2020年1月13日

前衛と後衛は自動で分かれる

写実絵画って俳句でいえば季語入りの月並定型句みたいなもんで、自分はすぐこれで終わってる限り古典から一歩もでないと思って新しい表現探り出したけど、写実絵画で飯食って日展で地位得て得々とスポーツカー乗り回してる同年代の自称画家とかみるに、やっぱ人は生まれつき違うんじゃないかと思うよ。
 いまにして思うと僕が18の時、美術予備校(通称どばた。専修学校だったらしい)にいた1年間の凝縮した学習過程って、人類の美術史の古代から近代のおわりくらいまでを1年ですっかり独習したことだったんだから、いくら「パン絵」だからって写実売って一生費やすのは僕なら我慢ならなかったろう。
 あれから17年くらい経つけど、その間もよくもみんな挫折して消えていく中で、密かに絵とは何かとか文字づらでいう中心極限定理みたいに追求してたと思うわ。数学的な定義抜きで。
 セザンヌとかモンドリアンとか僕みたいに孤独だったに違いない。ダビンチも。彼らからみて僕が遜色あると思えない。

 前もちょっと書いたけど、僕が18の時、周りにいた画学生の人達は、なんかしらんけど本気で絵やってるのかなこの人達って感じでみんなどっかいってしまった。僕も試行錯誤は恐ろしい試行回数したけども、前のPCに入ってた習作データ何百枚とか全部消えたけど、やっぱ前衛を追求するのは別の種族だ。
 サッカーでも、攻めに行くやつって最初から違う。
 僕が小3のときサッカー少年団はいって、いきなり実戦やらされたとき僕ともう1人の子だけ前にまえにでていくから、次のときから僕がウィングあてがわれた(もうそんなポジションないけど、今のツートップ?)。
 絵も同じだ。前に出るやつがいる。
 日展はダサいからダメだとモギケン氏がいう。確かに僕とか18くらいの時点ですでに友達とそんな感じで、日本画はガン無視していた。のち勉強しなおして欧米美術より上品だったり独創的な点もあると再認識したが(特に琳派と五浦派、のち院展の系譜。つまり大和絵の流れ)、あれだって最初から違う。
 日展の理事だか出世してスゴイだろ、となる人とか、芸大の学長になって芸術院の長になって偉いとか、宮内庁官になる様なタイプの人って、最初から「後衛」なのである。それは子供の時点でもう違う。
 前に出て行く人は、攻めるのが好きなのだ。僕は完璧にそれだった。後衛の人は逆にダサ偉いのだ。

 僕が所属していた精華サッカー少年団でも、もう最初の時点でゴールのほうにいて守り専門タイプってのがいるのである。なぜかはしらんけど子供の時点で違うもので、僕の時は臼庭君とか大ちゃんとかが後ろにいた。どちらも体格がでかい。僕は小柄ですばしっこかった。早生まれだからもあるだろうけど。
 美術界全体をみて、この後衛タイプは、ダサいと。それは半分はそうなのかもしれんが、また微妙に違う見方をすると、サッカーでいうディフェンダーとキーパーの役割をしているといってもいい。
 確かにフォワードより目立たない。でも彼らはしっかりした守りをする役割なだけだ。性格が保守的なのだ。
 ダサダサの写実画であると。なんの洗練もみられないで、国際的文脈とか全く見ていないと。院展のほうは逆に日本画の風流を追求してるから微妙に違うかもしれんが日展は、それはダサダサでしょう。ドメスティック国内ガラパゴアートで、或る僕の同級生いわく「日本美術はARTではない」とかいわれる。

 でも、僕はそれと全く真逆のタイプで、常に最前衛のさらに先へいきたいプレイヤーだった。限界までいくと、これ以上進めねえなと思ってまた徹底的に勉強しなおし、もっと先に進む方法を開拓しようと必死になる。これをくり返してきたけども、別に誰に教わるでもなくそうしてるのだ。性格差でしかない。
 逆に、一般素人は、僕をアーティストだとは思っていないでしょう。彼らは日展の画家さんたちを「偉い芸術家」とみなしていると思います。あるいは県展とか、ナントカ会みたいなのの所属作家でもいいですけど。
 けどね、彼らには彼らの役割があって、僕には僕のそれがあるのですよ。サッカーと一緒。

