2020年8月21日

18才の自伝 第二十五章 デッサン修行

『18才の自伝 第二十四章 保谷自転車屋業界の明暗』の続き)

 最初の授業の日、ドバタに行くや、それは地下1階のアトリエでだったが、普通にモチーフが置いてあり、木炭紙にデッサンしろというのであった。この最初の授業の日は先日の失敗を考慮して始発に乗った筈。しかし驚くべき事に、保谷で始発に乗ろうとして朝ぼらけの中で4時とか5時前頃に駅まで行くや、すでに並んでいるのである。僕の地元の駅ならラッシュ時がその混み方なので、これはこれで文化衝撃であり、正直、その都会なるものは何一つとして優れた点ではないと思った。どこが偉いかさっぱりわからん。いづれにしてももうこれ以後、僕はラッシュに懲りているので、朝一に乗れなかったら昼前に空いてから学校に行かざるを得なくなった。都会人一般はすし詰め大好きでその中で痴漢しあって発情してんのだろうけど(ツイッターで探すといるしFANZAリポートだと女側もそう出ている)、正直東京の暗面である。東京変態カルチャー。そんなの僕が、この純朴な真人間の僕が、中に入っていって適応できるだろうか。当たり前だけど違和感100%しかないのではないだろうか。練馬区。僕とは違う種族が適応して暮らしている世界。ミスチル桜井実家が布団屋。道端で尾崎豊が勿忘草発見。そりゃそうなる。電車が電車だ。
 だからといって自分は練馬の全てを憎んでいたのではない。練馬だけに一応というべきか区立美術館もあって。一度か二度くらい行ったけど、なんか地元作家みたいな人の抽象系の回顧展で結構興味深いほうだった。その絵一流かといわれたら微妙だけどさ。まともな美術館だよ、でも。存在意義からしてもさ。他にもいいところはある。あの区役所の、展望台ね。何度行ったか分からない。高校先輩のSさん。まだ詳しく出してないけどさ、彼についてはどうせ書かざるを得ない。僕が後輩では多分一番親しくさせて貰っていたかと思う。本当にいい人だし格好いいし、しっかりしているし考えも。その上美男子でしょ。そのSさんの欠点なんて探そうとしても、基本的に一個も僕は知らなかった。Sさんは現役で入れて当然なほど絵もうまいし、というかスポーツも見た目からして運動神経よさそうだが実際、サッカー県大会? だか知らんけど中学でもよかったぽい、なぜかあの魔の美大芸大入試のせいでドバタにいらせられた。そのSさんである。当然進学校だわ言う事に疎漏がないわで優等生なんだから学業も優秀だったに違いないのに、あの酷いドバタで。酷くもないか。すばらしいドバタで。白いね、使い捨てツナギ着て。ドバタの画材屋で売ってるやつ。僕がはじめにSさんいた、って感じでみつけたら気まずそうな顔されていた。
 とにかくね、僕はSさんに多分だがかわいがられていたほうであり、実際にSさんの下宿に泊まりに行かせて貰った。そんで。ほかにもSさんの当時つきあっていた女性、といってもSさんはその女性の前でも彼女ではないとか言っていた様だったが(僕がみるにSさんはそう思ってても、その女性のほうはSさんが好きなのではないかなと感じられる節がのち諸々あった)、その人と3人であの桜木町経由で。有名な。僕の中だけか。山崎まさよしで有名なあの都会らしい駅。南関東では一番大都会っぽいでしょうね。いい意味で。僕にしては珍しく都会性を褒めてるけど。全体的に東京圏の駅は醜いけど、東京駅も本当に使いづらいし。広すぎて。西洋建築パクリのもどきの亜流だしで一番嫌いなんだが、桜木町の出た所の開け方はいいよね。
 そんで、そこを経由でなんかの現代美術系じゃなかったと思うけど、展覧会行ったのだ。僕とSさんとその付き合ってる女史とで。その女史もドバタにいた、僕の一個上の先輩だ。Sさんについては語るべきだろうな。色々。あれだけ立派な先輩がほかにいるだろうか。かけがえない。偉大なりS氏。理想的先輩像といえよう。Sさんは総じて古典画っぽいほうが好みであった様に思う。彼が僕に言った諸々の美術論の中でも、最高に高貴なる事の一つは、当たり前といえば当たり前なんだが、ドバタで男性器の絵描いてどっかに合格してた再現絵画集みたいなのをみて、「ぜってー無しだと思うぜ」っていった。正にその通り。S氏偉い。普通ね、親しくしたら誰でもボロでてくるでしょ。そうならざるをえまい。ひとたるもの。しかしSさんは僕がかなり親しくさせていただいていたのにもかかわらず、まじで何一つとして欠点というか、人格的落ち度の類がでてこないのである。タバコ吸っていただろうか? それすら吸ってなかった気もする。段々書いてて感動してきた。S氏偉大なり。あれはもうあれだわ。ダビデ像級の人物。それくらいTHE先輩中の先輩。それとしか形容できない事は間違いない。
 高校文化祭の時僕とTM君が同じインスタレーション作って結構ばちばち言い合うみたくなってたら、なんか呆れた様に「そういう事じゃないじゃん」とS部長は仰せられになりました。部長でしたから。もうね、なんというのか判断が確かすぎて全て従うレベル。それで僕とTM君は譲り合いしつつ、わけのわからない四角の、なんだあれは。キューブ状に組むでしょ、木を。その中にナムジュンパイクみたいに拾ってきたブラウン管を浮かせた。針金で。何あれ。しかもそれを地面に掘って半分うめて、中途半端な芸大生みたいな事してました。そういうアートごっこ。昔は現代アートもどきに手を染めていたんですね。どうでもいいですがね、とっくの昔ですし写真もないだろうし消えたでしょ。永久に。磐城高校の美術室の前の、庭の一角の、芝生の上に。量子記憶が。そこでである。
