高須克弥氏が「ソクラテスの時代から毒杯をあおる尊厳死はある」といってるのはソクラテスの死を指してるとは限らない為、相当断定的にソクラテス批判してる人達も文を厳密に読解できてない様に思う。
他方で、ソクラテスの死が真に尊厳死だったか、それとも真に強制された死刑だったか、それらの中間か、それら以外か?
弟子プラトンの記述(『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』)によると、ソクラテスは死刑宣告後、当人が国外逃亡を選ばず、尊厳死を進んで行った様に記述されている。
特に『クリトン』で、幼馴染の親友クリトンがソクラテスの獄中にきて「死刑は明日だ。僕が助ける、いま逃げられるのになぜ逃げない。君は妻子を養う必要がある」などと忠告する。ソクラテスは「別の国にも国法がある、老い先短い自分が国に反したとなれば万国の害。神々の導きに従おう」などと答える。
端的にいうとソクラテスは、カルロス・ゴーン氏の逆の行動をとったといえる。悪法もまた法なり、とばかり、刑死の瞬間まで尊厳を失わないソクラテスは、もはや同情的な死刑執行官らが友人らと涙を流して見守るなか、自分から毒杯を仰いで死ぬ。老人なのを考慮しても、ある種の尊厳死要素はあると思う。
ソクラテスは単に真理探求をしていた今でいう哲学者、思想家の類だったが、多くのソフィスト、今でいう教師、大学教授らを公に論破していたので逆恨みされていた。自分が知者だと名乗る学者はその箔で食っているのに、唯の乞食みたいなおっさんに無知だと暴かれるので全員商売あがったりとなっていた。
それでソクラテスはイエス式に疑獄にかけられ、濡れ衣で集団いじめされ死刑宣告された。今も昔も大衆はなんの違いもない。一言でいえば酷く愚かで、とかく利己心で一杯、邪悪である。それは一部の賢者と比べれば当然そうなるのだが、大衆平均の知能の質では、肩書き詐欺商売の方が分かり易いわけだ。
では高須克弥氏の尊厳死解釈は間違いなのだろうか?
自分が見るに、あいちトリエンナーレ2019炎上問題で対立する津田派(実際にはつるんでないだろうけど)に比べ、少しより深くソクラテス風尊厳死を理解できているのではないかと思う。ゴーン式goneすればイーロンにツイートで煽られ得たのに、毒杯飲んだんだから。
病苦や、老衰をとりまく介護者ら周囲に与える迷惑と申し訳なさといった恥の感情等から自身の尊厳を守る為、進んで死を望んだ重病患者がいる。そういう人々に現時点の一部の先進国等では安楽死を選び取る権利が法律上ある。だが日本には未だない。
ソクラテスは岸信介や昭和天皇とは大分違うと思う。
福沢諭吉は『痩我慢の説』で榎本武揚を批判し、新政府に仕えず僧侶にでもなってたら戊辰の旧幕軍死者が救われたという。
(ついでに書くとそれはまだ熊谷直実風の古武士流儀的に分かるが、徳川の天皇への禅譲不可思議といってる天皇機関説福沢は水戸学尊王論をなんら理解してなかったとはいえるだろう。水戸学内では楠木正成式に進んで尊皇(王)忠義で自己犠牲図るのが理想化されてるんだから、慶喜公が対薩長云々でなく皇旗を見たら、即座に踵返し全面撤退したのは単に水戸家流儀、「わが家はたとえ幕府と戦うとも皇室を奉り弓を引く事はあるべきにもあらず」と烈公に教わってたのだ、常々庭訓で。参考文献:渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守。伊藤博文を介し渋沢栄一が聴き取った逸話を徳川慶喜に尋ねたところ、慶喜が事実だと肯首した弁。以下引用。
現代語訳参考ページ
明治34年の頃、筆者こと、男爵・渋沢栄一が伊藤博文公爵と大磯から帰る汽車の中で、伊藤公は私へ語りはじめました。
伊藤公いわく――
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえていらっしゃいますが、私は、心にはそうはいっても大名でも鏘々たる一人くらいに思っておりましたが、今にしてはじめて慶喜公が非凡の人と知りました」
伊藤公は、なかなか人を信用し認めないかたなのに、いまそんな話をされるのは、なぜですか? と、さらにおして、たずねましたところ、
