2020年8月26日

18才の自伝 第二十七章 四者四様

『18才の自伝 第二十六章 人体美術論』の続き)

 僕はこの頃(18才になってドバタで梅雨になる頃)ある事に気づいた。
 先ず東京の下宿で夜かなんかに座って音楽聴いてたら、座ってるラグ上に何かがいる。アリかなと思って倒したが、とても小さな虫の様なものだった。

 このとき自分はまだそのアリの様な生き物の正体を知らなかった。夏になる前頃、遂にそれを知り、自分にとって東京という場所が完全地獄なのだと悟る羽目になるのだが。

 またこの章ではこの頃、高校からの親友O君がどうなっていったかに焦点を絞って書こう。これは彼の存在が自分の人生にとって当時の魂の相棒だったからだ。親友といえるだけ真剣な友情を育んでいたのは間違いないだろう。だが池袋なるろくでもない都会の一角で、自分とO氏はおのおの生まれもった特性により、或いは互いが置かれた環境によって、異なった適応をしていく事になる。
 O君はドバタ修行初期、M君(20章等で軽く触れた)と親しくなっていった。多分彼らは同じクラス、同じ担当講師だったのだろう(担当講師G)。僕は彼らと違うクラスで担当だった(担当講師I)。
 しかしO君経由で僕もM君と徐々に仲良くなった。
 Mは次の様な事情を抱えていた。

 Mは京都出身なのだが、父親に絵画の道を辿りたいと告げると、東京芸大に入れれば許可すると言われたらしい。要は肩書きが決定的に作用する日本の業界事情をある程度知っていたのだろう。僕は当時から今までその種の肩書きゲームに一切興味がないので、彼や彼の親のその種の狡猾さには余り共感できなかったが、同様の事を祖父経由で知っていたT君(福井出身)もほぼ目的意識は一緒らしかった。つまり、MとTの目的は、東京芸大入学・卒業で得られる肩書きとその世間に与える箔だったのだ。そこには世俗的目的がある。
 だが自分はその種の世俗的目的が、全くといってなく、完全に絵を自由に描きたいので、その為の環境を欲しているだけだった。これでMやTとは全く違うルートを辿って今に至る。当時は同じ場にいて、近くで絵を描いていても、生徒間で目的意識がかなり異なっていた。

 OとMはやがて池袋のラーメン屋めぐりというのを始めた。特にOもMも夜間コースを取っておらず、放課後時間が空くので、その時間帯に2人で連れ立って、激戦区と呼ばれる池袋のラーメン屋を雑誌を頼りに色々と回っているらしい。
 僕は当時、食に特に興味がなかったので、最初それに参加してなかった。が、興味本位で多分1度だったと思うが、OとMに着いて行った事がある。その時はジュンク堂の前にある或る有名店に、放課後、大体宵から夜になる間頃、行列に並んで、店に入った。しかし実際に食べてみると大仰な割に全然美味しくなく、しかも値段が高い。店内も別に優れた装飾とかではなく混んでいて狭い。それなのに雑誌では最高点みたいなのを得ている有名店だと紹介されていて、大勢が並んで入りまくってくる。
 それで僕は東京は詐欺都市だという風に感じた。その後10年程度都内で暮らしたが、この時からその印象は何も変わっていない。都内媒体は利権で繋がっている共犯で原則インチキしか言わない。
 多分5月ころから彼らはラーメン屋めぐりを始め、最低でも夏くらいまでやっていたのではないだろうか。Oは親戚の家に居候しているだけでなく、後には弟2人がいるので家計の為にバイトしていた筈だが、この時はまだやっていなかったのかもしれない。結構軽佻な態度で絵は適当に手をぬいていた様だった。
 Oと僕はこの点で、高校の時から既に違っていた。Oは絵を余り真剣にやっていない風で、当人なりには頑張っているのかもしれないにしても、僕やTM君と違って県展に出す為の卒制みたいなのも100号ではなかった(より小さくて、描くのが体力的気力的に大変ではない50号だった筈。自分で選んでいた風だった)。ドバタ初期もデッサンにも総じて、真剣に取り組んでいるとは感じられない態度でいた風だった。そしてOは僕が25章で書いた基本理論を(別クラスで)1人習得していく間も、なんとなくデッサンをやっている風で、いわばいつものよう適当だったのだけれども、初めは誰でも同じ様なものなので、そこまで僕と彼のアカデミックな素描論の理解度に差があるとは、当時指導をしてくれていたKさん(25章参照)にも、ましてや僕ら同士にも思われていなかった。それが分かる逸話として、Kさんは当時、あの幼稚園にあった絵画教室で、彼が講評っぽい説明を終えて、僕らが持ってきたデッサンを片付けだしている帰りがけの或る時、「鈴木君とO君は、似てるし。互いに競い合って切磋琢磨していけばいいね。ダビンチとミケランジェロみたいにさ」と言った。Kさんもこの時点では本当にO君が、やがて彫刻に不可抗力で転向するとは思っていなかったろう。あとから振り返れば、運命は不思議なものだ。

