久しぶりに18歳自伝のつづき書き綴るのでもう登場人物の頭文字とかどういう略称を使っていたか曖昧になっており、面倒臭いので一般の実名で表記しだすと思うが、余程やばい他人の私事とか僕は知らんので、多分問題ないであろう。
大体、夏前まで書いたと思う。
もしかすると時系列が微妙に前後する描写になるかもしれないが、前衛映画みたいなものと捉えて貰おう。
僕はこの頃なにをしていたかというと、市橋氏――彼は一応先生というか講師だが、周りとか「さん」づけで呼んでいた。周りの学生が、美術系ってのは基本女だらけだからかもしれないがそう呼んでいた。僕は「市橋先生」と呼んでいた――が、或るとき、どういうわけか自分へモンドリアンの画集を勧めてきた。これは今おもいだしても市橋氏の慧眼畏るべきである。的確な批評眼で自分の絵の傾向、好み、将来性をみぬいていた可能性がある。可能性があるというかそういう作業を1年かそこらで促成栽培完了する専門家みたいな立場だから、すでに春から2、3か月とかの時点で、ある生徒の個性にかなう前提を、前例として古典というか現代美術までの全公文書からひっぱってきて、君はこれを参考にしたら? と言ってくる。
ある時、あのドバタの絵画棟の入って1階上のすぐ奥のところの狭いアトリエの一角とかで、自分の絵を後ろからみてた市橋氏が、ちょんちょん、と肩を指先でつつき、「モンドリアンって知ってる?」みたいなことを言ってきて手に持つ画集をみせてきたと思う。
前述したようこの頃われわれ生徒は資料集をつくらされていた。いまだに僕はその時の習慣がついているのか、今もスクラップブックをつくっていることがある。ゆえ当時の資料集中に、自分は市橋氏の紹介してきたそのモンドリアンなる画家の作品からもピックアップしたいくつかの絵らを入れることになった。だがこれは、自分には実は決定的事件でもあった、のだろう。
僕はその頃、普通に写実絵画をやっていた、と言った。やっていたというより真剣に追求し、いわば土台、絵の基礎としてのデッサンなるものを完璧な次元へ極めようとしていた。
実際かなり描けている実感もあり、手応えもあったので、僕があまり創造知能が高くなければそのまま、当時、絵の技法の手本にしていた小磯良平ルートへ進んでいた。同世代でいう中島健太氏のルートへ。彼の存在を当然その頃僕は全く知らなかったし結構最近、数年くらい前にツイッターだったかどっかのネットで知ったが、彼は一浪だった様な気もするし調べないで書いてるがどっか新美(新宿美術学院)あたりにいたのかもしれない。同じ時期、現役だったらもうムサビ(武蔵野美術大学)で先生無視して写実描いてたんであろう。
現代の美大・芸大・美術予備校的空間いった事ない人はわからないかもしれないが、写実絵画というのはもうそこでは全く相手にされていない。
「いまさらそんな事やってんの? 馬鹿かこいつ」
とまで直接いわれることこそあまりないが、実感として限りなくそれに近い大層見下される様な半軽蔑的扱いで、教授・講師・ほぼ全生徒から完全無視され日陰者扱いになる、といってもいい。近現代美術を経由した我々の時代の専門的価値観からみたら、写実主義・リアリズムとは唯の古臭い様式で、無個性だからだ。
この文脈で、写実画に対し「へーうまいねー」と言うのが(殆どそれすら言わないが)、画学生社会だと実際、かなりお世辞じみて貶してるニュアンスになる、こともある。「(で? それだけかよ)」って意味になりもする。これは嘘ではない。一般社会とまるで逆の価値観も有る社会、ともなっている。なおそのなかだけにいて、外の価値観をなんら理解できなくなるのが、僕以外の美術関係者のほぼ全員である。あとででてくるというかこれまでも頭文字ででてきまくっていた僕の高校からの親友・小野君とか、当時の親しい友達・田中君とかもまずそんなであったろう。