 Sさんが僕をいい所あるぜみたいに、練馬区役所のあの、裏手にある結構広いエレベーターに乗せ、最上階まで行くやよくみえる展望室がある。あれは僕が1年間いて、癒し空間は2箇所しかなかったがそのうちの1個なんだが、決して癒されないからね。ただ醜い都会みえるだけで上空から。只、地平線まで連なる灰色の住宅地をまじまじ見たのはそこでが初なので、本当にアリンコでもそこまで醜い巣は作らないなと思い、
僕「巣」
Sさん「?」
僕「巣っすね」とか僕はいっていたと思う。Sさんが何かを内心に嗅ぎ取り、皮肉な感じでにやりと笑う感じの非言語的返答だったと思う。人間の巣。Sさんは小説ファンであり、本当に色々読んでいる様であった。今にして思うと、僕があれだけ高校3年間、小説研究家みたいになったのは、Sさんの影響であったのかもしれぬ。あの僕がいた頃の磐高美術部では、常態的に全小説が読まれている様で、コア音楽もだが、文化的環境としかいい様がない。多分。
 これもモギケンが書いていたのだが、彼も学芸大付属校とかいうのの内部が高文化的で東大はそこから比べると軟派で失望したとか。僕もその意味では旧制中学の教養文化みたいのが残存どころかほぼ現役で生きていた頃の男子校に放り込まれたといえる。当然しってないといけないでしょみたいな雰囲気なのだ。
 僕はコア音楽の方は結構距離を置いてみていた。僕が1年のとき、3年の先輩はエイフェックスツインとか聴いていたし、1個上のN先輩とO先輩らは初期コーネリアスとか名もなきテクノとか聴いていた。なんと説明していいかわからないが、異化圧力で人と違うのでしかもマニアックなほうが偉いという文化。僕は「そういう事なのか?」と感じており、メジャーとマイナーを等価にみていた。多分上の世代の先輩らも、別にスノッブ効果でマイナーなのに走っていたわけでもないと思うが、単に純粋音楽の視聴で流れたのだろうが、これまた磯上氏(3章参照)も音楽マニアに近そうだった。磯上氏は、当時出たラブサイケデリコ1stアルバムをあの搬出用に使ってるステップワゴン内部でかけてた。あまりいいアルバムと思わないが、僕もソニーの録音MDプレイヤー(ドラゴンアッシュ『Deep Impact』のCMやってた銀色のやつ)で割と聴いてた。なんかこのラブサイケデリコのファーストアルバムの曲は、全般として変な世界観を現出させており、僕が磯上車に乗車したのは3年の最後の頃の1度か2度だった気がするが、夕陽だか緊張だかなんかと混じってあんまりいい感じの思い出となっていない。磯上氏はクラシックも演歌も聴くよとかいっていた。
 ではドバタに場面はもどるが(急に)、授業初日、地下1階のアトリエ入ってモチーフの向こうに卵みえたので、その場でイーゼル立ててそれを描いた。この時の絵は現存してるけど。どうでもいいのかもしれないけど。でもまぁこの時は普通に入ってきていきなりだぜどうだ(ドヤ)っぽくデッサンしており、どっちかというなら入ってすぐ受けた新鮮さの第一印象を描く為だったのですが、現ブログ作品集に載せてないですが、それを、高校の時から習っていた某現代美術家(芸大油画卒)にみせにいった。都内で絵画教室の様な事、というかそうなんだろうけどを、ある幼稚園の一室でやっていたのでO君に某私鉄の駅まで案内され、そこへ持って行った。
 彼の実作油絵みた事あったが一応デッサンできている。そこまで到達するには彼の指導に従えばいい。一応月謝とりますっていわれて幾らか払っていたと思う。ただ、デッサンってほんと暗箱になってて誰も教えてくれないのが実情なんだが、まるで師匠からコツを盗み取るみたいにやるしかないのだ。この現代美術家を仮にKさんとしよう。
 Kさんの場合、他の美術教師や講師と違って、いわゆるデッサンに関してある程度の理論を持っていた。彼は多浪していたらしく最終的にはモノクロで油彩画によりデッサンする独自方式をダメ元で二次でやったら合格したらしく、それが彼の中では秘法で蘊奥だった。しかし僕が注目したのはその事というより、無論そこからも学んだ事は多かったが(この後、1年のうち前半頃の1~2ヶ月を使って彼の方式をひとりドバタで検証し身につけ、速乾剤なしでも油彩を短時間で形にする技能を得た。いわゆるウェットオンウェット)、彼の持っているデッサン理論のほうだった。
 磯上氏もいづれの予備校講師も、基本的には実践派で、デッサン描けてようがそれを言語化できていない。だがKさんは、不完全で訥々とした語りではあるものの、そしてかなり実践色が入っているので体系的ではなく、「ここはこうしたらいい」などの具体例でしか説明しないものの、或るコツを解読していた。僕とO君はこの後、たびあるごとにというか、確か1~2か月に1回くらいのペースでKさんの所に通い、予備校などで描き溜まったデッサンをみせ、具体例でどうやればより巧くできるのかを教わった。それは総じていうと、いわゆるアカデミックなデッサン論で、ボザールから黒田清輝が持ってきたものだった。

