2018年9月30日

卑しい人々

卑しい人々が卑しいからといって失望したり、この世に絶望するな。それはただ当然なのだ。卑しい人々と接しないよう細大に努力するがいい。

2018年9月29日

文と声

人類全般の中では、文の読み書きは善徳と考えられ、口で話すのは悪徳と考えられている。文は過去の賢者に学べるので、声による学習より効率がよく、また自己表現するに際しても、声はその場できえてしまうが、文なら永続する。

人づき合い

この世で不幸の原因を作り出しているのは、卑しく悪徳にまみれた人々である。それらの人々を避けるのが良い結果をもってくる。
 愚者は戦い、賢者は逃げる。争いは愚かさの証だからだ。争い事を好む人に深入りするな。
 人間一般を好む人は、劣った人間である。自分よりすぐれた部分をもつ人が少なければ、人づきあい一般は有害だからだ。少数の限られた友達すらいない様な人は、自分より優れた特徴をもつ他人としりあう機会がないのだ。過去の偉人や遠い国の聖者に私淑するようにせよ。
 多数の人々が好んで貪る資源にたかる事なかれ。

2018年9月28日

利他性について

目的としての利他性は、つまり自己犠牲は、究極の所、良心の満足という利己性と一致している。だからカントのいう定言命法というのは、仮言命法を「良心の満足」という限定領域に限って考えているものだといえる。むしろ、自分の良心をよく満足させる、という利己性の究極形として、利他的な自己犠牲が定義される。自分の良心に背く自己犠牲、というのを想定する事でこれが反証される。それは基本的に善ではない。偽善というのは、慈善とことなっているわけだが、自分の良心に背く自己犠牲がそれにあたるのだろう。嫌々ながら奉仕してる場合、それは善とは言いがたい。或いは本当は相手のためにならないとわかっているか、当人が気づいていないにせよ恐らくそうである状態で奉仕している場合、それは偽善になる。利他性は究極の利己性であって、本来、両者は矛盾していない。
 ところが、性悪であったり、人生の途中でよい習慣に恵まれなかった人は、他人に害をなしてまで自己利益を追求する事をおぼえてしまっている。この為、究極の利己性である良心の満足が得られない。
 更に、サイコパスと呼ばれる、良心が脳内の盲点となっている人々がおり、この人達は良心自体ではなく、利他性からえられる副作用としての自己利益にしか満足をみいだせない。良心は生まれながらに感知できるのが一般的人類で、だれか赤の他人を無条件に助ける事で自己満足が得られる。しかしサイコパスはこの様な側面をもっていない。

2018年9月27日

相談

自分より愚かな人に相談しても何もよいことはない。親兄弟すら自分より愚かなら、相談するかいはない。

誰からも忘れられ
誰からも遠い場所で死ぬ
それすら美しい

2018年9月23日

幸福論

我々が幸福になるには、益々自分自身になるよう努めればよい。卑しい人と接して幸せになりえない。ただ尊い人とのかかわりのみ、幸せをもたらす。

2018年9月22日

学び

人はより貴く生きる為だけに学ぶべきだ。

2018年9月19日

秋の虫

人共の苦しむ間も鳴く秋の虫
くまんばちお前も萩を嗅ぎにきた
秋の虫歯磨きの為に明けた窓のぞく
わが庭に更々音なす笹と風
わが庭の芝生にはだしでおりてみる
わが庭は秋に輝き萩かおる
わが秋の庭に輝く光の粒