実際、食う為に写実画を描いてたと中島氏のブログなどで断片的に読んだが、かれは父を亡くし、ただでさえ馬鹿高い私立美大の授業料おぎなう切羽詰った家計やりくりにやむをえない選択として、師事した学外の写実画家個人からコツを見よう見真似で習って、美大(ムサビ油絵学科)では教授に反抗児同然の扱いでシカトされ、多分ほぼ独学していただろう、と想像される。
僕はまだ父を亡くしていないし、親からみても僕が末子兼長男で姉は既に独り立ちしていたゆえか、どうもいまだにだけど自分の場合、寛大かつ大事に扱われていたからバイトすらする必要もなく、家計的に切羽詰ってはいなかったが――写実趣味への周りからの冷酷な扱いという意味では、類似で、はっきりいって自分以外だれも写実を今更やってやろうなんてしてる一見古い考えの人は、実際、多浪生ふくむ全生徒中にただの1人もいなかった。前の方の章に書いた、僕へ「がんばれよー鈴木、おれ応援してるからな」だったと思うが、そういってきた小木曾誠という某講師だけが――やたら大人しく穏やかでシモネタ嫌いな点で上品なほうとしかいいようがないだろう、とある東北系北関東人の僕は、かなりお下劣なお笑いぶった言動が多い奈良系関西弁で不躾な上におしつけがましい彼が、どうも性格的に苦手であるし、かれの絵自体も努力論・根性論で描きこみすぎてるし主題も見た目からして珍しくもない私的関係の女とかを特に物語とかなく描いておりなんか微妙だなと感じており――あんまりありがたくない精神的支持者である。要は、みてた感じ僕以外の全員なにかしら、いわばピカソ・ダリ・岡本太郎チックに、いや別にかれらっぽい絵という意味ではなく奇人変人化しないと褒められないというか、おおかれすくなかれまわりと差異化し、奇抜な個性的絵を描こうとしていた、というか講師にさせられつつあったのだ。素でその技法でその画風で以外描き様がない個性的なやつも多分いたのだろうけれども。
通常、写実画はほどあれ収束的結果になる。微差は出てくるしそれを大きな違いとして見分けられるのが、具体的技巧まで知っているプロの目なんだけれども。ハイパーリアリズムの前歴を踏まえれば、写真をさらに超えた、ある迫真性を伝統的遠近法を応用した構図で、現実感伴って描き得ていればよい。そしてその為にははっきりいって、余り頭は使わない。既に開発されている技術の枠内で、自分の持ち時間に対する手順を最適化し、現実に見えている客観性と絵を一見して限りなく漸近させるという、作業上の気遣いと職人的手間、すなわちある種の根気がいるだけだ。
しかしまだ夏前の自分は油絵の具をなまのまま操る技術(いわゆるウェットオンウェット)を完成させたとはいえない状態であり、徐々にレベル上げしている感じであった、と思う。即興速描でもほぼ、実際に油絵やったことある人ならわかるあの複雑怪奇に実に色んな材料があって、かつ、人の意志に逆らうことこの上ない、厄介な油彩という素材を思うがままに使える状態になったのはこの年の後半、時期的に秋になる折だった気がする。違うかもしれないけど。
当時の絵を記憶検索して考えると夏まではまだ、高校時代の技能から完全に出てはいなかった様に思う。小野君ちにいってそういう渓流の絵を描いた、この夏。それとか。後で詳しくそのときのことも書くが。
夜間コースというのがあり、僕はここであることをやる。これは書き残すべき価値がきっとあるだろう。
われわれ本気の画学生は、ドバタ(すいどーばた美術学院)では昼間も全集中で描き夜も全集中だが、毎日平気で下手すると6時から21時までとか集中以外してない神々だが、うそぬきで。この間に1時間だか30分だか間がある。昼間コースと夜間コースのあいだに。
そんで僕はここでとても良い場所を見つけた。
