ張り屋を意味する。彼らは上流芸術に通じているふりをしようとしたのだ。
確かに音楽は既に古代ギリシアでも古代中国でも自由教養の一部にいれられていたほど出自がいい芸術分野と考えられている。昔の教養人は、数学的比率に基づいて楽音をならせば魂が清められるといった解釈で、理性的に考察されるべき人間性の不可欠な要素とみていたのだろう。
だが現代音楽は幅広い。
J-popも当然ながら民芸、あるいは大衆芸術の一部を構成している。それは民衆の心を表すもので、全てが低俗な内容とは限らない。多数支配の体制をとる今の政体の元では、天皇がX JAPANのYOSHIKIや、EXILE、三浦大知らの楽曲を秋元康に記念式典で披露されるなど、大衆歌の学識も民意を捉える重要な手段だ。
全ての音楽様式のうち、なぜ茂木やルパートがJ-popだけを狙い撃ちにして攻撃したのか。この答えは彼らがスノッブだから、で終了だ。上流気取りの見栄っ張りの為には低俗なものと一般に認識される対象を攻撃していれば、自分が一般大衆とは違う特別な上級国民だと示せる、と彼らは無意識に踏んだのだ。
古典的正格について
芸術としての西洋古典音楽には調性、及び音階の整理による純粋音楽としての様式的単純化が試みられた時期があった。自分が聴いてきた限り、バッハがその一つの極点にあった様に思われる。まだ完璧に彼の楽典上の工夫のすべてを把握しているとは言えないので、理論的には将来より詳しく語るかもしれない。
自分も音楽創作はやってきた。絵の隣接分野で、応用的に考えれば、新造形主義の理論がそうであった様に音楽へも適用できる造形美術との共通理論がある、と考えていた。10代後半に実験作を作って高校以後の友達の小野君や田中君に聞かせた事があったが、本格的に記録しだしてからの作は一応残してある。
自分は音楽を理論的興味の対象にしている。主には。勿論それ以外にも音楽という分野自体がもたらす心理的救いの効果は著しくすばらしいものなので、他の音楽聴者と同じよう、端的に心から愛している事もある。
無調性以後の実験を自分もしてきたがこの方角には限界がある、と自分は極点で気づいた。
絵でそうであったよう印象派かその原始的萌芽であったターナーを先駆けとして抽象美術以後の純粋化は、モンドリアンさもなくばイヴ・クラインで一極点を達し、以後は後近代の乱雑な様式へ転化していってしまう。自分はそれでも純粋化には意味があったと感じていた。今も思う。音楽も類似かもしれない。
自分は妹島和世さんの事務所に弟子入りに行った。21歳の頃だ。暫くSANAAで模型製作などを手伝っていたが、あの場から学べた事は無意識への影響含めとても多い。彼らは確かにこの時代の最高の建築家集団なのだろう。創造性を集団で追求する一模範がそこにはあったと思う。終わらない学芸会みたいだった。
重要なのは妹島氏の使う建築様式だと自分は感じていた。それはモンドリアンやドゥースブルフらデ・ステイルに近接した所から生まれたミース様式以後の純粋化を、彼女ほど明白に続けている設計者はいないと感じていたからだ。五十嵐太郎はモダニストとSANAAを呼んでいたが、新モダニストと呼ぶべきだ。
新近代主義、ネオ・モダニズムははっきりとした理論を作っていないので、なんとなく行われ始めているだけでミニマリズムと恐らく混同されている。だが両者は違うものだ。
妹島さんがやっていたのは純粋化なのだと思う。模型を余りに膨大な数試作し、それらの中に、よりよい秩序をみいだす様だった。
自分は音楽創作にあたっても似た様式が応用できると感じている。だからバッハに遡って純粋化の尊さ、意義を改めて感じだしているのだろう。グレン・グールドが弾いているのは恐らくは本来練習曲であり、そこに音階の万遍ない既習ができる配置がある事に、純粋音楽の古典的格式が生じているのだろう。
なぜ純粋化に意味があるかなら、元々、芸術表現には様式的格式というものがあり、その正格、基準、カノンをつくりあげるところにある種の醍醐味がある。そのうちより古典的とみなされうるものには優れた正格が達されているとみなしてよい。そうだからこそくりかえし再現され、まねされ、模範曲とされる。
従って作曲に関するかぎり理論的な正格を把握する事が何より重大だと自分は改めて思う。バッハに重要さを認めるのはこの為だ。建築家ではミース以後最も重要なのが妹島さんなのは絶対だと自分は確信し、彼女の事務所の門を叩いた。正解だった。
自分が後世の模範たる為には、研究を続けねばならない。
2023年2月11日
東京や大阪の下級商人気質
幸福論
第二に、世俗と隔絶して生きよ。世間と接すれば確実に害を受ける。世間は愚者で埋まっているからだ。
第三に中道を守れ。これは一般の徳だ。
利己的な西日本勢の無歴史
衒学と説明
余りに愚かだと、物事が難しいだけで発狂、逆上したり、場合によっては相手を脅迫、弾圧したりもする。
仲間
多様性を尊ぶ仲間は寛容だが、別の仲間は一様性が秩序維持の要件だと考える。
何らかの違和感を感じた集団からはすぐ離れるがよい。馬の合わない集団は別の仲間だ。
音楽そのものを聴いていない人
楽しようとする人々
終わってる人
出世と隠遁
くだらないやつが名誉を得て
ちやほやされ
そのまま有頂天になって遂には
東京の下衆な週刊誌に落とされる
くだらないやつが作る国は犯罪的で
なにも安らげない
そこで立派な人は少しも出世せず
いなかの畑の奥にいて
あばらやの奥に一人座り
詩を詠みながら世を憂いている
愚かな人々、低俗な人
愚かな人々が突然賢くなったりはしない。愚かな人々はより愚かになっていき死ぬ。愚かな人々は後天的に教育しても愚かな侭である。
低俗な人は自分の低俗さにことさら自覚もなく、落ち度も感じない。それは低俗な人が下品さを何らかの好ましい資質と勘違いしているからだ。
