僕は0歳の時から北茨城市という所に住んでいて、ここは海・山・川・湖に恵まれ田園と里山に隣接した小都会で、いわゆる天然にできている田園都市といえる。ハワードが郊外開発の類型として金儲けを含めて作ろうとしていったものではなく、最初からその様にできているものである。
で、そこで子供の頃、目の前は開けた野原で、春は菜の花やたんぽぽが咲き、夏はばったを草原の中で捕まえて遊んだり隣の家の庭にひまわりが大きく開いていて、秋はトンボがすすきの中を飛んでいて指で目を回して遊んだりしていたし、冬は一面の雪化粧で足跡をつけ回り雪だるまや雪合戦で遊んでいた。思い出は数え切れない程あるのでここでは書き尽くせないが、あるのどかな春の日、山あいの田んぼに両親と車でいって山菜をとったり、ある夏の日に、幼馴染の秋田君と近所の川に入って遊んで、近くにあったスパーというコンビニで冷たいおそばを買って、二人で川辺に座って食べた。とても涼しかった。沢山、僕らの小都市の周りに湖の様な沼があるので、そこにマウンテンバイクで友達と放課後に直行して、ブラックバスの釣りをやったりしていた。野口雨情生家の前の海でも、友達と釣りをした。夏は海や川や清流で遊べるので、家族で山奥の冷たい清流にピクニックにいって、ヤマメを釣ったり、おにぎりを食べたりした。東京や千葉からおじさんらが実家に帰ってくるので、一緒に川であゆ釣りにいった。家で塩をふって、小さな川魚を焼いて食べるとこの上なく自然の滋味というものがわかる。
中学校の頃、友達とみんなで友達のお父さんのトラックの荷台にのせてもらって、風をきって花園神社がある山奥の清流に遊びにいった。透き通る川の水にみな崖の上から飛び込むのだが、僕は町育ちの都会っ子なのでその種の野蛮な行いはやったことがなく、無意識にびびって足がもつれ、飛距離不足で崖にあたりそうに落ちたので、すぐ柴田君が「雄介大丈夫か!」とさけんで川に飛び込んで助けにきた。その後、学校で柳生君にそのことを余り悪意はない感じでふざけて、からかって笑われた――いまふりかえってみると、実のところ自分はそもそもそのときもだけど、小学校の途中から強度の近眼なので、眼鏡をはずして、ぼやけて見えないなかの崖ジャンプであったため、どこが踏み切るべき足元かをてんで、まるで確認できないのが本当のうまく飛べなかった原因なのだろうが――むしろ、そのときも、落ちる途中で崖を足で無意識に蹴らないと本当に危機的な感じで落ちた自分自身が面白くて笑っていたし今も笑えるが(やぎゅう君の「ゆうすけの落ち方、なんだよあれ。ああぁ~!」みたいな物まねが、本当はそんな風じゃなくて真剣に落ちてるので、わざと滑稽味を強調して表現していて面白かったわけだけども)、そのときも、柴田君はなんか心配そうな目で僕をみていた。そこで僕が下手すると死んでいた、と知っているからだ。
中学校2年だか3年だか忘れたが、夏休み、市内であった花火大会の終わりだかなんだかに皆で磯原の海まで自転車でいった。潮風がとても涼しくいい香りがし、日の暮れかかった海は浮かぶ二つ島ごと静かに青く、徐々に暗くなりつつあるのだが、いや夕暮れを反射しながら言葉にいいあらわせない色に変化していって、途轍もなく綺麗だった。そこにみなで自転車を留めて、なんかを話したりしていたかだった気がする。その場に柴田君もいたのだが、その柴田君が好きだった女子もその場にいたかなんかで彼はテンションがあがり、いきなり海に飛び込んで、下半身ごとびちょ濡れになりながら騒ぎだした。僕はそこでみなと腹の底から愉快で笑って眺めていたのだが、その時の感じは他の場所で得られたとは全然思えない。
僕が19歳だか20歳くらいの頃、芸大受験で落とされ、必死に東京・池袋の美術予備校でデッサンの練習し、やがて猛勉強して美術系大学がいんちきだと悟り、そのころ同じ都内の保谷という場所に住んでいた田中隆央君と煮込みうどんを食べにいき、「芸大受験やめる」といってなぜか彼に泣かれた後の話だが、そのころ僕はデ・ステイルやモンドリアンの新造形主義の研究をしていて、それは建築に絵画・彫刻を装飾的要素として統合しようという考えだったのだが、それなら最も時間がかかりそうな建築を新たに学ぼうと決心していた。それで実家に帰ってきて毎日、建築に必要な数学や物理を新たに勉強していた。
毎日僕は、気分転換に海へ散歩に行き、そこをネット・ウォークマンだったかツタヤで買った500円の音楽プレイヤーだったかで音楽を聴きながら、真っ暗になるまで走った。海は毎日表情が違うし、砂浜も形を全く変えて行く。朝・昼・夕・夜と海は色も姿も違う。そこには宇宙そのものといえる無限がある。学科は通ったが、実技について自分は型にはまったことをさせられるのが苦痛だったが、自分では完璧に手本通りの設計図を書いている筈なのに結局、5、6回落とされた。で、僕はその間、主に東京の調布という場所に住んで朝から晩まで一人で勉強し、たまに地元の北茨城に帰ってきたりしていたのだが、ある夏の日だったと思うけど、僕は果てしない勉強にも疲れ果て夕暮れの磯原の海辺に座り込んだ。空に満月に近かったかは定かではないが一つの月が浮かんでおり、あたりには誰もおらず、潮騒だけが耳に聞こえた。あたりはオレンジに近い色に染まって、徐々に夜になりつつあった。
それは自分が寝ている砂浜が、周りはもう涼しさを通り越して徐々に寒くなっていく夜の穏やかな海を背景音に、ほのかに温かいということだった。それまで僕は砂浜は冷たいものだと思っていた。死んでいると思っていた。地球は無生物で、あの大都会と同じ物体だと思っていた。それは大きな間違いだった。
勿論、日の光を地球が吸収し、内部熱として保っているだけなのだけど、現実にその温もりを自分が全く不意に感じてみると、地球は、そして自分の地元の海は、常に自分を、ほかのあらゆる生き物と同じよう温かく見守ってくれていたのだと気づくことになった。僕は芸術の道を歩みだしてから、殆ど誰からも無視され、時には狂人と間違われながら、酷く孤独だった。しかし子供の頃からきちんとしつけられ、真面目な自分が探求を諦めるべくもない。その時、地元の海で僕は一人で涙を流した。この星の人間達は僕にとても冷たく、誰も僕を助けてはくれなかったが、少なくとも、この星は僕を助け、支えてくれていたのだと気づいたからだ。母なる星は自分がこの市、この町に生まれてから、一度も休むことなく僕を見守り、密かに父なる太陽と共に自分を温め続けていたのだ。音楽はやんでいたが、海の奏でる潮騒の方が遥かに素晴らしく、とめどもなく尽きせぬ曲だった。あお向けになった格好のまま、手の平を砂浜の中に突き入れてみると、星の温もりは確かだった。しばらく、計測できないほどの時間そうして海の歌と、地球と、月が僕を見守る中で休んでいたが。それで自分は安心し、上半身を起こし、涙を拭いて、真っ暗闇を国道の車のライトが切り裂く中、帰途についた。