伊藤公いわく――
おとといの夜なんですが、有栖川宮家で、スペイン王族のかたを迎えて晩餐会がありまして、慶喜公も、わたし伊藤も客に招かれました。
宴会が終わってお客さまがたが帰られたあとで、わたしは慶喜公へ、試しに「維新のはじめにあなたが尊王の大義を重んじられたのは、どんな動機から出たものだったんですか?」とたずねてみたところ、慶喜公は迷惑そうにこう答えられました。
慶喜公いわく――
「それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです」
伊藤公いわく――
いかにも奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は果たして、並みの人ではありません、と。
筆者・渋沢はのちに慶喜公にお目にかかったついでに、この伊藤公の言葉を挙げておたずねもうしあげたところ、「なるほど、そんなこともあったね」と、うなずかれていらっしゃいました。
原文
明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。
http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/yosinobu.htm
http://www.komonsan.jp/kura/cat24/5_9.html)
福沢の榎本・勝ら旧幕府批判もそうだが、旧体制A級戦犯で死刑になる筈の岸信介が米スパイに寝返って生き延びたとか、全権もっていた昭和天皇が敗戦後の体制で一切責任とらず象徴の座に収まるとか、暴政や混乱期など国法が破綻や矛盾する時、或る人は独自倫理で動くがその内容の質の議論が必要になる。
慶喜の場合、元々おうちとして尊皇が義だったので、はすっぱ福沢みたいな旧陪臣に『痩我慢の説』式下衆の勘繰りで先祖の威徳ごと誹謗されようが今でいう「アリンコに噛まれても痛くないでしょ(by月収7桁中学生キメラゴン)」に優るとも劣らないくらいの感じを受けたと思う。
ソクラテスもほぼ同じで、当時の民衆がグダグダいってこようと、当人の信じる正義は、自分で考え少しもゆるぎ無かったので、平静な顔で周囲の人々を思いやりつつ死んでいけた。孟子でいえば「千万人と雖も吾往かん」の無敵状態だったわけだ。
思うに尊厳死って普通に存在すると思う。武士の国だし。
恐らく次の様にいえるだろう。
先ず上述した人達のうち、ゴーン氏は当人として罪を犯したつもりはないのに安倍政権の国策とつるんだ日産内紛でスケープゴートになったと感じ、公正な裁判を受けるには国際社会に訴えるしかないと考えた。これも分かる。実際日本の司法は微妙な点が多すぎるのだ。
或いは岸信介は米軍の都合で安保法案を通したまでは命を救われた元スパイ傀儡の恩義だが、それでは日本が間接統治のままだと悟っていたので自主憲法めざすと言い残した。安倍晋三は岸の亡霊、しかし随分勘違いした孝孫であり、逆に米政府のため共謀罪を違憲無視で成立させたり米属軍化の改憲試みる。
昭和天皇とくれば天皇家維持こそ第一と暗に考え、終戦工作時マッカーサーによる天皇免罪の合意をとりつけてから会談に臨んだ史実もある(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)。『マッカーサー回顧録』の記述はこの根回しあった上での公的発言だったというのが現代までに知られている現場だろう。
キメラゴンが営利バイアスでうざがられるのをアリンコの噛みつきと形容したのは、実際には彼が或る種の資本主義信徒と示すだけなのかもしれない。
そして福沢からすると元が大分の田舎武士、帝室王室唯の世俗権力者で同類に見えて敬神なし、伝統の長さも『文明論之概略』通り特に奉じていなかった。
こういった人々は、当時の国法、もしくは大衆の空気とは別に、或る独自倫理で動いていた。
ソクラテス刑死の現場にあった(のかもしれない)尊厳死要素は、プラトン著述などからそれを読みとれる人にとっては、難病患者の尊厳死問題と別パターンではあるがやはり独自倫理の必然的帰結だと思う。