 なぜKさんはこのボザール流デッサンを身につけていたか? 答えとしては彼はまだ石膏デッサンが生きていた時期の美術予備校・芸大生だったので、今では失われてしまった死文化、ロストテクノロジーであるそれを、彼の中ではコツの様な形で習得していたのだった。僕はこの意味では幸運だった。この後1年、予備校講師達や、芸大美大生らから色々と指導されたものの、どれもこれも印象論・感覚論の域を出ず(ここいいね! とか、頑張れよとか、素人批評と何も変わらない)、多少なりとも理論的な色彩を伴っていたのは、冗談抜きでこのKさん一人であった。この意味では磯上氏も理論家ではない。
 或る駅から降りて暫く歩いて行くとある、都会の雑多な環境という以外(決してなにひとつとして美しくはない!)、何の変哲もない住宅街の、結構狭い幼稚園の、そのまた一室にある、まあまあの広さの絵画教室に最初に行ってから、僕は1年間かけ、彼のボザール流デッサンのコツを更に洗練させ、ドバタで毎日の様に行われるデッサンの日々の中で、でたらめな印象論や感覚論しかいえない講師陣による講評を皆目無視しながら、たったひとり孤独に格闘し続け、遂に、20章で書いた或る理論体系を完全に習得する。この過程はドラクエのレベル上げを複雑化した苦労に似ている。1年間かけと書いたが、これは間違いだった。今にして思うとその理論を自力で考えだし(Kさんは剣術でいえば実演のコツをみせてくれるだけで、言語上の理論としてはそれを持っていないのである)、しかも実践できるまで習得したのは、夏になる前くらいで、大体、期間にして3ヶ月くらいだったと思う。
白球のある静物
2002年
紙に鉛筆
40 × 60 cm
作家蔵


