2020年12月20日

学術自体は読解難易度ではなく質が基準

みるからに一般知能が低そうな人は、よく、自分を分かってくれる人を賢いとみたがるが為に、相手が詐欺的手法で自分の知的程度に合わせた言動をしてくると喜んでお墨付きを与えてしまいがちである。
 彼らがある種の反知性主義的扇動政治屋に大いに心酔するのはこの為で、彼らの態度が分かり易く庶民的である所だけで全幅の信頼を寄せてしまうのだ。政治屋でなくとも俗受けが得意な扇動屋の類にも容易に心服し帰依してしまうのも、全く同じ心理作用である。

 そして彼らと全く対極にある、純粋に知性主義的な言説をとる人、決して一般人に分かり易い言説をしたとはいえない学者らしい学者を、現実で低一般知能の人々はある種の合理化の為に腐す傾向にある。「学者」「知識人」を現実を知らない机上の空論を操る者、といった軽蔑的文脈に置き扇動政治屋の間接擁護を図るソフィストじみた人は、どの時代にも潜在的にいるのだが、そういう人々の期待を一身に受けたのが、演説の名手だったヒトラーその人であるのを世界史は忘れるべきではないだろう。ナチス政権当時のドイツ人はその殆どが、現に、そのヒトラーが説得力を与えた状況打開論風の反セム主義に心酔し、人種差別を含む政治を多かれ少なかれ公的に容認していたのだ。
 我々の知的社会が大衆迎合とかかわらずに存続すれば、ある国の中の知識・道徳、趣味(鑑賞力)の次元が、大衆の最も質の低い者へ最適化する、下へ向けての競争に陥る事はない筈だ。純粋な学術的言説について必ずしも、通俗科学の様に噛み砕いて語る必要がないのはこの為である。その言説の質そのものが高ければわざわざ難渋にすべきでもないが、だからといって、分かり易さが全てに優越し質を下げるよりは、少々難読でも十分に立派な内容である方が学術自体としては優れているのだから。