2019年6月11日

芸術価値は経済価値と異なる

芸術価値を経済価値に還元しようとする考え方を「商業主義、commercialism」といえるが、今日のアートを根本まで毒しているのは完璧にこのイデオロギーだ。大衆迎合やキッチュさも同じ根から生じる。バンクシーが初期に持っていた前衛性の部分にあったのも、反商業主義性だった。
 私はSNSで知り合ったある2人の人達に、絵を売ってみたらどうかといわれた。私はそれまで、ある種の貴族主義を持っていて、そもそも純粋美術が非商業的なのはそれが高貴な証拠だと考えていたのだが、自分の考えを反証する為にウェブ画廊などを通じ、作品販売を数年の間、試みていた。だがこれにあわせ美術市場をとりまく全事情を探っていくと、上に挙げた「商業主義」が俗物根性の世界として歪められながら欧米美術全体に広がっていて、しかも日本美術市場ではサブカルチャーにほぼ全域が侵食されているといった構図が浮かび上がってきた。私はそのどちらにも呆れた。
 芸術価値を経済価値で評価しようとするのは、そもそも間違っている。建築や音楽の分野を考えればわかるよう、単なる高価な物件、商業音楽と、名建築や音楽史における傑作は一致していない。しかし美術や文芸の分野では、商業化がより一層進んでいて、サブカルチャーと境界をなくす傾向が流行している。美術分野では村上隆氏のスーパーフラット理論、文芸分野では村上春樹氏の中間小説(純文学と通俗小説の越境例)が、それらの分野の中で商業主義を正当化している。彼ら商業主義の唱道者は、はっきりいえばスケープゴートなのではないかと私は思う。長い目でみれば両義的存在者は排除される結果になる。

 純粋美術とはなんだったのか。それは近代の画家が注文主の為の装飾職人から離れ、自らの前衛的な美術思想の表現媒体として、制作を再定義した所からはじまっている。同時に独創性が唯一の評価軸になった。
 我々はネットという道具を手に入れ、絵を単なる自己表現の為、他人に伝えられる環境にある。これは以前からアーティストらが手に入れたくとも手に入らなかった大変恵まれた環境だ。展示空間そのものが制限されていたのが公募展(西洋で言うサロン)だったし、日本画も私的空間に留まっていたからだ。
 しかし平成の美術家一般は、ピクシブを通じ、セミプロまたはアマチュアで漫画様式を使っていた人を除けば、少なくともこの環境を殆ど生かそうとしなかった。それどころか絵を箔付けして高く売るため相変わらず公募展に応募したり、欧米美術界へ輸出にいって競売市場で高値をつけさせようとしていた。

 多分、私がこれから書くことが岡本太郎以来の日本美術、もしくは世界美術の歴史の中で決定的な潮流の転換点になる重要な見地になると思うが、純粋美術は商業主義から決別しなければならない。そして誰でも自由に好きな絵を描いて、好きな作品をネットを含む自由な場に、無料で展示しなければならない。
 村上隆氏は著書『芸術闘争論』の中で自由教として近現代の日本美術の教育が囚われているイデオロギーと、この考え方を非難していた。なぜなら彼は商業主義に毒された、欧米と日本の両義的存在者だからだ。サブカルチャーにもファインアートにも振り切れない中途半端さだから、自由が肯定できないのだ。
 純粋美術、即ちファインアートは貴族的分野である。それは商業的営利を軽蔑し、自らの利害を全く離れ、ただひたすら自己実現を追求すべき世界であり、そこではどんな表現でも可能だ。大衆受けするか、市場で評価されるか、歴史に残るか(文脈主義)さえ、作家には実際にはどうでもいいことでしかない。
「私はこう思う、ゆえにそれをいう」。これが純粋美術の持っている最高の美質であり、企業の意向だの、株主の利害だの、消費者の反応だの、批評家の立場だの、学芸員の思想だの、政府の権勢だの、大学の人間関係だの、これらは先ず全く自己表現と関係ない。1人も理解者がいなくても自己表現はできる。美術家はこの様な純粋な目的で表現追求する結果、確かに極貧になり世間から狂人扱いされ若死にすることもある。だがそれがなんだというのか。世俗的な商業作家をみるがよい。彼らが模範といえようか? 我々は彼らを見ても、やはり軽蔑の念しか感じないのではないか。金儲けなら商売人の方が巧いのだ。
 美術家、アーティストがどうあるべきかについてはこれで説明できたと思うが、我々の社会的意義とは何か。それは経済価値(つまりカネ)、政治価値(政治思想からの判断)、場合によっては科学的・哲学的な学問的価値(真偽や善悪)、その他の非芸術的価値から全く離れた意見を表明可能な事だ。世界中の思想家だか大統領だか皇族だか、或いは全人類の一般大衆がこれをこう言えといっていても、我々はそれを完全に無視できる。なぜなら純粋美術は自由な領域だからだ。金にならないから大衆迎合する。実に馬鹿げた事でしかない。なぜ自ら、金で買えない最高の価値の1つである自由を放棄するのか?
 私は並のアーティスト志望者らが次々挫折していくのを横目で見ながら身をかわしていた。それというのも彼らが自由を自ら放擲したのは、ほぼ全ての場合に金欲しさにみえたからだ。生活の為と偽って才能のなさを言い訳するべく、凡愚な商人に堕していく連中は、商売人としても二流の存在にしかなれない。
 人は初志を貫徹すべきであり、この為には如何なる妨害も知恵と勇気で退け、進んで困難と立ち向かいあらゆる事態を打開しなければならない。そして商業主義という罠が、我々を今日最も苛んでいる最大の悪意だが、これは商人が芸術家を買収しようとしているだけの事だ。表現の主導権を取り戻すべきだ。芸術家は商人ではなく商人を兼ねられもしない。否、寧ろ兼ねるべきでない。芸術家には固有の職能があり、それは今日、ただひたすら純粋に芸術価値、有体にいえば美の追求を果たす事でしかない。全世界の人が或る芸術家を狂人扱いし、又は完全無視していても、自分が見うる最高の美を表現して死ぬべきだ。
 我々の作品が一生涯売れなかったとする。自らの全人生を懸けた全技術の結晶体が、全人類からごみ扱いされていたとする。しかしあなたは本当にそれを嘆くだろうか。本心では、自らそれを表現できた時点で、してやったりと思うのではないだろうか? だがこれが本来の意味での芸術の意義なのである。本心にもとる俗受けを狙うのは一切やめよう。その結果、ばたばたと芸術家が餓死したとしても、私は寧ろその一員になる方がよほど幸福だと断言しておく。実際に下らない商業作品を作って売ってみるがいい。そこらの俗悪な商人の方が遥かに金を儲けていく目の前でただひたすら惨めになるばかりだから。
 経済価値で芸術価値を評価するのは、芸術価値で経済価値を評価するのと同じくらい愚かだ。ユニクロやマクドナルドが、ルイヴィトンやディオールがいかに利益をあげていても、醜いだけ、下らないだけの製品サービスなど無数に見つかるので無価値だ、と言う人は、商人からしたら意味不明に見える。同じく、金にならないからこの作品は意味がないといっている商人は、端的に馬鹿なのである。大衆受けしてるからこの映画が最高の作品だといっている人間はただの俗物である。芸術と経済(商売)は全く別の分野であり、双方は住み分けによってよりよく、世界に価値を提供できる。美と利益は別のものだ。