本館みたいなところの屋上がのぼれて、そこが憩いスペースになっていることを発見し、多分、最初坂本さん(高校からの先輩)に案内されて行ったことがあったのかもしれないが、自分は毎回ここに行っていた。その昼間と夜間のあいだの時間にひとりで。以下の写真がそこでのち撮ったものである。尤も僕が行っていたのは夕暮れだから空がもっと色づいていてこういう感じではないけど。これは昼頃の写真だろう。
ドバタの前にはパンとか売っているデイリーヤマザキみたいな系統の個人商店じみたのがあり、僕はそこで筆洗うピンク色のケース入りの、ピンク色のなんかベビー系匂いがするベビー石鹸とか買って使っていた。ベビー石鹸だからベビー系のかおりであろうけども。お昼にもそこで焼きそばとか、スーパーカップとかいうあのカップラーメンとかをみんなと買い食べる事がよくあったが、自分はこの夕方のまに、毎回、そこの前の自販機でなぜかBOSSとかFIREとかの缶コーヒーを買い、しかも確実にブラックを選んで! 買い、この屋上のぼって焼きそばパンとか、カロリーメイト・チョコとか食べたりしつつ、ひとりで飲んでいた。
そしてである。
ここが最重要な点というかこの18歳自伝全体でも一番いい場面なのだろうけど多分。僕はこのあんまり人がいない場合が多い、多くても上の写真くらいの人感でなぞのごろつきが1人とか2人とかで。ごろつきじゃないか。可愛い生徒たちが。同輩たちが。しらんやつらが。日本画科とか彫刻科とかの。夕暮れの屋上から池袋の都市というのか街というのか雑多で、後ろにお情け的なサンシャインシティの超高層ビルはあるが、池袋という街は総じて雑然としたところで決して都市計画が整然と行われていないから駅のほう眺めてもまあよくある都会。いかにも悪い意味で東京のごみごみした上ににょきにょき夕陽に照らされた灰白色っぽい巨大マッスが生えてるくだらない光景なのだが(写真どおり)、これじゃなく、西武池袋線で椎名町から練馬、僕の青色下宿のあるはず裏側をみると……! これまたごみごみしている、実に。こっち側は住宅街で背が低いので、本当に気持ち悪いくらい汚いとまではいかないが、ジオラマのたちの悪いやつみたいにしかみえない。
表も裏もきたねーのかよ。ダメじゃんと。
そうなのだ。毎度書いていますが、東京都という大都市は、本気で汚い街。これが真実で、僕は痛いほどそれを思い知っている。痛いほどどころか、死ぬほど。今後少しはその一部を書くけどさ。死にかけたほど。普通に死にかけすぎている。絶望的に感性を殺しまくってくる街。僕をしぬほどがっかりさせまくった街。リヒター風にいうと、パレルモをなんとか。パレルモだけをころしたわけじゃない、町ニューヨーク。それはそれは僕はとっても繊細な人で、感受性が異様に発達している特殊人間だったからみたいなんだけどこの頃、ハイリー・センシティブ・パーソンとか感覚性過度激動とかそんな概念知らんので思わず、自分には世界一合わない地獄めぐりをしてしまっていた。東京がー東京がーとかいってるまわりのやつらが全然違う鈍感人間どもだとはまったくしらんかったのだ。今でも後悔しかない。もし僕が秋田とか山形とか北海道とか岩手とか。普通より清浄な光景が広がった世界へ進学していれば、確実に自分は今より幸福になれていた。だって自分を一番不幸にしたのはこの東京というスラムだった。
東京は真面でスラムなのである。だれもそうはっきり言ってさしあげてないが。僕しか。これはむしろ、僕が親切で、冷静で客観的にみれて、別にそこをすきでもないからいう。素で正直な評価で。しらふで。
アマザラシはこの頃まだ出現していないというか有名じゃなかったろうし僕もしらなかったけど、彼がユーチューブやスポティファイで僕の耳に歌うはるか前のできごと。僕以外で彼しか東京嫌いを歌ってるやつみたことがない。
