2023年1月25日

栄えある孤高

漱石が『文学論』で書いてた
天才は世間に害を受けやすいって
そりゃそうだよね
僕とかその種の典型例だよ
とにかく異常に繊細なんだから
多分あれだよギフテッドの
感覚的過度激動
かつ僕のは道徳感覚的なそれだから
内田樹が不正な事とか書いてると
心から腹立ってくるんだわな
理性で抑えても自動で

天才がいると認めない人
意味がわからない
いるに決まってるでしょ
誰でも天才みたいなもんだ
それに気づかないだけ
自分の特別さに気づいてないというのは
それ自体、勇者の資格がないって事だ
主人公パーティは基本
必ず特別な個性のやつでできている
その個性が卓越していれば
勇者一行の一員になる

僕の性格は
いわゆる勇者的なものなのだろう
だから正義感が傑出して強い
唯その事に気づいてはいるから
自分はそれを自己統御する方法を
自力で開発してきた
いわゆる光の力が強すぎ
ジェダイとして統御可能にしないと
恐らく時に暴走してしまうからだ
実際、統御できる様にはなっている
大人ですから

ピグにいた時
自分がフォースを解放した姿
その片鱗を見た事がある人はいる
自分は最低一週間全く寝ずに戦えた
あれが自分の勇者適性なので
ある種の戦地に置いたら極めて使える
だって戦闘本能が普通じゃないからだ
まぁ文人系なので
戦う主戦場が学術領域なだけだ
基本姿勢は闇の力の殲滅に違いない

多分、関東で武士だった人
その中には僕みたいな人がいた筈だ
本気出した時戦闘に向いている
自分もどうもそうらしかった
但しそれは肉体というより
精神での戦闘に
関東男児というのか東男というのか
我々の遺伝的特徴なのか
文化的特徴なのかどちらもか
とにかく戦に向いている
じゃあ悪を倒すべきだ

見たか? 内田樹の記述を
さっき出した
水戸学的単純主義とか言って
要は善悪二元論を否定したいんだろう
敵を殲滅する様な戦闘力を
野蛮視して全体主義と誤認させ
我々の光の力をそぎたいのに違いない
だが我々は高度な哲学を好むよう
高文化側に洗練された文明だ
内田の手の内なんてすぐ透視できる

関西なり西日本なり
ああいう言説をしがちな奴らが多い
要は陰湿で利己的、相対主義で
自分の外の文化を卑しめ
代わりに関西中心主義を唱えたい
反道徳的、差別論者共だ
「近畿」「上方」「京都」
朝鮮語で国の意味の「奈良」
山ほど証拠がある
関西は凡そ歴史的に自民族中心主義で
常に闇側にすぎない

なぜ関西が闇側にすぎないか
それは普遍的道徳性を持たず
自民族優越論に耽る
神道の起源で、信者の巣窟からだ
神道信者のはず内田が混乱しているのは
尊王論の水戸学自体が理解できない程
知力や漢文読解力が低い事もあるが
自分が属する文化の外にある
未知の高文化が怖いのである
西日本でよくみる

内田樹に限らず複数みた
西日本殊に関西は一般に
単に共感知能の低さとうぬぼれから
十分な多文化理解ができず
自文化が世界の中心
かつ高度なものだと思いあがりたい
中華思想と相性が良かったのは当然だ
神道は嘗て特定関西人の祖先崇拝だった
今は特定東京人優越教なので
関西は虚栄心が満たせない

東京人崇拝教になった神道と
関西の自民族優越論は矛盾する
でやむを得ず
水戸学尊王論を犠牲にしたてあげようとした
卑劣な考えだが
いかにも内田樹級の悪知恵がやりそうな事だ
だからいうのだ神戸も闇側だと
春樹による性道徳の乱れだらけの三文売文を
訳知り面の内田は手放しでべた褒めしてきた

関西地方なり西日本なりの思想的特徴は
彼らが主情主義的観念論殊に反道徳説を
主意・主知主義に優越する癖だ
これは性の悪さの証拠でしかない
吉田松陰を先生視する山口
本居宣長を碩学扱いな三重
紫式部を大作家扱いな京都
数え上げればキリがない
要はモラルに欠け
利己的感情論をこの上なく好む

闇側でしかありえない西日本
それは彼らを駆動するのが
主情主義的な反道徳説だからだ
「物の哀れ論」が典型例
吉田松陰の無政府侵略恐怖主義も
一体どこに褒める所があるのか謎
だが山口県中で先生先生とほざき
アジア荒らしの悪魔崇拝に耽り続ける
民度が低い国柄といえばそれまでだが
同情もできぬ

西日本は仲間ではない
もし仲間だとすれば悪友だ
悪友とは即縁を切れ
仲間だと思われれば損害のみ
茨城は自分以上に優れた国とのみ
友情を築きつきあっていくべきだ
栄えある孤高を選んだ国々も
我々と似た洞察を持っていた筈だ
会沢安の一国平和論は
常陸国の領域なら成立した
西日本の外道が暴れた