宗教論

神が実在しないという立場をとる人は、科学を現実と取り違えている。科学的に実証できる範囲は、有限だし、しかも時代や見解によって常に変わる。だから科学は一つの宗教だ。無神論者はその宗教にはまっている人、科学教。科学万能論者はいずれできると甘いことをいっているだけ。理系馬鹿の実態は、科学教の狂信者だ。 
 自然科学の範囲内には倫理がないので、邪教である。サイコパスは科学教をこのみ、無神論に陥りがちである。無心論者が悪徳に陥りがちなのは、むかしからそうだったらしく、フランクリンが自伝で批判している、無神論者はろくなやつがいないと。悪徳に陥りがちだと。彼らは人を裏切り信用を落として平気な顔をしている、倫理的知能を無視している。大学も宗教の洗脳装置と一緒だから、大学の理科系で習った範囲を狂信し、それ以外の知識やら知恵やらを侮蔑してるのは愚かである。むしろ本来の学問は大学の権威を疑って自力で学問するところからしかはじまらない。
 キリスト教の場合、神の身代わり(精霊)としてイエス人類に徳を説く形だからキリスト教を信じてると、自然に、ある徳を身につけていく形になる。 
 無神論のおちいりがちな欠点は、「最高徳」をもっている実在を否定してるから、自分より尊い存在を認めなくなってしまう。
 物理は倫理に含まれるので、倫理側の方が愚かなわけがない。こどもがおとなをばかにしてるみたいなものだ。 
 宗教は、似た信仰を持つ人とのやり取りを促進する。人類の5割以上はキリスト教かイスラム教徒なので、この2つの宗教について詳しいと、人類の過半と基本的やりとりができる。僕は少なくとも欧米系の人や、中東の人とやりとりし、宗教的な基底があわなかったことがない。聖書とコーランは読むべき。

2018年9月17日

望み

自分の中の徳に従うのだ。
 愚者や悪人と片時も接するなかれ。賢者や善人、聖者、偉人とわずかに接しても我々は大いに得る。俗に染まる機会を最大限避けよ。
 満たされたいと願うなら、望みは少なくあれ。

2018年9月15日

音楽論

ある音楽が快適になるには、似た音楽を聴く時間、ききなれるための時間が必要で、しかも音楽は一定時間を聴く為に必要とするわりに、人生は有限で、ユーチューブの登場でさらに自分の好みでないジャンルをきかなくなった。ひとことでいうと可聴体験の細分化と多様化がすすんだ。
 ある音楽が快適になるには、自分になれたパターンに近い構成である必要がある。
 鳥の鳴き声に関して学ぶと、なぜある歌・曲を人が心地よいと感じるかわかる。鳥はあるパターンのオスの鳴き声を模倣する。メスはそのパターンの巧拙や展開をききとる。最初にきかせるパターンをかえると、そのパターンでなくようになる。オウムがいい例。人間の音楽も、最初に習うパターンによって、違う展開になる。
 メスがなぜあるパターンを美と感じ、別なのはそうでないかというと、一定のパターン同士の比較で、より複雑なものをききとっていることによっているとおもわれる。もし、一定のオスの鳴き声の比較があるなかで、あるパターンとまったく違うパターンのなきごえをきかせても、美に感じない。したがって最初のパターンに或る程度近く、しかもその類似パターンより或る程度複雑、という程度が、或る人にとって美なのだ。
 客観的・物理的にみたら音波のパターンに美などない。メスの脳内に、或るパターンの雛形があり、それは成長過程でききとるものから作られる。そこからの複雑さのわずかなずれのみを美的にききとっているのだろう。吹奏楽部と軽音楽部に属する人達は異なるパターンの音楽を美に感じているというわけだ。
 人によってこのみが違うどころか、脳内で理想とする音楽構成そのものが違うから、その理想的雛形からの少しのずれ程度しか美としてはききとれない。
 美は音楽に関する限りは、主観による捏造だ。

2018年9月13日

教育からの自由

我々は教育されたことから自由になる度合いに応じて、独創的な、本来の自分の知性を発揮できる。

交際

なぜ人は他人と接するのか。少なくとも品性下劣なつきあいより孤独の方が優っている以上、交際は限定的であるべきだ。
 人が人たるゆえんは、何かの能力にある訳ではない。
 我々はごくわずかな時さえ有限のうちに消費しているのだから、その全てを無駄にしないよう生きるべきだろう。
 幸福追求権は快楽へのそれにまさっている。幸福は利他性に等しいからだ。
 我々が他者の幸を願う時、その人の利他性を信じているからそうなのだ。よき人に幸あれ、これが幸福の原型である。