この年、僕はVAIOのノートPC手に入れたばかりでそれで借りたCDを、保谷の図書館で借りたコルトレーンの『マイフェイバリットシングス』とか、椎名町ツタヤで借りたベックの『シー・チェンジ』とかを、なぜかCD-Rに焼いていたのだ。だってCDウォークマンで聴いてましたから当時。あのころのほうがストリーミング時代の今より明らかに音質よかった。音源のビットレート原理的に。としとかでなく。アマザラシと同じ青森人らのバンド・スーパーカーの現役時代
の、多分当時『ハイビジョン』とかを、よい音質で聴いていたのだ、まえもだしたけども。
けれども。なんと、その東京と呼ばれたスラムでの生活がこの後、僕は途中で地元に2年だかくらい帰るものの、それ以後も10年とか続く。再起で。これもまじで最悪の選択肢であった。後悔以外ない。ひとってやつは、ときには悪環境につっこんでいって進んで戦うんじゃなくて、合わないものは合わないと認めた方がいいだろう。
眞子内親王が生きるために必要な選択です、と書いていた。しかしながらそんなものない。完全になにかを勘違いしてる筈。小室氏のこととは限らない。人はときに、死にかけるだけの道を、生きるための選択肢だとか言って分岐で最初からまちがえる。ドラクエの洞窟のかなり奥でMP10しかないからホイミ1回か2回しか余裕がなくとも、えらんで奥まで行ってみてもなにもなく帰り道で敵がでまくる迷路みたいにね。僕には東京圏へ進学するというのがこれでした。なぜかというと環境が不潔で、きたなすぎた。
スイスの山の上とか、南フランスの風光明媚な風光名物系田舎とか。どっちでも同じ意味だけど。イギリスの海辺で犬とカズオ・イシグロ作の登場人物だけ歩いてるどいなかとか。まじでそういう場所に行かないとしぬのであった。大体、まともな絵描きってそうだろう。自分の性格は。環境にやたら影響を受ける。そのなかでも自然環境とか、周辺の空気の清らかさとか。空気を描くのだから。勿論そこの人らの生活感の清潔さも大きい。大体、僕は都内でくらすまで知らなかった、まさか自分の実家の町が理想的に綺麗だとか。もっといい場所が外にはあるんだろうなと、実はほとんどなさそうな幻想をもっていた。相当探さないとそんなところないくらい、僕のじもとってすごくきれいな場面ばっかり集まっている景勝地だったのであった。インスタとかに写真集あるからみてみてもいいとおもうが。海・山・川・湖・浜・林・森・清流・草原・入江・崖・沼・田畑とか。宝庫。ほぼRPGマップ要素が全部揃いすぎでしょというね。豊富さだけでも。しかもそれらがいちいちクオリティが高いというか。かけがえがないくらいなんともいえずうるわしく、うつくしき、いつくしき個性があるのであった。都市も商店街もショッピングモールも工場もあるしね、写真あんまそっちは撮ってないけどさ。まだ。そのうち撮るか。むしろ大規模店舗系は自然破壊というか田園破壊してきてるからあんま好きじゃないんだけども。それを除けば大体よいものばかりあって悪い場所がない様におもうし。工場すらも、ここだとなぜだかほんとの話、なくなったらさみしいくらいで、この通り、プールまで通う道路、いつも同じ臭いがするんだよね、とかで、ある種の味があるともいえるのである。僕は0歳から暮らしてるが本当にそうである。北茨城市。僕の母すらそのなかでうまれそだって間もなく死ぬかもしれんが、父母ふくめ、それは違うよーという人をみたことがないのである。
ところがね。東京はほんときたないだけでごちゃごちゃしていてどこにも美しいものがないの。藤原正彦。『国家の品格』で言ってるけどさ。彼がもし正しければ東京からは真の天才が出現しませんでしょう。だって環境がわるすぎるもん。僕は今や脱出して地元でこれを書けているが、都内だったらしんでる気がする。鈴虫とか蛍とかよほど綺麗な環境にしかすみついてないでしょう。都会は害虫ならいるかもしれないけど。実際それもひどすぎた。