目的としての利他性は、つまり自己犠牲は、究極の所、良心の満足という利己性と一致している。だからカントのいう定言命法というのは、仮言命法を「良心の満足」という限定領域に限って考えているものだといえる。むしろ、自分の良心をよく満足させる、という利己性の究極形として、利他的な自己犠牲が定義される。自分の良心に背く自己犠牲、というのを想定する事でこれが反証される。それは基本的に善ではない。偽善というのは、慈善とことなっているわけだが、自分の良心に背く自己犠牲がそれにあたるのだろう。嫌々ながら奉仕してる場合、それは善とは言いがたい。或いは本当は相手のためにならないとわかっているか、当人が気づいていないにせよ恐らくそうである状態で奉仕している場合、それは偽善になる。利他性は究極の利己性であって、本来、両者は矛盾していない。
ところが、性悪であったり、人生の途中でよい習慣に恵まれなかった人は、他人に害をなしてまで自己利益を追求する事をおぼえてしまっている。この為、究極の利己性である良心の満足が得られない。
更に、サイコパスと呼ばれる、良心が脳内の盲点となっている人々がおり、この人達は良心自体ではなく、利他性からえられる副作用としての自己利益にしか満足をみいだせない。良心は生まれながらに感知できるのが一般的人類で、だれか赤の他人を無条件に助ける事で自己満足が得られる。しかしサイコパスはこの様な側面をもっていない。