2020年7月16日

わが国ネットに光射す時、或いは光の四格について

自分は次の様な立場だ。
 悪事の分子は僅かな物でも見つかった時点で潰していかないと、習性なので勝手に増殖する傾向があり、気づいたら手遅れとなってしまう。東京の実例なら、例えば江戸時代から徐々に性売買罪がはびこりだしてもはや手のつけようもなくなっている。風紀回復へ遥かに手間かかる。
 しかし序盤ならそうではない。例えば割れ窓理論と一緒で、僅かに習性の乱れが発生した段階で、調度、枝葉を特定の向きへ木をあてるみたいにいざなってやるくらいで、普通に悪い習慣ってなくなっていくものだ。
 既に匿名卑怯者文化が定着した今の段階でその悪疫を除くのは、物凄く手間がかかる。
 東京圏で最初に匿名卑怯者文化を生み出したのはいわゆる西村博之という人であろう。2chがなくとも、ミクシー登場まで、あの種の匿名掲示板があれほど大規模化したとは断定しがたい。恐らくフェイスブック来航までの間、日本国内のウェブが斯くまで堕落した風紀になる事はなかったと自分は思う。海外でそうな様に。

 ひとりのサイコパス度が異様に高い詭弁屋が、広告収益を一目的に、匿名犯罪のネットスラムを維持していた。表現自由の起源は政権批判の為だったと思うが、その本来の意義を脱落させ、法倫理文脈を断章取義し、「なに言ってもいいのが表現自由でしょ?」という詭弁の立場から彼は全裁判も煙に巻いた。
 中世の西洋では封建制、すなわち王侯貴族などの領主が統治していたので彼らの禁忌に触れる表現をすれば命は無かった。しかし近代化の過程で諸々の政治的経験則から、単に当時の政体に関して公益の観点から意見を述べるのは認める様に徐々に、議会政治が変化してきた。
 だが匿名卑怯者の為ではない。
 以前、この問題について、或る別の詭弁屋がツイッター上にいた。なんちゃら哲学チューバーだか高等遊民と名乗る覆面男だ。
 この人もやはり全く同様の歴史原理を乱用しており、中世の西洋人がしばしば偽名匿名で著書を発表せざるをえなかったのは言論弾圧の為なのに、覆面男は責任逃れ用にしていた。
 大体、ほぼ表現の自由が今日の形をとる様になったのは、フランス啓蒙思想家辺りからだろうと思う。彼らは当時の世相とか政体に勇気あるオネットムの立場として堂々と意見を述べ、影響された仏人はいわゆる共和政体を作る。それが植民地に伝わって米国或いはカナダの建国になる。つまり王政からの離脱。

 では日本人大衆は? なぜ匿名で言動したがるのだろう?
 第一に彼らは自我(個)が未確立で、第二に社畜・国畜の様な和で相互監視しあう奴隷階級だからなのだろう。個の未確立問題については独立自尊を啓発した福沢諭吉、『私の個人主義』で群集批判した夏目漱石らの明治期から、なんら変わらない。
 和の相互監視については最低でも奈良期17条憲法で、『礼記』『論語』の礼儀の用として語られてる和を、これまた断章取義した謎の同調圧力論にゆがめて上からおしつけた聖徳太子からなんら変わっていない。孔子がいうのは「儀礼は和やかにネ」って意味なのに、聖徳太子がいうのは「お前ら仲良くしろ」。
 山岸俊男風にいうと、社会的びくびく人間(他人の目を気にする臆病者って意味ですね)であるところの平均的日本人が、しかも近代的自我の問題、例えば実存主義とか合理論・経験論とか中世以来の西洋哲学を潮流としてすら少しも学び取らないもんだから、相も変わらず天皇納税の奴隷のまま苗字もない。
 武士は違った。彼らは誇り高き超少数派の人々で、さながら今でいえば何らかのハイカル文化人なんだろうけども、名誉を大変重んじておった。つか名誉の為に命を懸け戦していた。だって死んだら名しか残らないのだ。そして戦では死んで元々なので、常に進退に全身全霊かけていた。で卑怯を心から憎んだ。
 魂が違う。その通り、生まれか育ちか、匿名卑怯者の町人ってのは今で言う会社員とか公務員とか、組織に飼われてる下っ端である。組織とはいっても上の方は責任あるからちゃんとツイッターでも名乗っている。こそこそ仮面舞踏会なぞ中世イタリアなら出てるかしらんけど、体面ないやつが舐められて当然。

 ではなぜ西村はそんな体面なんて一切ない、現代の奴隷階級といおうか下層民があふれかえるネットスラムなんて赤羽での幼少体験のトラウマみたく、長々と再現してしまってきたのだろうか? 彼個人の箱庭でしょ、とは並の解釈だ。現実には金儲けである。和人の匿名犯罪空間を闘鶏式アクセス稼ぎにした。
 某著名インフルエンサー(東京系・横浜高知系など)なら炎上ブログにアフィリエイト貼りつけぼろ儲けだったが、西村はガチ犯罪のネットスラムにエロ広告貼りつけていた。手口があくどいあくどい。そんなのを有識者扱いしてる東京民度なんて、商業道徳としても最低を更新し続けていると断定できよう。
 私個人が西村に思ってるのは「のちなからん」ってやつで、孔子が、ある彫刻家がヒトそっくりの俑作って(殉死の風習の基になったとされるので)、最悪だなって批判した語彙である。この悪習を最初にはじめたやつは子孫が絶えるに違いないという。お国を匿名犯罪の巣窟にしたやつが社会的制裁うけない?
 未来から見返せば、今自分が書いた事なんて最早当たり前の説というか、当然の如く西村の社会的地位が陥落したとか彼が当然うけるべき倫理的制裁は十二分に受けたあとだろうから、いまさらになにいってんのぉ、だろうけど、僕がこうして啓蒙しない事には馬鹿な都民なんて一モナドも反省しなかったのだ。

 自分はダークトライアドの対義として、ライトトライアドがあるのを知って、ダークテトラドの対義もあるだろうと考え、ライトテトラド(light tetrad)っての定義した。
1.カント主義(人格主義)
2.人間主義(ヒューマニズム)
3.性善説(人間性への信仰)
に加え
4.自己犠牲(絶対的利他主義)
がそれと思う。
 性善説で自他の人格尊重を当然と考え、人情味に溢れているばかりか常に自己犠牲を厭わない人。つまりは最善人あるいは極善人、聖人君子だけれども、そういう性格の人がこの世にはいて、具体的に言うと自分もその一員だ。というか自分はそうでないのが信じられないと思っていて、世人が悪魔にみえる。
 ライトテトラド(「光の四格」「光の四性格」とでもいおうか)の性格からすっと、西村とか本気で全く信じられない。だから自分は一見しこいつヤバイなと思って半径アンドロメダ銀河以内に近づいた試しがない。今後ともそうである。
 光は光と、闇は闇と親しむものだ。
 ネットに光射す時、それは西村ドヤのfinだ。