2020年12月19日

なぜ日本では聖徳太子による和の独自定義が天皇制結束主義につながって、現役で邪悪な集団圧力として生き延びてきているか

日本人達の最悪の特徴は、全体結束主義性の中にある同調圧力を正当化する「和」の癖で、特にこの面を象徴化しているのが天皇の自己崇拝カルトである神道だ。
 奈良時代に奈良県で創始されたこの宗教は、天皇の独裁を確立する為に「和」を聖徳太子『十七条の憲法』以来、国是の如く流布してきた。本来『礼記』『論語』では「礼儀は和やかに行うのが要だ」と定義されているのだが、聖徳太子は「喧嘩せず、議論の際も大人しく、天皇を頂点にする上官に逆らうな」と人々の対立関係を官僚が抑圧する目的に使った。こうして日本人民衆は、中古代の奈良人を中心に、神道化によって和に洗脳され、対話術的なあらゆる対立を拒絶する様になっていった。その最終形態が甚大な悲惨を国内外にもたらした、明治政府の天皇制結束主義だったのである。

 現時点でも、日本人民衆はこの天皇制結束主義や、その流布の為の和をほぼ全員が絶対的で議論の余地がない自明の社会秩序原理の如く狂信しており、そこでは福沢諭吉が『文明論之概略』5章で「無議の習慣」と指摘した様、議論の習慣が基本的に一切みられない。それで日本人民衆は一定より対立関係が際立った議論を見ると喧嘩だと勘違いし、なぜか止めに入ったり、謎の正義面で強引に妨害したり、怒りながらいきり立って議論の中でより目立つ側へなるだけ集団で濡れぎぬを着せ必死で潰そうとしたりする。最悪のとき、集団権力を使って議論している人々を暴力的に抹殺してしまう。これら彼らの不可思議な行動に現れている内部原理が「集団圧力」と呼ばれる働きで、日本人民衆の間ではいつでもどこでも、この原理が全てに優越しているといっても過言ではない。
 その様な社会は恐らく全人類の間でも、最も個性に対し抑圧的で、その面では世界最悪のものだろう。そこでは多様性、多文化性は全否定され、とかく彼らが普通とみなす最も平均的な愚かさに正当性が与えられる。そしてこの平均が、世界からみれば完全に的外れな事が殆どなのは、日本人民衆の個性が他国の集団に比べ、孤立した列島で隔離されているがゆえ奇形的なほど違っているからだ。日本人民衆の視野は通常、絶えず自分達自身とその評価に注がれ、彼らの保守性は猛烈な自己愛の中にあって、他集団を参照など先ずしない。何か外部から指摘されても逆上し、却って反抗する民衆も多く、島国根性の負の面がはっきり現れているのが、この集団圧力の本質だ。