慈善の為に卑しい人々に奉仕する聖徳の持ち主は、当然ながら尊さを寸分も理解できない卑しい人々からの加害行為の被害者となる。その様な悲劇に耐えられるのは、まぎれなく聖人以外ではない。
相利以上の利他的な功利性の中では、この種の現実を知る必要がある。慈善行為をされる卑しい人の側は、自らの思考の範囲では利他性を道具としてさえ殆ど認知しない。卑しい人は愚かで誤解や冤罪をし易く、つまり尊さとしての利他性を基本的に想像もできないので、慈善家が利己を目的に言動しているとしか捉えられない。
卑しい人に奉仕するのは、これらの故に、非常に不条理である。人は尊い人に奉仕することで公益を最大化するが、あえて卑しい人へそうするのは、しばしば自己犠牲そのものである。