幸福に値する人

人は幸福に値する人となる事で、実際の幸せを無制限に甘受できる。だが幸せに値しない人は自らの悪徳で幸福を拒む。
 幸福は目的自体としての利他性であり、快楽自体から峻別されるべきである。

2018年9月11日

究極の慈善

究極の慈善とは、自身が人類の中で最も神的な存在となる事だ。

孤高

孤高は卑しい人とのつきあいにまさる。

世話

愚にもつかない人の世話をしている暇があるなら、自分が一歩でも進歩するよう努めるがいい。人生は総合知によって完成する。この総合知は倫理、道徳性、人格ともいわれている。人は優れた人格となる事のみで、より幸福に値する生き方ができる。慈善の倫理性は究極目的だが、総合知を低める時間はとるべくもない。啓蒙、啓発、教育、対話は模範に比べ効果をもたない。

2018年9月10日

人生の課題

自分の人生の課題が他者のそれと混同されている人にとってのみ、人生は生きるに値しないのだ。

倫理とAI

AIで人類が理想を実現すると述べている愚者は、多くの技術革新の果てにもその道具を悪用した人類史に無知である。道具は倫理自体ではない。いかなる工学上の進歩も、経済上の進歩ですら、倫理の最重要性を少しも変えないだろう。形而上学を軽侮する理系馬鹿の一生が不幸なのは至極当然というべきだ。幸福は倫理学の一部としてしか定義も探求もされえないのだから。
 AIと倫理のいずれが重要か問われれば、人は迷わず倫理と答えるべきだろう。倫理は究極目的だが、AIは道具の一部でしかないからだ。

聖徳は一人その人のみならず、時代を超え遠くの国々の人にまで素晴らしい感化を与える。即ち徳が力である。
 マキャベリストは政治において徳を軽視してきた。だが究極の力は徳により人々を感化する力でしかない。徳と矛盾する現実の覇威は、巨大な徳の台風の中で扇風機を回す様なものだ。

つきあい

普段ともに時を過ごす人が、即ちその人の一生を作る。自分より優れた人と過ごさぬ限り、人は堕落するのみである。

2018年9月8日

自己犠牲としての目的的利他性

慈善の為に卑しい人々に奉仕する聖徳の持ち主は、当然ながら尊さを寸分も理解できない卑しい人々からの加害行為の被害者となる。その様な悲劇に耐えられるのは、まぎれなく聖人以外ではない。
 相利以上の利他的な功利性の中では、この種の現実を知る必要がある。慈善行為をされる卑しい人の側は、自らの思考の範囲では利他性を道具としてさえ殆ど認知しない。卑しい人は愚かで誤解や冤罪をし易く、つまり尊さとしての利他性を基本的に想像もできないので、慈善家が利己を目的に言動しているとしか捉えられない。
 卑しい人に奉仕するのは、これらの故に、非常に不条理である。人は尊い人に奉仕することで公益を最大化するが、あえて卑しい人へそうするのは、しばしば自己犠牲そのものである。

