2015年10月23日

絵画論

絵画が無用と考えている人達にとって壁は物言わぬ板、あるいは長く見つめるには単調過ぎる石である。彼らには丁度監獄における人生と変わらない時間に見ている室内は視覚を楽しませることがないために、退屈である。これとは逆に広告美術でうめつくされている電車内の様に、何らかの伝達を目的にした視覚表現を、当の人達は意味をもつとみなす場合がある。
 ある種の名古屋人や愛知文化にとって後者は自明であり、前者は意識されていない。いわば絵画の実用性が商業に従属した場合しか認められていない。名古屋性にとって銭儲け主義という宗春以来の文化律がその視覚を非目的化している。この名古屋性、つまり視覚の非目的化はまた、漫画表現を主目とした東京乃至江戸文化にも猥褻を殊更好むという点でみられる傾向である。この二つの文化、愛知と東京の文化は下級商人あるいは労働階級の多さから、商業主義である。名古屋人は絵画鑑賞を楽しむより銭を儲ける事が人生であり、東京人は貧乏である自分達が富裕層に独占された女性と配偶する余地がない為に、代償としての猥褻物を求めている。
 偶像崇拝を否む人達にとって絵画における描写表現は禁忌である。他方、猥褻物への抵抗のある文化あるいは場では裸体表現が忌避されている。
 これらの絵画に対する制限的偏見をもつ人達は、その視覚を製錬させる為の条件が欠けている。