男性の習作
2002年
紙に鉛筆
40 × 60 cm
作家蔵


女性の習作
2002年
紙に鉛筆
45 × 60 cm
作家蔵
僕がそのアカデミックなデッサン流儀を使って鉛筆でカルトンサイズの画用紙(40×56cmくらいか)に描いたのがこれらであり、静物は5月くらい、人物画は6月か7月くらいだった気がする。人物画デッサンで最初に描いたのは男性のほうで、そこで得た理論的理解を使って女性のは応用的に省略し描いてある。
 この間、僕は毎朝始発で行っていた。さもないとラッシュで死ぬ。つまり一番やる気があるほうの人間であった様に思う。ドバタの油画科で。大体始発で来てるやつらもいた感じだが、最初にアトリエ開く前ころに行き、掃除役の謎の坊主の人と謎でもない坊主の人(坊主ばかり)にあけてもらったら描いていた。それでこの後の、夜間コースなるものがあるのであるが、大体なんか夏頃から始まった気がするんだけど、これも僕は全部時間つかって絵画の実験していた。つまり朝一でいって夜最後までいた時期がかなりにわたる。かなりというか行けるだけそのペースでやっていた。寝坊しないかぎりだが殆ど全日だろう。
 しかし不思議な事にというべきか? ドバタでは私的な交流みたいな事が基本一切ない。なぜかというとほぼ全員が内向的な変人みたいな人らで、お昼と、夕方の夜間コースまでの間にちょこちょこ話すだけだったと思う。これ以外の全ての時間、アトリエで絵と格闘している。全員が。チャラ系先ずみあたらぬ。そんでだ。
 僕が覚えてる限り、この期間は精神と時の部屋状態であり、描いてる間は精神集中しまくってるので時間がないみたいなもんなんだが、次の章に色々とこの期間にみていた周辺状況なども書いていくが、修行過程そのものは、なんというのか全部異様な集中度の中で行われる精密で孤独な試行錯誤です。僕は、なんか簡単にできちゃってる様にここでは書いていますが、全くそんな事はない。夏前くらい3ヶ月ほどは、そもそもKさんの指摘もなんとなくしかわからないし、やってみても言葉尻しかわからない。それで朝一から夜まで紙と一人で格闘するのだから、もっと沢山当時のデッサンありますが、座禅状態。そして或る夏前くらいのアトリエで、僕はなぜかその時に漸く寝坊した。
 それまでは基本的にしておらず、自分はこの点ではマイペースで、というか独特の作法で、先ず十分に脳の疲れが取れるまで寝る傾向にある。いわゆる無理して眠いのに起きて何かやるというタイプではない。と思う。最低高校の時から。しかし学校のカリキュラムは硬直的なもので、時間が指定されているので、僕はそれにあわせていなかった。先ず頭が働かないのに絵なんて描けないのだ。やってみればわかる。普通に冴えた状態で集中しないと何事も進まないし、逆に時間がかかる。それで、疲れなのか5月病で同期が鬱ってた時期をクリアし、さっき出した男の人の絵の時に、はじめて意味がわかった。
 あれは海のモノクロ写真を渡され、これとアトリエの人物を併せて描けという課題だったのだが、調度奥行きを出すのに好都合だった為、遂に、Kさんのいうアカデミックなデッサンの基本原理を理解した。高校の時から描いてても理論的把握ではなかった。しかしこの時自分は「はぁ~なるほど。黒田とかこうやってたんだ」となった。黒田は学生時代のデッサンは余り表で知られてないけど、ドバタの画材屋にはその模造品などが売っていて、よく観察しながらコツの類を習得しようと粘れば、時間かければできる。
 しかしである。僕が悟りを開く一方で、同時期のO君とか、あるいははたまたT君とか、T君は途中で僕らに着いて来てKさんに習ってたんだが、まだコツの類を理解してない風であった。僕だけ先に悟りを開いた。そしてKさんにもある程度それが伝わっていたかで、「これでいいんだよ」とかいわれた。僕だけ。