奉仕について

卑しい人に奉仕するのは、尊い人にそうするのに劣っている。卑しい人への奉仕は、しばしばする当人にも有害である。慈善にも質があり、尊い人へする奉仕はより優れている。

2018年9月6日

サイコパスの幸福についての分析

サイコパス(サイコ)は良心の欠如をなぜか知性の証拠と思い込む場合がある。が当然、良心に関する道徳的知能は知性の一種である。
 サイコは「利己的でずるく生きること」を、「利他的で幸福に値する人、愛されるべき人として生きること」より、当然のように重視する。だが、より幸福なのは他人から愛される人であって、害他的で憎まれる人ではない。
 サイコの社会的な幸福は、良心がみえないことによるある種の倫理的盲目さの中で、自己利益を目的とする仮言命法的な偽善を演じる技術にとどまる。偽善者の幸福と、真の善人の幸福は、前者が利己を目的にし、後者が利他を目的にするところがことなるが、サイコにとって良心は盲点なので、良心の満足による幸福はえられない。
 サイコの有害さを避けるには、彼らが偽善的にふるまう利益を示すべきだが、彼らに利他的な自己犠牲による自己満足という偽善の極度を理解させるのは難しく、結局、一定の距離をおいて彼らの公害を避けるのが賢明である。
 サイコの社会的な最高幸福は「名誉感情」としての偽善を完成させることに求まるだろう。己自身への名誉という観点からなら、利他性の意味を自己利益の目線で理解できるからだ。

性悪

人の不幸を願う人とつきあうのは、自ら不幸になりたがるのと変わらない。

単なる賢愚や尊卑とサイコパスの違い

愚か者や卑しい人にとって尊い人が何を考えているかは想像の外にあり、決して彼ら単体で美徳に思い至る事はない。
 サイコパスは良心をもたないのだが、そのこと自体にサイコパス自身は疑問も持ちえないし、逆に善人を愚者と誤認さえする。一般人や善人はサイコパスと関わると、専ら被害者となりがちだ。単に実際の愚者には利己主義者とサイコパスの違いがみわけられない。すなわちサイコパスには良心が盲点でそれ単体の究極目的をみてとりえないという特殊さを、ただ良心がありながら利他的にふるまえない卑怯者と、愚者は区別できない。サイコパス自身に仮言命法や相利性は利己の手段としか捉ええず、自己本位な利己性しか目的視しえないので、もともと善の定義というべき定言命法側の倫理的世界観を仮にサイコパスがみてとっても理解できず、逆に愚かさの印と思い込みやすい。
 卑しい人はサイコパスと重なることも多いが、本質的には、悪習により害他的なふるまいや、自害的悪徳を身につけてしまっている人である。

悪しき賢さ

下賎な人達に親しむな。悪しき知者は善き愚者と同等以上に悪い結果をもたらす。倫理なき人は関わるに値しない。悪しき賢さの有害さは自他に最大であるから、賢愚より善悪は人間づきあいに関する限り遥かに重要である。

判断

愚者を反例に、賢者を手本にする事。悪人を避け、善人のみに親しむ事。俗人にかかづらわず、聖人に見習う事。

2018年9月4日

理系バカとサイコパスについて

理系バカはモラリストに決してなれず、サイコパスは合目的性と倫理性の違いを見分けられない。対人関係から得られる幸は倫理性に由来しているので、理系バカやサイコパスはそれによって幸福を得られない。したがってこれらの人々は手段たる快楽と目的としての幸福の違いも、殆どみわけられない。
 少なくともサイコパスの一部は遺伝子の差として良心に盲点がある為、倫理的幸福追求が不可能である。その人にできるのは、偽装的・模擬的なモラリストを衒う事での他者の手段的利用でしかなく、偽君子の演技しか熟達しえない。

2018年9月3日

媚態

「どっちつかずの態度」と「見た目だけ若く」なる事が、加齢しても通用する媚態の本質である。

君主論

徳に応じて君主たるべきだ。名目君主、害のみあって益なし。天皇制は単なる擬制。

2018年9月2日

愚者

愚者は反面教師としてのみ公益に値する。

The lives

We will die with a time
which shared all our lives
But there is a time another
which shared as to live too

2018年9月1日

梨の時

りんご梨混在している時しずか
秋になるこの空気こそわれ愛す
わが町に通り抜けゆく秋の足音
夏祭りおわりつつ来し梨の時