2020年11月20日

サンドラ・ヘフェリン氏は嘗てドイツ人がローマ帝国やドイツ帝国でやってきた公私混同での皇族没落および帝政破壊を、現日本でも公然と内政干渉しつつ現役続行中な件

今のドイツ人の母体ことゲルマン民族は、アフリカから出て西洋の辺境に出自を持ち、帝政ローマに傭兵として侵入してローマ帝国を亡ぼし、プロイセンを経てドイツ皇帝をも革命で亡ぼし、ヒトラーをドイツ人自身の選挙で選出しユダヤ民族を虐殺、周辺国を侵略中に日帝と組んだ事があった。そしてその末裔が、戦後の日本へやってきて、公然と皇室の婚姻に干渉する。
 サンドラ・ヘフェリン氏曰く、眞子内親王殿下の婚姻は個人の意志なので自由であって当然で、その婚約相手がいかなる問題を抱えている場合でも、反対派の国民は全て精神的虐待者である
、という。
 もし彼女の言う通りなら、象徴を兼ねた天皇およびその親族たる皇族のみが自由を享受し、その責任もしくは義務は国民に対して存在しない事になるだろう。小室圭氏および彼の親族の道徳的資質はさておき「国民が皇族の婚姻に反対する権利がない」とは聞いた事がない説で、これをサンドラ説とここでは呼ぶ。

 成程もしサンドラ説が正しい見解であれば、日帝時代と同様、皇室がいかなる行為をしていてもそれに、国政や公共の福祉の観点から何らかの指摘をするのは嘗ての不敬罪の類であり、不当な事とされるであろう。
 しかし現憲法下の主権者は日本国民であり、天皇の地位は国民の総意に基づいている。即ち国民の総意が得られなくなれば天皇およびその親族たる皇族の地位は存在しなくなる。そしてここで皇室の婚姻に関し、一般の日本国民らが喧しく批評しているのは、現行の皇位継承順で行けば将来の天皇の姉・義兄夫妻となる者としての、眞子内親王殿下と小室圭氏の公的な資質なのである。その為、「皇籍離脱後に婚姻すればいいのではないか?」とする意見が、頻繁に見られる。皇室典範に定める通り、それは特別な事情があればできるからだし、今回の婚姻は、小室家の借金問題その他の公的資質が、飽くまで日本国の象徴たる天皇家の親族として、秋篠宮文仁親王殿下が始めにそう評したごとく、公に納采の儀を行い、結婚を行うにあたってふさわしくないと経済観念もしくは義理に関する私徳に覚えのある一般国民の相当数に考えられている為、私人としてならまだしも、公人の一種であって王家として長い歴史を有する皇族としては、後の象徴政に禍をなすとか、民の模範にならないのではないか? と疑義されるわけだ。いいかえれば、借金を公然と踏み倒したり、親族に道徳的もしくは人格的問題があまたみいだされようとも、日本国の象徴として何の問題もない、といえるのであれば、サンドラ説が内政干渉を含む公私混同論であろうとも、誰も疑義を呈せないといえるであろう。
 結局、ドイツ人は嘗てドイツ帝政末期でその様な公私混同を皇族に続けさせた結果として、皇位を自ら亡ぼしたのだし、そのドイツ革命の余波もあって強烈なカリスマを持つ独裁者ヒトラーに民衆への求心力が集まっていき、遂には世界史上でも類例をみないほど苛烈で残虐なホロコーストその他の人道に対する蛮行を、ドイツ民族全体の罪として犯したのではなかったか? そしてそれらのドイツでの帝政廃止後の経緯が民族の栄光などでは到底ありえないだろうし、無論、結果からみれば今も立憲君主制を求めているホーエンツォレルン家への歴々たる精神的虐待およびう、ユダヤ人への民族差別を伴う悪徳の結果だったのであり、いわば公の立場にある者へ今のサンドラ氏と変わらず公私混同を当然視した結果、国全体の倫理水準を、民衆の中の最低次元の者以下にまで崩壊させたのだといって間違いないであろう。一体、サンドラ氏を除き、全世界のどこに、公人と私人に或る特別な場面で、同じ処世が正しいと考える者がいるだろう? 貴族義務はサンドラ氏の中ではわずかなりとも自覚されていないといっていい。そしてそれは公共の義務を主とする政治に関する無知で、ある種の野蛮さの証拠でもある。
 ドイツ人なるものはローマ帝国へも同様の手口で、傭兵ことお雇い外国人という勝手口から侵入し、やがて公然と堂々と玄関から出入りしはじめ、遂には国を亡ぼす倫理崩壊を巻き起こしてしまった前歴があるではないか? 無論そこにサンドラ氏が歴史的反省に基づく良心の呵責など感じていないであろう。さもなければ現時点でも、わが国で同様の悪魔的所業を、堂々と東京都で国政の秩序を壊乱する不良雑誌社から金をもらいながらできる筈がないではないか。