 その男の人の絵を描いてる時だかに、大体5月か6月頭くらいだった気がするが、Gなるいわくつきの講師に或る事をいわれた。8章でほんの少し触れたが、「大阪弁をしゃべる奈良人」がこの人で、僕の初対面関西人観の基礎を形作り、この後も度々、僕らの人生に過大な影響を与える。彼については次章でより深く触れよう。本当に問題しかないキャラクターで、『予備校荒らしG』(というコロコロコミックスだかで連載の下手な絵のギャグ漫画。ただし実在せず)の類にみえなくもなかったが、それはこの章では触れてやるまい。
 僕が前日疲れまくったかで寝て、ラッシュ避けて昼頃いったら、「それはないやろ~すずき~」とかいわれた。軽いノリで。関西ノリで。多分アトリエ入って、自分の描きかけのその男の人の絵の前に座ったかなんかの時に。後ろだか横だかから。なんかイミフにそ知らぬふりで。なにいってんだろうと思ったが、僕は大人しいのでそのまま座って彼と距離を置いていたのだが、ちなみに彼は芸大院生で、写実画の人であった。その作品もなんかこの時点では写真かなんかでみた事もあったんだが、ま~細密画の類ですね。人物が多いんだけど。女性の。森の中とかに配置。のち奥さんになった人、タマビだかどっかの人をやたら細密に描いてんです。僕は正直いい絵とは思わなかった。
 そんでこの人は根性論の人なんですね。理論派の正反対。この意味で、僕とはまるでタイプが違う。僕はあの時ドバタで一番理論派でしょう。でも引っ込み思案な上に人見知りなので、親しい友人の間でしかそれは知られていない。基本誰とも話さないので。ま、僕がレオナルドなら彼はミケランジェロって所か。
 そしてあの男の人の絵を描き終わってというか大体、1週間くらいだった気がするが時間切れがきて、講評といってみなの絵を並べる。そこでなんか別の人の絵を先に批評というでもなく、ま、雑談するんだけども、だって理論派の先生じゃなかったら言ってる事は滅茶苦茶でなんの参考にもならんのですよ。Gはこの時、「(俺には)ライバルおらんねん」とか自分の話をはじめ、いやいや、批評になってないからと思っていたが、僕は生徒のうちに、これまたそ知らぬ顔でまじり、クロッキー帖を手にそこにメモ書く風情で、黙っていた。当然。関わられたくないのだ。あの関西ノリは当時も気づいてたが苦手の極み。そんでGが遂に僕の絵の講評の段になった。
 そしたらですね、途端におしだまりだした。あのGが。なんもいわんのである。普通、チャラチャラでもねーが。適当なざれごといって、笑いにしようとする奈良人が。大阪弁なんだろうけど、あれは。他の講師陣がこれまた役立たずの雑談をした。そんで最後の頃に、
「すずきーがんばれよ。俺、応援してるからな」
と言った。これは珍しい。少なくとも僕がみていた1年あまり、Gが他人にこういう事は余り言わない傾向にあり、なんというのか人をなめ腐ってんである。あの人は。次章でもう少し詳しく掘るが、謎に熱血教師? ぶって色々な人間をダメにした形跡もあった。そのとき自分は、講師陣が余りに内容のない事しかいわないのでその講評時間は無駄だと考えており、脳のリソースが浪費されているので講師らがいう事を全て筆記していた。筆記記者みたいに一言一句。クロッキー帖に。それで僕の画になに言われても基本全部無視すると共に、適当によい子にみせ頷いていた。


 そのクロッキー帖を、偶然あとでT君がみたんだが、その記述を読むや、(というか僕がそんな筆記記者じみた記述をしてること自体もだが)Gの言動をT君も珍しがっていた。
「へ~Gがこんなこというんだ」
とT君は僕の前で、クロッキー帖を手に言った。まことに意外って顔つきで。そのクロッキー帖を、偶然あとでT君がみたんだが、その記述を読むや、(というか僕がそんな筆記記者じみた記述をしてること自体もだが)Gの言動をT君も珍しがっていた。
「へ~Gがこんなこというんだ」
とT君は僕の前で、クロッキー帖を手に言った。ドバタ1号館の廊下でな筈。まことに意外って顔つきで。どの位置の廊下かというと、入ってすぐの通路みたいな場所。床が黒くてヒンヤリ感のあるところの壁にもたれかかるみたいな感じで。だった筈。


 これについて僕は随分あとになって(15年以上経ってから)その時のクロッキー帖を取り出して眺めてて、あれってGは勝手に僕を写実好敵手扱いしてたのか? と考えるともなく考えた。確かに当時の僕は、デッサンと写実主義という、古典絵画の基礎をなんとか身に着けようと尽力していた。次章以後に書くが、ある百貨店での展覧会に行き実物をみたりした(実物に驚きはない)小磯良平や、そこでなぜか売っていた中古の画集を手に入れたサージェントが模範だった。だが、自分はそんな場所で足踏みし続ける人間では、全然なかった。将来の最たる前衛画家であり、当時も既にそうだったのだ。
 Gはこの後も今も変わらず写実画を描き続けており、ある九州地方の大学教員の働き口が見つかったとかで、そこで好きなだけあの強烈な口上で、学生を汚辱できているのだろう。

(続き『18才の自伝 第二十六章 人体美術論』