2017年6月2日

現世人について

現世人がどれ程愚かでも、彼らの愚かさを証左するには時間も手間も十分でないから、俗人らと関わるのを避ける事が今昔の賢者の処世術だったろう。この悲惨な現世というものの構図は、一体いつの世でも同然だったので、君子が貴族主義をもつのは理の当然である。やがて封権制が衰え民主化の趨勢になってなお、衆愚の悪疫は更に燃え広がるばかりだったから、我々の中に脱階級の考えが芽生えていても結果はもっと悪い。
 斯くも悲惨な社会だから、当然、俗物の権威が最高の伸長をする。天皇家だの安倍家、麻生家、小泉家等の皇族縁戚者らの薩長藩閥寡頭政治が始まる。成金が更に上がろうと皇族に接近する。天皇は彼らを利用、乱用して差別的な格差を拡大する装置となり内心たみをみくだしつつ、表向き、偽善者の顔をする。増大する浮浪者らが関西だの東横だのに集まる。実に醜い衆愚が我が物顔で群れ、善意の人へ集団冤罪や匿名で差別、名誉毀損、脅迫、殺人予告を始める。
 要するに平成は地獄に過ぎなかったが、昭和もそうだったのだし過去いずれの時代も質こそ違えど地獄だったろう。地獄にうまれおちて嘆かぬとしたら、余程の無知か何らかの勘違いだろう。次世代も当然、地獄でしかない時代の狭間で絶望し、醜すぎる衆愚に犯罪被害に遭いながら、最悪の経験をし、そして悟る事になる。救いのない国家、日本での生の経験は絶え間ない不条理、不快、苦痛の増大に過ぎないのだと。
 唯一残されている現世の脱却方法が、無欲だとは。拝金、衆愚政治、天皇崇拝の俗物達、国家主義、民族主義、自称普通主義、自称愛国者達の愚かさにとってすれば、快楽追求としての俗人の現世が否定される結果となるので、必死になって解脱を蔑視する。だから日本では低俗で俗悪な人が悪徳の結晶を自慢し、破滅の宴を謳歌している。京都や東京ではこの種の俗物ごっこが真っ盛りで、目も当てられないほど卑しい。だが、私が少なくとも彼らの醜態から身を引き、下らない悪疫集団から離れている事ができた限り、現世のやり過ごし方としてある適応性をもっているのではないか。
 私は幾人かの俗物らが学問的な方法論という体裁で、当時の学会的なやり方を大上段にふりかざし恥もしない場面を目撃し、実際彼らの侮辱的表現にあったのは一度や二度ではなかった。だが彼らの精神構造は、勿論、スコラ学者の如く貧困な批判性しかない、前近代的で退化的な学会俗物でしかないのである。この種の俗物がはびこる科学界も又、際限ない迷妄と権威づけの政治遊びを繰り返す小型の猿山にすぎないのだから、いうまでもないことだが、当代の賢者が学会に属する事も絶対にありえない事である。それは立派な人格者が政治界に属し得ないのと同様、素晴らしい慈善家が商会に存在しえないのと同じである。
 我々は遥か未来に至っても同然の現世に育まれるものだと知り、冷徹に現代を見据える心的態度を身につける他ないのだが、その為に必要な手段は知恵でも知識でもなく、良識でしかない。全知が望めないとしても博学は可能だし、全徳が不可能として人徳は持ちうるのだから、この種の有限な才能が俄然無意味な訳ではない。万能人と専門家の差異はただ一歩であって、我々が俗悪な意図や堕落した自慢、高慢の為の満足をやめる事が第一である。俗人にかかづらうな、とは至言であり、我々は自らの良心を涵養する事を通し、野蛮な列島であれ、いや世界のどこにあっても勇気や正義、寛容や善意、そして慈悲といった正の心情を保ちうるであろう。おちぶれた人々はいざしらず、己一人覚めている事の意味は図り知れない。丁度、物語の中で主人公だけが理性を保ち、その他の人物らが俗悪な振るまいを続けていたとしても、現世という書物を読む者には彼、彼女の役柄は明らかである様に。