2020年7月27日

上品さは仏教徒、貴族及び進歩史観の当為で、その社会の平均にも見られる質を除けば、往々にして当時の庶民が与り知る所ではない

りおしが「成熟した社会には下品な文化って存在しないと思いますよ。社会の発展の妨げにしかなりません。」とさえずってそれなりに燃えていた。これについて考えるつもりなのだが、その前置きがある。
 りおしとは何者か。自分が知る限りは『政治広場史』『さと事件史』『続アメーバピグ史』らに、概略した。その他の周辺情報も断片的に自分のブログ「アメーバピグ史」分類に残されているかもしれない。
 一言でいうとピグで英雄的な活躍をみせBANされた悲劇の人物である。
 ピグがあった頃から彼はツイッターに「riosi」アカウントをもっており、以前のは消えたのかもしれないが、今回また復活させたとみられる。数日くらい前に、僕のツイッター実名アカをフォローしてきた様だったが今は自分が無反応だからか、タイムラインに連投してくるからか、彼の側からフォロー外ししている(自分は基本全くタイムラインみてないのでリストでチェックはしてるんだがフォローしてない)。
 彼は元々ピグで「喧嘩イベント」と呼ばれる、ある種の詭弁術自慢な不良共の集まり出身であった。しかしその才能を請われ(金銭関係はないので文字通りに買ってはない)、のち「政治広場将軍」となった。そんな公称は殊更なかったが実質そんなもんだったろう。自分が歴史上で預けた美称みたいなもんだ。
 いづれにしても彼はピグでのキャラと全く同じ物をツイッターでも演じている。だから上記は参考になるかもしれない。

 では本題だが、先ず上品という言葉からだ。
 これはもと仏教語である。悟りを開いた人、目覚めた人、即ちサンスクリット語のブッダが上品。そして悟れない俗人が下品。中間状態の修行者を中品という。大まかな定義として。
 明治期に西洋語が流入し、向こうのeleganceなどの訳語にこの漢字があてられた。現在では読みで区別されていることから、このとき、元のジョウボンから新たな読みジョウヒンがつけ加えられたと思われる。
 ここでいう上品は仏教語でいうか、日常語でいうかで大まかに2つの批評がなりたつだろう。

 先ず仏教語として上品を考えた時、「成熟社会に下品文化がない」か? いわゆる仏教社会を考えるとそれが理想状態だといって差し支えないだろう。釈迦ことガウタマ・シッダールタにとって、欲望の火(煩悩)を吹き消し、無欲(nirvana)に留まるのが生の目的だった。欲得の下品文化は吹き消される。
「(下品文化が)社会発展の妨げにしかならない」とのりおし説は、仏教の理想郷を思い描くかぎりおよそ100%正しいといえよう。煩悩を起こしかねないあらゆる物事は、所詮、下品(俗人)らにとっての代物であり、中品(修行僧)らには後ろ髪引かれる思いだろうと潔くすてされねば無欲に到達できない。

 次に日常語としてのジョウヒンについて考える。
 自分の知る限り最も参考になるのは永井俊哉氏が「上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定すること」(『上品さとは何か』永井俊哉ドットコム)と定義した観点かと思う。
 いわば顕示消費類を様式論に抽象化した観点だ。
 ここでいう上品は、仏教と一部かぶるものの、単に生活様式全般について、欲望充足をなるだけ間接的に非効率化させる事で、自ら庶民の瑣事に肉薄しなくても暮らせている、と社会に顕示できるハンディキャップ効果を指摘しているわけだ。永井氏によれば上品さはこの意味で憧れられると共に呪われている。
 例えば昭和天皇が水戸黄門(義公)が田植えもしていた隠居所・西山荘にきたかこないか頃から、水戸の農本愛民から学んだか定かではないが皇居内に水田を設け、以後天皇自ら田植えも始めた。古代から中世の皇室からみれば農奴の真似は「下品さ」だったが、社畜の現代では「上品さ」に移り変わったのだ。裏返せば、皇族がそこらのサラリーマンやOLと全く同じ生活をしだしたら一気に権威が失墜する。例えば駒場大学なりそこらの高校を卒業し、週3でコンビニバイトしてたとする。ほかの時間はPUBGをツイッチ配信してたとする。この時点で皇族シャカ(配信者)かよってなってしまうのだ。庶民派でしかない。
 永井氏のいう呪いは特に経済面だが、要は「武士は食わねど高楊枝」を実践すると当人が困窮する。小人どもの汚い金儲けは君子の携わるべき生業ではない。他方、江戸期は儒教を奉じた徳川系の武士がこうして自由放任市場を経営でき、江戸が世界最大の商業都市になるまで大発展したのはよく知られている。