 人類は、まあ前衛は無数にいるんじゃないでしょうか。サッカーだって色んなチームにフォワードがいる。その先のほうで試行錯誤しまくるしかない性格の人の一人が僕であり、同時に全世界の動向を注視しながら、自分の研究を進めている。どの時代のどの前衛も、基本的にはそうだったと思います。
 僕は、全人類に無視されてるみたいなもんだが、だからといって別にポピュラーなアーティストになりたくもない。だから津田さんとか会田誠とかがグチャグチャあいトリで騒いでる時も冷ややかな目で外から批評していたのであって、輪に入れといわれても絶対いかない。
 この点でリヒターとも僕は違う。
 リヒターは手記で、自分はポピュラーなアーティストでありたいといってるが、ウォーホルに比べて貴殿がポピュラーかね? としかいいようがないが、どっちにしてもこれだってポジションどり以前に、人の性格だ。
 僕はセザンヌよりもっと内向的なタイプなので、そもそも誰とも会いたくないのである。
 ビッグファイブの性格テストやってみたら、自分は内向性が相当高く外向性が最低レベルであった。で開放性がマックスで誠実性もほぼマックスだった。神経症傾向は普通だったかあんまり高くなかった。
 こういうわけで、人は性格が違うから、後衛になりたくもない芸術家なんて確かにデフォでいるのだ。

 自分は人間嫌い(というか社交嫌い)の極端な研究者みたいな性格なんだが、その上で感受性が異常に細やかでとにかく繊細なタイプだった。それで必然的に芸術家になるしかなかったのだが、問題は、しかも開放性マックスで知的好奇心が極度なので前衛にしかなれない。商業も嫌いだから当然こうなる。
 ということは、後衛の人達をダサダサだといっていじめるのは、全く意味を成していない。だってそれでいったら最前衛だって大衆を無視してなにやってんだか誰にもわからないことしかしないし、死後だって誰かがその人の仕事を認めるかなんて当人にもわからないし、どうでもいいとすら思ってるのである。

 僕は、恐らく人類が嘗て生み出した人種の中では、最も前衛的な芸術家タイプの極度のやつなんではないかと自分で推測する。もしかすればもっとそうなやついるかもしれないけども、美術史を見直す限り、また同時代人で似た様な人みたことないので、多分そうではなかろうか。そんなの自動でうまれるのだ。
 ここでいっておくが、僕はどういう気持ちで絵を描いてるかというと、「まだみたことがない絵がみたい」しかない。僕は絵のマニアである。だから網羅的かつ渉猟的にみまくるのだけれども、似た様なパターンはみあきてるから、自分しか新しい感覚刺激をつくりだせないところまで行き着いているのである。
 恐らく人類史の中には、未来は勿論もっと色んなの生まれるでしょうが、過去の中には、僕と全く同じ感じのひとはそうあんまりいなかった。けど似た様な人たちは、美術史に刻まれている。特にモダニスト。未視感の探求。前衛自体、近代主義の派生物かもしれないけど、実際、動機が食いたいとかではない。

 じゃあ、僕と同じだけ絵画マニアになりたい人とかいないかもしれん。どうも一般人の話をきいたらみんな絵なんて興味ないみたいだった。これは僕には珍奇な話だったから、最近買った画集も自分はとっても面白いのに、親はろくにみようともしない。視覚刺激を僕ほど欲してないのである。最初から違う。
 あなたは知らない絵はないんですか? あるでしょう。けどね、パターン認知みたいなのがあるの。様式として絵にはあるパターンの幅があって、その枠の中にいるとわかるんですね。これは何なに様式ねと。漫画とかもほぼ線描・色面といった省略様式の展開だし。
 前衛は独創表現の熱狂者ということだ。
 そう考えると、絵をうまくさせたいとか、なりたいとか、全く意味なしてないんですよ。あと子供を芸術家にしたいとか、まあいないでしょうけど、いたとしても意味ない。あと前衛の人にアカデミック後衛教育(いわゆる芸大美大ね)与えるのも意味ない。だって伝統芸能おしえてるんだから、履修って。

