2020年9月12日

18才の自伝 第二十八章 最初の保谷の早朝

『18才の自伝 第二十七章 四者四様』の続き)

 BTS軍に難癖つけられて対応してからMP減って暫く間が空いたので一体、どこまで行ったか? 余りに僕はディテールを憶えすぎているから色々書き逃す事しかできないため、この手記全体でできるのは、その本の一部になんらかの体系的まとまりを作り上げる事だけだろう。そしてそれは完璧とは程遠いもののままだろう。だが自分がこれを書く事で、永遠に闇に消えてしまうはず自分が見ていた18才の時の宇宙の一部を、唯でさえまばゆく輝いていた世界を――それにも関わらず自分には酷い結果に終わった世界を――感覚値のかけらにしても残せたなら、人類学の枢要な一象限に或る未開の地平を拓き、後世に画学生の或る典型像たる物の見方やその青春像を、しかと刻めると確信している。

 全くどうでもいい様な描写から入ろう。
 詳細から見ていく事が、却って或る時代、ある地域にいた人をとりまく状況を浮かび上がらせる。あの年の保谷で生きていた僕の目に浮かぶ出来事は無数にあるが、ある時、ドバタから下宿に帰る時だったか、体より大きな画布らしきものを運び出している、今の自分くらいの年齢の男をみた。恐らく公募展か何かに作品を搬出していたのだろう。僕のくらしていた水色下宿のすぐ近く、青いネットのかかっている畑から少し出た所だった。

自分の選び出した場所だけに、偶然にしても芸術家村とまではいかないにしても、最低でも近所に別の絵描きが3人は住んでいた事になる。僕と、その男と、T。でも僕がそこにいたのはたった一年だけど。

 総じて僕の保谷での思い出はとるにたりない様にみえるだろう。だがそれらは全て絵画で、僕は常に絵描きだったから当然といえばそうだが、感覚値あるいは質感の淡いに無限の深みしかない。それらは想像画で再現した方が簡単に伝えられるのかもしれないが、ここでは文章という形で再生を試みる。

 以前、ブログのどこかに残ってるだろうけど簡単に当時の事を概述したとき――なんか妊婦さんにツイッターで詳しく自伝書いたらといわれたきっかけになった時――軽く触れた事があるが、春樹でいえば短編でも長編でもくり返し書いた蛍の逸話みたいなもんだろうが――いちいちそんなの言わなくともいいし、あとで出てくるが当時は別として春樹をどちらかなら今ではその作品内容の下品さを軽蔑してんだが、水色下宿の前にはまずお寺があった。通りに出て正面に。Googleストリートビューでみた限り今もある。そのお寺の本堂の方まで一度も入った事なかった。が、ここで書きたいのは、当時の自分は春樹に影響うけてかジョギングみたいな事を趣味みたいにしており、というかジョギングなんだけれども、このジョグという表現がおじさんぽいのでなんか避けてきたわけだがランニングでも似た様なもんだろう。モギケンもよく走っているが、春樹からどれ程影響受けてんのか、それとも小学校の校庭で走ってたとか書いてたから元々やってたのかしらんが、僕はのち2chで春樹に失望したりして大いに卒業し、更に28歳頃できた今もの恋人が自閉症で(かつ後からわかったが自殺未遂系自傷系のメンヘラ構ってちゃんなるもので、別の自閉症の人のアドバイスによると「一緒にいてあげてください」だったのでその忠告を素直に聴いて、絶えず)付き添っていないといけなかった状況に陥るまでは、かなり走る事をほぼ毎日くらい日常的にやっていた。つまりは10代後半から20代後半くらい迄。今もたまにするけど。それはいいでしょう。
 で、このお寺の隣あたりになんか林みたいな空間があり、そこを自分は抜けて行った。

 初めてこの街にきた時、自分はどこにジョギングコースがあるか知らなかった。それで最初にコース探してこの林のところを抜けたのだ。あれはおそらく庭かなんかなんでしょうか? お寺さんの。公園なのかもしれない。まぁとかくそこはそれなりの庭みたいな感じで、自分はそこをほうほう風流どすなぁみたいな。詩人ぶって。詩人だけどね。歩いて抜けた。しかもその時は最初だけど、江森徹のまねするヒカキンが登場する遥か前の時代にである。ほうほう、風流ですねぇ、っていいながらではないにしても数限りなくそんな俳句的情感でである。ちなみに雨降ったあとなのか知らんが朝露の湿る感じもあるのだ。いいねぇ。風流だねぇっつって。でもなく、まじで竹だか笹だかの生えた露地みたいなのをその早朝僕は歩いていた。そう、これが僕の最初の保谷の早朝であったと言ってもいい。

(続き『18才の自伝 第二十九章 夕暮れの屋上へ』