2018年2月5日

幸福の貴賤

平凡な幸せを求めた人は、非凡な幸せ、並々ならぬ幸せを得る機会を永遠に失う。平凡な幸せは平凡以上の不幸を伴うものであり、そこで前提にされている平凡さは、その人の周辺認知という思い込みを基準にした中間性に過ぎないので、別の見地からは非凡でもあれば単なる不幸ですらある。従って人は平凡さ、という比較する他者集団と同等程度の快苦の束を要求するなら、それとひきかえに自らの想定した以上に質の高い快苦の束を得る機会を同時に失うのであり、多くの場合あらゆる幸福は蜃気楼の如く手にした時点では満足を得るのに十分ではないのだから、それら比較対象の集団が別の見地またはより高次な段階からは不幸に他ならないのだとして、単に快苦の判定に関する主体を比較集団に譲渡する結果に終わる。いいかえれば、人は自ら幸福の定義を問い直さねばならない。そうする事で初めて人生の主導権を握れるからだし、多角的な観点から見た凡愚さという取るに足らない一生の罠から抜け出す方法をおのずと見つけ出せる。すなわち、段階的幸福を理解する事は凡庸さを軽蔑し、並外れた幸福がこの世に存在し得、自らもその幸福に没入できると知るきっかけとなるだろう。
 この世では快苦の対象が人によって異なる事が受動的な意味での趣味を作っている。その際、より高次元な快がありうると知っている人は、そうでない人に比べて進路をより自らの幸福に役立つ様に選びうる。そしてここでいう高度さは快苦がより理性的である事を指している。愚者の快が愚かしく、おぞましく、憐れに見えるのは、愚か者に見える人々がより賢慮ある方法で人生の時間と労力を使っていないだろう事による。
 最上の快苦が、快苦全ての全体集合に対して究極的に利他性と一致している部分集合である事は明らかであり、それは同時に人類の理性的資質を完全に発達させる類の趣味でなければならない。哲学が果たしている役割は、言語知能によって人類がより利他的な存在になりうるという人類の自己言及的な存在証明であり、即ちそれが人類史と完全に一致している人間性の正しい展開方向でもあるだろう。感情は本能を表現的に強化したものだが、理性はこの表現形式を自らのうちに含む言行形式だから、いかなる芸術表現もより良い趣味という理性的段階を辿ってより完成度を高めていくのだ。
 非凡な幸福は非凡な理性と一致している。超越的理性の見ている光景は、人類一般が神性として認識し得る欠片を随分一極に集めたものだろう。人生ではより理性的な生存を要求すれば十分であり、本能的に見て充足されているか、或いは凡庸な意味でその時代の特定集団に比べて一様な快苦を得ているか、これらの見方は害であれ益はない。或る個人の本能的側面は、理性的側面に比べて脳の発達段階が未熟だった時点によるので、単に幼年期か退行というにすぎないのである。
 人生において究極の幸福は、自らの理性が利他性について突き止めた最善の振る舞いが、自分自身の意思と完全に一致する時の状態をさしている。元来、本能をつかさどる小脳の利己性に対して、理性をつかさどる大脳は利他性としての社会行動をはぐくむ為に現れた。自分の本能を利己性の故に陥る過ちや悲惨から引き離し、少なくとも生きるに値する協力的社会にするべく理性が生まれた。現代にあっても利己的にふるまう人々への軽蔑の念はこの為に生じるのであり、彼らの利己心がいくら満たされようとその自慢は虚栄に過ぎない。最高度の称賛とは或る人の道徳性、つまり理性の達成段階についてのそれなのだ。道徳性は哲学の分野において絶えず発展していく為、前時代で最高度の聖人も後代の最高度の哲学者によってのりこえられていくだろう。我々が人類史として生きた意味を明白にみいだすのはこれら、道徳性に基づいた生き方をした人々の記録だけである。卑賤な人は卑小な道徳性しか持たない愚人を模範にしているよう、貴い幸福とは段階的に認知されるものなのである。