 あなたは最前衛にうまれついたかそう育ったタイプではない。だとしたら私がなに言ってるかわからないかもしれませんが、要するにこっちからみると、一目瞭然。
 独創ってまねられないんですよ。だって過去の様式を逸脱するゲームなんだから。サッカーも技あるでしょ、フェイントとか。その外しなの。
 カントも『判断力批判』でいっているが、芸術は教育できない。美術史とかなら教えられるでしょうけどね、飽くまで知識だから。独創は、うえにかいたよう性格なんだよね。子供の頃からもう違う。こいつは新しいアイデア出すのやたら好きなんだなってやつが成長すると前衛芸術家になるんだよ。まさに僕。
 僕は、このツイッターアカウントみてたらわかるかもしれないけど、24時間なんか考えていて、しかもそれらは次々いれかわってるんだよね。しかも泉みたいに尽きない。それだけでなくいきなり全く違う分野に入って別のアイデアに飛び火したり、急にもどったりする。
 それって性格で、教育じゃない。
 最近、シュンペーターがイノベーション理論だしてから、商人がアーティストぶりだしましたよね。でもこっちからみると、飽くまで商売人じゃねえかとしかみえない。だってやってることがファインアート(立派な芸術、純粋美術)じゃないからね。商品を新しくしてるだけでしょうと。ジョブスがだけど。

 立派な芸術からみると、革新って売れた~とかではないんですね。当たり前といえばあたりまえですが、売れても雑魚だなってのがある。飽くまで独創性が大向こうをうならせる重要な判断基準になるんだけども、そこにはきちんと正格に即した判定ルールがある。論理的に説明できる。かつルール破りがある。
 美術の前衛は、ルールを破る道場破りゲーみたいなもんで、そりゃ独創だからそうなんですが、先ずルールを全て把握しないと、適当に道場破りしてるとマンネリにおちいるだけで連続で道場破り続けるなんてできないし、下手すると一度もルール破れてなかったとなる。車輪の最発明で。厳格な勝負がある。
 例えば、建築でいうせじまさんとか、絵でいうハーストとかがこの水準に到達している。かれらは上述の意味での独創をきちんとやって道場破り続けてきている。まあ特にハーストの道場破りかたがいい破りかたかといえばそうではないけども、なぜなら悪趣味だったりショボ破りだったりだが、前衛ではある。
 ですから、前衛なんて偶然、そううまれついたやつが勝手に前へまえへ出て行くだけのことで、サッカー少年団と一緒だ。僕とあのナントカ君がいなかったら、みんなボールもった瞬間、全力ダッシュでゴール前まで攻めあがったりしていない。適当に中ごろでグチャグチャ蹴りあっていた。そういうことだ。

 上に書いたところで一番重要だといえるのは、一般人は芸大が前衛だと思ってんだろうけどあれは中後衛です。だって他人から承認うけないと入れないし、内部でも評価されてしまうんだもの。
 前衛って評価を受けつけないものですから。同時代の人達に理解されてるとしたらそれは中衛より遅れてるわけ。
 芸大教授になるのは、十中八九、食えない作家モドキです。一流以上の人たちは基本的にならない。だって自分の仕事で忙しいんだもの。子供とか生徒とか教えてられないでしょ。工房てつだわせてるならまだわかるけど、その場合は給料あげてるでしょ儲かってんだから。
 教授で偉そうに雑魚が教えてる。
 だから基本的に、中後衛の人しか芸大美大には教授としていないのね。前衛はそもそも同時代から無視されてるからね、新しすぎて誰からも理解されずに。
 で、中後衛、特に後衛の世界は、人気さえ無用で箔づけマウントの権威ゲームなので、ますます芸大教授とか文化庁的なのと縁が近くなるの。同類で。
 そういう構造が背景にあるから、一流以上の人が芸大美大にはいないので、そこで前衛は足踏みさせられるだけで中後衛のための組織なんだよね。特に後衛には都合がいい。教授との人間関係ゲーで、箔づけのコツをまねれるから。いわゆるコネだ。後衛社会はそのコネによる賞歴が飯の種でステータスだから。
 前衛の人が大学にいることもまれにはある。バウハウスとか、ミースがいた頃のイリノイ工科大学みたいな感じ。でもそれって例外中の例外で、天才は前衛として山篭りしてたり、既に食えてるわけだからわざわざ拘束される教授なんてやりたくないでしょう。せじまさんは後進の為の思いやりなんでしょうが。