 Mとは十分に友達といえるだけかなり親しくなった。既に彼が誰かから紹介され知っていた秘密の画集屋に行き、僕がそこでアントニオ・ロペス・ガルシアのレゾネを買ったなど書いたが、彼は絵に対する探求心としてはOより深いものがあって、連れ立っていった池袋のリブロでジグマール・ポルケの画集をみて互いに話したりした。Mは特にディーベンコーンが気に入っていて、実際彼の絵はその模倣に近かった。彼のファイル資料集にもディーベンコーンが入れられていた。その作品が完全に抽象化する前の段階で、直線などで省略された風景画と同様、Mもモチーフを色面(シキメン、或る単色でベタ塗りした平面)に分解し、再構成する傾向があった。
 彼のポルケ評は「これ凄いで」とのもので、「将来わかるかもな」といっていた。
 実は、僕は彼らがラーメン屋めぐりしている間なにをしていたかというと、上述のよう最初彼らに着いていった時に池袋ジュンク堂最上階に画集コーナーがあるのを、確かはじめ彼らに紹介され知ったので、以後彼らの誘いに乗らず、放課後ひとりで画集コーナーへ直行、そこにある全画集を網羅的に猛烈な勢いでみていたのだった。それで僕はポルケも事前に知っていたと思われ、のち一緒にいった池袋リブロでのMによるポルケ評には余り共感していなかった。僕の感想は(写真や古典絵画などの素材を描写と混ぜて再構成する意図はわかるものの、作品自体の品位が微妙かな)というもので、ポルケは結構下品な、ポルノグラフィに近い写真も唐突に使ったりするのだ。その上、最終的な出来上がりがかなりランダム性のあるもので、いわば乱雑だった。
 僕がその頃、最も気に入って画集を何度も何度も見返して(やっぱりこれだよな)とか(最高! 最高!)と感じ、しばしば思わず口にしつつ笑顔になって毎度めくる度にわくわくしていたのは、ウォーホルのレゾネだった。ウォーホルは写真流用の元祖ともいえ、手法としては後続の(より手の込んだ技法を複雑に重ねて使う)ポルケと幾らか似ているが、より単純でありながら最終的できあがりが大変優れていて、大体の作品が典雅な規範を達している、素晴らしいできと直感され、自分の目には現代美術の古典といっていいだろうと感じられた。脳裏にウォーホルがあるので、ポルケを大変優れた前衛性をもっていて今の自分には理解し難い程度のしろものと語るMに、僕はこの人は僕より絵がわかってないのだろうか、と暗に感じていたが、自分は心を開いていない人には特に深い議論をしようと思わない性質らしく、その時点では深入りしなかった。
 こうして、MとOはラーメン屋めぐりをしていたのだが、このころ、Tはまた別の事をしていた風であった。
 僕の記憶が確かなら、初期のTは、或るあばずれ系の女にかなり入れ込み始めていた。その女はT以外にも別の男を誘惑している風で、Tは僕が遠巻きにみてた感じ、その女から家に誘われている風だった。

 初期ドバタではその様な人間模様が同時展開していったのだが、とかく自分はマイペースで、明らかに他の生徒と違う行動をとっている様にみえたらしい。Tは後で自分に「(鈴木君には)勇気づけられていた」と言った事がある。
 どういう事かといえば、初期ドバタでは誰一人として方針を与えてくれない。

 講師は全員へデッサンをさせる割に、何も指導しない。講評時にも適当な印象論、これはいいねとか語るだけで、ここでも何の指導もしない。逆に彼らが気を使っているのは、ちゃんと学校にきてね、とか精神的ケアの方みたいだった。恐らく経験則として新学期の不安な時期なので生徒が脱落し易いのだろう。だが自分は、その中で恐らく1人だけ全く違う目的意識を持っていた。より正確に言うと、序盤で自力でそれを作り上げた。この部分についてもより詳しく語ろう。
 先ず講師らは「全く指導しない」事をかなり意図的にやっているのである。全く周りから力を加えず、水に放り込み生徒を溺れさせているのだ。生徒らは全くなんの指導も受けない中で、もがき、やがてそれぞれの個人的特性が見えてくる。ある子は岸辺にあがろうとするし、別の子は自力で水底にたちあがろうとし、別の子は逆さ泳ぎをはじめ、別の子は諦めてなにもしない。別の子は沈んでしまう(学校来なくなる)ので、この場合だけ講師は精神的ケアをする。単なる泳ぎ方(ここではデッサンの仕方)は、ドバタでは全く教えない。通常の高校美術教師などならこうやって描けと手を出すのだが。したがって各生徒は大変不安な状況に置かれる。どうしていいか分からないわけである。
 そしてこの不安な生徒が放置ゲームされる時期に各自どの様な態度をとったかで、講師は生徒一人ひとりの個性を見分けていく。この後、夏前頃から油彩の授業、というか相変わらず放置され、モチーフの前に放り出されて好きに描け、という課題もはじまってくるのだが、このときはじめて講師から独特のアドバイスがはじまる。ここで書くのはこの油彩の課題がはじまる前の約2ヶ月ほどの期間の話だが、多分、腕ならしみたいに感じて大概の生徒はなにも考えず適当にデッサンして終わっている。それは各自の作品の力の入れ方が適当なのでも、みな分かっていたと思う。正確に言うと、自信喪失中で途方に暮れているに近い状態である。