「成熟社会に下品文化はない」とのりおし命題。
 ジョウボンではなくジョウヒンの方に絞っていうと、次の様な結論に至るだろう。ジョウヒンな人はいわばその社会の多数派である庶民と多少あれ住み分けられている貴族である。庶民はどこまで行こうと多かれ少なかれ下品な繁殖劇から逃れられない。
 ひとがうまれてきてからしぬまで何も食べないわけにはいかないし、去勢しないかぎり性欲その他で多かれ少なかれ繁殖に駆り立てられる。また睡眠せずに生きることも先ず無理である。これらが三大欲求とかいわれるが、庶民はいわばこの境涯で輪廻している動物に近い実在である。貴族社会に縁はないのだ。
 我々が文や絵などで記録してきた諸々の過去の人類史のうち、特に貴族社会を示す代物が、古典的には立派な芸術(fine art、通常の和訳で純粋芸術)とされていた。例えば(元大工さんなのだろうけど)イエスの聖像とか、レオナルド風プラトンとミケランジェロ風アリストテレスが議論しながら歩くアテネ学堂の絵。庶民に及びつかない。当時も庶民は品性下劣な馬鹿話をしていたろうし、今の国内でいうなら吉本芸人とかテレビ文化人とか成金インフルエンサーとか、2ch5chガールズちゃんねらーヤフコメ民、その他、ツイッター民とインスタティクトク蝿みたいなやつらである。こういう人達が発展の妨げかといえば自分も確かにそうかと思う。
 福沢諭吉は『文明論之概略』で智徳(知識と道徳、知徳)が無限に向上した先にある理想社会を「文明の太平」と名づけた。イエスでいうなら神の国、カントでいうなら目的の王国。各々の思想家が当為(当然達すべき状態)として桃源郷の類を定義していた。その福沢説によると、下品文化っていわば毒物だろう。
 健康体だと、国はジョウヒンさに向け進歩する。なぜなら知識と道徳がどんどんまして行けば、より相手を思いやる能力だとか習慣、人助けになる工夫、要は福祉技能が人道的な使われ方の工学含め発展するわけなのだが、(非仏教的な意味での)下品文化は麻薬みたいに過度に作用し、健康を狂わせてしまう。例えばジャンクフード。確かにおフランスのコース料理だの懐石に比べたら幾らか下品な文化だろう。だってこれくれっていったらヘイっつって。ポンっつって。嘗ての江戸ファストフード寿司みたいに出てくるのまではいいが、カロリーだろうが、牛いじめだろうが、やばいのである。バフェットだけ平気だ。

 またこの種の単純なジョウヒン進歩史観に対し、微妙な批判の余地はあると思う。例えば全国日本語民がいかにも婉曲的でまだるっこい京都弁(当人らのエスノセントリズムだと京言葉)使うかといえば相当高い確率で、未来永劫そうならないわけだ。それは堕落でなく往々にして真似たくもないからだと思う。
「~してはる」「あちらさんは~」とかより、東京方言に近い「~してる」「あいつは~」の方がぞんざいな言い方なのかもしれないが、じゃあ標準語で「~してらっしゃる」「あちらの方は~」と言う場面って、敬語だと思う。京都弁風言い回しはジョウヒン進歩史観に反し敬語形式だけ換骨奪胎されている。
 単にジョウヒンな事と、ジョウヒンぶっている事とはかなりの差がある。というより全く違う部類かもしれない。しかし庶民には見分けがつかない。だから京都弁で話してるだけでジョウヒンや~と思い込んでパシャパシャ写真を撮る祇園で、外人が。全くの妄想である。標準語だから心が綺麗とはいえない。

 もし社会がいづれかの向きに進歩していくのなら、なるほど知徳が上向く方がましだろう。文化多様性を汲むとこの種の進歩そのものが否定されかねない比較文化論上の(文化相対主義的)ご時勢だが、総合的にみて、人類全体の従来の重大犯罪率が徐々に下がっているとはいえる。大戦も起きてるが。
 即ちこういう事。
 文化の単位で見る限り(そもそも文化なる単位が恣意的幻想だという脱多文化主義的に当然の指摘は後回しに)、少なくともミームとしてそのジョウヒンさへの選好が貴族にはなければならない。庶民はこの限りではない。そして真のジョウヒンさはスノビズム、俗物主義とは峻別される。
 嘗て数多の貴族文化が生まれそれが庶民化された(例:和歌庶民化が俳句、川柳)。逆流もある(例:ジーンズを皇族が履く)。だが全体の流れとして、偽のジョウヒンさを除き(例:イケズ)、文明こと市民化 civilizationは徐々に人類を他人や他生物にとって慈悲深い存在に仕立てていく筈だろうと思う。

 ではまとめる。
 りおし命題「成熟社会に下品文化はない」
 仏教的に真。
 進歩史観に立つ文明論に限れば、貴族について真。庶民について時間差で真に近づいていく。

 他の史観、文化単位否定後や、進歩否定論系などは、多分そっちのが実際にはより現実的かと思うがここでは深入りしなかった。
 最後のその他の史観について少し触れると(省略の為、説明用具体例省く)、先ず文化は個人単位で見直すと混雑しているし今後もしていくから、厳密に分類できない。ある種の思い込みでしかない。よってそもそも下品文化の類は本質的に定義できない。したがって仏教説・永井説など仮定義なしに判定不可。
 また福沢説でいう一様の合目的進化を文明全てが遂げるとは(各主観の生起する場の乱れを考えると)到底いえないので、りおしも自嘲気味に自己論理を包摂止揚してたが、全体主義的誤謬(いわばバベルの塔的全会一致幻想で、変化適応性減る欠陥)を免れない。そこに危険がある。
 既にりおし該当ツイートへの批評や誹謗の類を観察すると、これらの論理をとる論客は無数にいる。「下品なんて定義できない」「文化庶民化や、猥褻的芸術への評価多様性・評価変化を見ると過去は違った」など。だが一文明単位でみて歴史文脈が忘却されない限りこれらも前時代との関係でしかないだろう。仮に系統樹や進化論を援用すれば、場当たり的に或る個人に於ける文化単位の多様性が発生し、社会側がそれらのどれかをミームとして延長発展させる。選択権はその社会にある。庶民は下品さを物ともしないのでその中で、より下品な行動様式が発展しても不思議はない。即ち貴族との住み分けが前提なのだ。