2016年3月25日

国家論

国境は商売の必然的結果にすぎない。性犯罪は犠牲者をふやしつづける。がり勉は愚か者の証拠。学歴自慢は、馬鹿の証明。脳の働きが悪い劣等感があったから、学歴を自慢したがる。生まれつき脳の働きがよいヒトにとって、知性はむしろ劣等感にすぎないだろう。何もしなくても最高の学力があるヒトは、不良にあこがれるだろう。
 違法を堂々とやっていると負債が一気にかえってくることになる。商売は戦争の原因だ。商売をやめろ。戦争や差別をなくしたければ商売をやめるしかない。商売は悪の根源だ。商売をしながら救われることはない。商売は国境と差別をもたらし、憎しみとねたみをもたらし、戦争を生む。戦争になってから商売を悔いても遅い。悪事をそれとわかってするな。商業地を去って暮らせ。商店は悪のすみかである。商売は、悪の火。悪の火をたやさずに、戦争をなくすことはできない。まず悪の火を吹き消せ。この世の悪を憎むなら、商売をするな。慈善のみによって暮らし、生きてしぬのだ。すべての人類が商売の悪に目覚めたとき、戦争はおわる。商売の悪を反省した人類の世界からは、戦争が消滅する。商売なしに暮らせない土地は悪い土地なのだ。悪事なしに暮らせない土地はやくざの仕切る土地である。商業地を去れ。慈善のみで生きられる土地を探して住め。商売なしに暮らせる土地は世界には無数にある。商業化した文明は滅亡する。時間の問題だ。あらゆる商業文明は滅亡し、跡形もない。栄華を極めた商業地は墓になった。かつての商業地に住んでいた民衆はこじきになり、離散したのだ。商業地に安住するな。金は紙くず。金を集めて安心するな。国家も政府も滅び行く、金もごみとなる。
 命にこだわるな。すべての命は失われる。生命体を愛惜する者は裏切られる。生命体は物質の形態に過ぎない。物質形態に価値付けするものは、無知である。知能の価値は明白ではない。
 資本主義も宗教だ。国は法によって統制される共同体であり、ろくでもない人間を統制するのが法律である。利他は協調的本能だ。利他性がなければ単細胞生物のままだったろう。他個体と協調しなければ、飛行機にものれず、宇宙船にものれない。関西人に多く見られる利己主義の正当化は、単に関西人が類人猿からさして進歩しなかった証明だ。人倫が劣った地域というだけだ。東京にせよ関西にせよ、商業地だから利己的な民俗である。人倫的に劣った地域の幸福も、また質が低いものにとどまるだろう。利己集団の中で暮らす人間は、安心して他者と付き合えない。返礼なしには何もしない。互恵的利他行動によって協調的になった社会的生物がいる、というだけの話だ。己の物資もほぼ他人から供給されている。自給自足できていない人間が利他行動を否定することはできない。都会人が利己的だからこそ、我々は金を払ってもらうことなしに協力しないだろう。東横や関西、名古屋にただ働きなどしない。相応の金を払ってもらえないと、利己主義者にただ乗りされるのが目に見えるからだ。利己主義の商人、利他主義の農民がいただけのことだ。東北に対して無償で奉仕したとしても、東京に対してはしないだろう。利己主義者はただ乗りしたがる卑怯者だからだ。関西では何でも金でしか買えないのだ。関西地方は利己主義者の集まりだからだろう。商業化とは利己主義者の集積である。だから関西も東京も商業地から脱却できないままだ。商業地が永遠に続いたためしなどない。奈良をみろ。かつての商業地がいまは最低のGDPだ。商業地は衰微していく。利己主義者だけを集めたら国は滅ぶのだ。共食いするからだ。今の東京は競争によって賃金を互いに削りあう。いずれ生活すらできなくなろう。商業地では、働くほど貧しくなるのだ。働き方がまちがっている。商業地で働くほど貧困になる。搾取の体系に自分から参加しているのだから。農地を自分で開発していればちがったろうに。生産者は栄え、消費者は衰微するのだ。搾取は犯罪だ。寄付は最高徳の1つといった。生産者は寄付をすることができる。努力によって農作物をつくれるのだから。利他的な個人は生産者である。自分で消費する以上を生産し、他人にわけあたえるのだから。自由競争市場において商人が最も貧しくなるだろう。実際、大都市圏にスラムがある。職人の職分は搾取にあらず。職分が違えば要される才能もちがう。農民にも才能がいるのだ。商人の世界は滅ぶ。かつての平城京をみろ。あとかたもないじゃないか。農地だけはいまだに残っている。取引は市場を移動させないとうまくいかない、行商のように。農民は土地を耕す、固定資産が残る。工業は技術を残す。商人は金しか残さない、そして金は天下の回り物だからおなじ富豪にとどまることはほとんどないのだ。芸術作品を買うことで何とか名誉を保った金持ちがいるくらいのもの。果たしてより富を得る社会が、生産地か消費地か。私は茨城が首都になると再三いってきた。何もあて推量ではないのだ。必然的に豊かになる産業構造があるのだ。消費地は移動するが、生産地は固定する。千年後、関西都市圏が残ってるとはおもえない。生産力が低いから。関東では北部が栄え南部は衰えているだろう。消費地に近い生産地のほうが有利だから首都圏から遠い関西圏には不利しかないのだ。平野の広さ、土地の安全性から関東北部が首都圏を形成しているだろう。大都市は滅びさる。人は集まりすぎてはいけないのである。平城も平安も過密によって綻びたに等しい。広い土地に無限の展開をできる都市のみが栄えつづけるだろう。
 僧侶においてのみ幸福がある。自由などえられはしないのだ。支配は民の犠牲なり。あまたの支配者どもがほろびさった。僧侶は良心の満足しかえられない。しかし良心の満足が最高の幸福なのである。聖職者にならえ。人は聖職者たるべきである。好きに生きることなどできない。他人の協力がなければ何事もなせないのだから。自分が得意なことで他人に奉仕することしかできない。得意分野が社会のためなのだ。我々は自由になどなりようがないのである。得意分野で人々に貢献し、その分に応じて、多少の金銭を得られるだけだ。多少の金銭があろうと、自由になどなれず、最高の権力を握っても、自由になどなりきれない。金銭が多いほど拘束もふえてくるのだ。自由などないし、幸福の正体ですらないのである。天皇が最高の力とかねをもっているが、なんら自由ではないように。人々を支配するほど、義務にしばられるのだ。人々の幸福とは、良心の満足の度合いにすぎない。聖職者がもっとも幸福なのである。
 説法は最高の慈善なり。