2021年2月3日

ソドム・ゴモラから逃れたロトの様に、上智と下愚は異なる集団に分かれていく

自分より愚かな人達を無理により賢い次元に引き上げようとするのは、基本的に無駄な事だ。学習で補える範囲は限られており、人の賢愚は生まれつき、大層な差を伴ってあるからだ。

 説教がなんら効果を持たないのは相手が愚かな場面で、その相手はしばしば強制力によってしか改善されない。刑務所があるのは忠告だけでは行状が改められない人達が一定数いる証だろう。
 そしてもっと悪いのは、愚かな集団にまぎれていると、その種の強制力で一括して扱われがちなので、賢者もまたがさつな暴政の被害に遭うという事である。

 相対的に徳政、仁政、善政が行われうるのは当然ながら賢明な集団の間で、その人々は移民が多数である場合を除けば、往々にして生まれ育ちの経緯から質が異なる。よい国、よい自治体、よい集団で生まれ育たないかぎり、人は決してよい政治を享受できない。
 衆愚の間で善政を行おうにも、彼らの選ぶのは悪質な僭主だろうし、その統治自体が破滅的で、公害や悪徳の礼賛に過ぎないだろう。

 たとえどれほど優れた人々の集まった自治体があっても、そこに愚か者が侵入する割合が高まれば、それだけ落ちぶれてしまう。こうしてこの世で賢明でありうるのは堕落し続ける衆愚との際限ない格闘ではなく、賢明な集団の一員たりえる進路を選ぶ事の方である。