 しかしこの期間、僕は椎名町ウィークリーでひとり涙してから、心に決めた課題があった。それは1から絵というものをやり直すという事だ。今まで自分がやってきた絵画っぽいものは全て間違っていたのだから、再びレベル1の段階にもどって、全くの基礎作りをしようとしていた。完全な初心に帰っていた。Kさんから習おうとしたのも、自分が高3までにつみあげてきた曖昧な絵画技法を何もかも丸ごと捨て、全くの初心者に帰り、いかにしてデッサン(下書き)をしなければならないか、との基本中の基本をなんとか覚えようとしたのだ。これゆえOやTと根で違う態度になっていた。
 僕がみていた感じ、Oはラーメン屋めぐりをしていた時期も、まだ彼が天才をもっている特別な人間だ、位の意識があった。現役で1次試験が通ったので、幾らか浮かれていたのではないだろうか。その後もたまに彼の絵を彼のクラスのアトリエに見に行ったが、殆ど描いている形跡はないか、変な模様を左手で描いていた。変な模様って何かっていうと、ウニョウニョとした小学生が描く迷路みたいなのを、なぜか左手で画面中に描き、いわばデッサンを拒絶しデュシャン的外し技みたいなのをしている。「これ?」と僕が問うと、Oは「これを(講評に)出すのがどんなに勇気が必要な事か」といった。Oのこのデュシャン的態度は、講師陣の中にいた紅の豚みたいなおやじさん(以下ポルコ)にはなぜか大層うけており、実際に天才扱いされていたと思う。僕が先にクラス講評終わったかで、彼のクラスの後ろへそっと忍び込んでみていた感じ、ポルコは「Oがいいんだよ~」みたいな講評であったと記憶している。要するに芸大には先端芸術表現科というのがあるが、そっち系の現代アート風の解釈をされていたわけだ、彼のそのデュシャン系仕草は。コンセプトは何も語らず、黙っているんだけど。この辺も彼元来の天然性を半ば意図して演技的に発揮しだしており、何言っても少し的外れな感じを意識高い系に見せていた。これは単なる観察だけれども、彼は授業とかに結構遅れてきて(唯の遅刻ですね)、俺天才っすから、いや天然すから、周りと違うっすから、って感じの演技を暗にしながら、デッサンする時間が足りないのでウネウネと落書きをし、それを提出してポルコウケして、結構気分よくMとラーメン屋に出かけていた。しかしOの担当は、多分あの『予備校荒らしのG』講師(25章)だった筈なのだ。要するにGは写実系なのでOのデッサンをこんなのさぼってるだけやで、とか冷評するんだが、Oはそれに反抗する形で、遅刻カバーの現代アート要領をちゃっちゃと済ませていたわけ。そういう事だろう。
 一方Tはどうだったか。Tは凄く地味なデッサンをする。というか彼は作品全体が地味で、いってみれば爺臭い趣味ともいえるんだが、当人が「呪いだ」と後からいってたがいわば祖父の桎梏があったのである。彼の画家の祖父が常に背後から批評している気持ちがするので、その渋好みにあわせる絵になりがち。同趣旨で、やはりその頃のTのデッサンも、他の人達は色々派手な事したり、(Oはじめ)わけのわからない事を始めたりする中、傍目からはおよそ進歩しているとは認められないくらいの、同じ諧調だった。全体として余白を大目に取り、モチーフを小さめに配置し、いわばモランディの静物画みたいに淡く描く。
 Mの場合は、デッサンに関しては彼特有の癖で色面に還元しがちなのだが、それを除けば至極平凡なものといって差し支えなかったと思う。正直にいうと余り印象にも残っていないけど、ドヘタではないものの特別巧いという次元にもない。
 そういう中で僕だけ、全く違う課題意識で全く違う探求をしていたと。

 僕のその時の探求は25章に概略を書いたし、別の書でもなければ余りに某大になるので詳述はしないが、要は、全く0からひとつひとつ、理論的に確実といえる要素を積み上げ、アカデミックなデッサンの本質を築き上げていた。それなので、写実系画家のGが僕にだけ「期待してるからな」と声をかけたのだ。

 こうして我々は4者4様の初期ドバタ生活をする。
 そしてTとあばずれ系女(背は小さく少し太め)はどうなったかだが、僕にある時Tが「食われる」といい、それ以後、彼は女人禁制みたいな修行僧生活に入ったみたいだった。
 また次の章あたりで出てくるかもしれないからディテール書き加えるが、語尾伸ばすZがある時、その時期、放課後のいづれかの日にMIさんらと飲み会だかをまたやったらしく、そこでMIさんが先輩のなんちゃら(後で出てくる)とカップルになったかで、途中で暗闇に消えていった、くそー、と悔しげに語った。

(続き『18才の自伝 第二十八章 最初の保谷の早朝』