2019年6月15日

啓蒙の不可能さ

啓蒙の不可能さはニック・ランドによる『暗黒啓蒙』という名のブログ記事に由来した当の新語の中にも、部分的に含まれる要素だ。だがそこでいわれるのは啓蒙自体が自由至上主義と違和するという、個人の知性への放任的態度であり、私の見る啓蒙の根本的不可能さとは部分的に重なりつつ全く同じ洞察ではない。

 啓蒙は実際には或る新たな思想への洗脳的態度である。これを一般に教育(英語でいうeducation)と呼んでいる。今日の教育は啓蒙主義の高踏的態度を前提に、或る知識をおしつける。だが生徒は無知の侭に留まりたいかもしれないし、そもそもこの有知の立場が多少あれ間違っていることが殆どである。つまり啓蒙主義とは中世フランスで新興市民が旧体制を知識面で圧倒する準備づけではあったが、それを超え教育として一般化されると大いに矛盾を含んだ作為である。
 さらに知のしくみを分析すると、或る有知は自らの分かる範囲でしかそうと認められない。つまり或る人の既成知識との類比でのみ、ある知識が正しいと判定される。だから自らの知識がいかに膨大で精確でも、そこから遠い有知さは、一般に正誤を判定できない。啓蒙とはいいかえれば小さな枠の中から別の枠の小ささを指摘する様なもので、元々この作為は知識という枠がもっている有限さを解消できない。啓蒙にはこの意味で、自分と違う知識体系をもつ人を自らのそれに近づける効果しか期待できない。

 以上の観点から、暗黒啓蒙の語が含む、曖昧な自由至上主義らしさはその本質に、
1.教育の洗脳性
2.啓蒙は自分と似た考えを伝えるだけ
という2つの論点を含んでいる。
 対して私のいう啓蒙の不可能さは、倫理学説(通俗的にいう「べき論」)の立場から幾つかの興味深い論点をもたらす。そのうち一つは自由との関係、もう一つは公教育の功罪である。さらに科学教育を行う正当性も疑義され、フランシス・フクヤマ流の自由民主主義イデオロギーの勝利宣言も否定される。もっと根本的には、脳が認知する賢愚はただの偏見の一つと分かるので、知的障害など精神障害の分類は単なる社会的差別と論証される。宗教戦争や、リチャード・ドーキンスの様な無神論者の遅れてきた啓蒙主義も、単なる一つの偏見を他におしつけたがっている認知的錯誤からきた、啓蒙の不可能さに悟らない態度である。この地平では科学主義も資本主義も各々一つの宗教に過ぎないし、当然それらを他人にしつけるべき根拠はない。