 あまつさえサンドラ氏はつい最近、三浦春馬氏の自殺時、ご遺族ご両親へあられもないぬれぎぬを着せ、途上国民扱いで辱めていた前科がある。現行法で第三者は彼女を訴える事ができないし、状況的に傷心の遺族は、公然とソーシャルメディア上で精神的虐待を図るサンドラ氏を相手に、名誉毀損罪の訴訟を起こせなかった。そこで私には自らツイッターやブログなどで注意・警告を含む啓蒙を図る以外に、なしうる遺族および故人の名誉の擁護方法はなかった。だが、サンドラ氏は今もなおその時の所業、まさに彼女の言う精神的虐待の加害行為に、何の謝罪も賠償もせず、むしろ開き直って自らのありもしない正当性を主張しながら、公に逃げおおせているのだ。
 もし私事に干渉すべきでないというのなら、家庭内の事情でしかない上に外部には到底うかがい知れない、三浦家とそこに属した春馬氏間での金銭のやりとりこそがそれであり、憲法上国庫に全てが帰属する皇家の資産に関わる問題ではありえない。

 ドイツの今後の政治がどう展開するかはドイツ人が決める事である。だが日本の政治が、皇室を含め営々と営まれてきたのは、飽くまでドイツ国民の為ではなかった。それは日本国民自身の人倫の為、文明の良識の為である。ドイツの信じる良識と、日本の信じる良識が異なる場合、両者の政治は異なる側面を伴うだろう。
 ドイツ国民の一人たるサンドラ氏にとって、眞子内親王殿下と小室圭氏の婚姻は、飽くまで私的自由の範囲にあり、それが日本国の将来にいかなる影響を伴おうと、現ドイツ連邦共和国とその後釜にことさら利害など今分かっている限りないだろう。だがサンドラ氏の蛮行を目の前で目撃した私は、わが国の皇室が公の意義のゆえに千年以上維持されてきた威儀のみならず、わが国民の道徳的尊厳も彼女が大っぴらに金儲けの為に辱めているのは明らかだと感じた。なにしろ当のサンドラ氏の祖国ドイツでは、ヒトラー自殺後にも東西ドイツ混乱期を経て今のメルケル首相の代に至るまで、皇室を守護するべく忠臣が身を挺してきた歴史やその忠義の節など、尊王論や皇国史観の脈々たる国学的系譜はいうまでもなく、どこにもないからだ。国柄が斯くも違う国々の間で、公徳に関する議論の際に、高々私人の個人的自由と、憲法の冒頭でそう記述されているのみならず、日本国民全般の意識の中で国の象徴とされるべき一族の婚姻に、軽々しく口差し挟むなど論外の下卑た行いというべきで、この日本国民全般および私を優に超えた象徴の議論への実質的な内政干渉にまつわる全責任の当事者はサンドラ氏のみに帰属するとはいえ、一意に愛国者連から度し難い義憤を招くとて自業自得というべきであろう。たとえドイツ連邦共和国全体がいかなる末路を経ようと、その一員による公私混同、内政干渉そして詭弁を弄しての人倫的秩序への嫌がらせは、未来永劫ぬぐいされないツミ・けがれでもあり、いづれにしても嘗ての攘夷論者がいかに、わが国統を心から憂い、蛮夷に侵されぬべく理論的防衛線を張ったか、これで現代人にも完璧に分かろうというものだ。あるドイツ人にとって借金の踏み倒しなどなんの事はなく、飽くまで私事で、そうした親戚をもつ天皇にもなんの恥も罪も、良心の呵責も感じない。そんなサンドラ氏の比較文化論ぶったドイツ中心主義的な日本蔑視論のなすがままになれば、早晩、小室圭氏を義兄とした悠仁天皇の下、場合によっては女性天皇・女系天皇まで容認する未知の時代に突入する事と相成り、その際、小室圭氏の国政に対する態度如何では日本国全体に倫理崩壊があったとて、いかにもな末路といえまいか?

 国全体の人倫に関わる公的秩序を単なる私的恋愛関係と混同しなんの矛盾も覚えないサンドラ氏。あるいはスガ内閣の下で、GHQが国力削減の為に解体したはずの財閥を国社政策式に復活させようとばかり、自らが投資でき自分の金の上積みになる上場大企業へと、日本企業の9割にあたる未上場含む中小企業の資産を収斂させるべく、首相権力の側近の座から、国内自由市場の壊乱を企てるイギリス系のアトキンソン氏。
 これらの勢力は、お雇い外国人のうち特に欧州からやってきた存在の一部が、倫理的に劣悪な人々を大いに含んでおり、しかも当人達は二度の大戦を経て、旧連合国の勝利を権勢の担保にしつつ自己中心的かつ傲慢なままであり、日本国の人倫破壊を大上段にあるいは草の根で行ってなんの罪悪感も覚えていない証拠だ。
 日本の司法制度になんの問題もないとはいえないにしても、その公的政府の追及をまんまと免れたに等しいフランス・レバノン系ゴーン氏もそうかもしれない。彼らは白昼堂々と対日本人に内政干渉を演じ、或いは欧米系外国人の国際政治バランス上の立場を笠に着て、脱亜入欧を旗印とした幕末・明治の薩長思想が一般日本人の間でいまだに残存しているをいい事に、日本の公事を陰に陽に小馬鹿にしているのである。そうされるだけの理由は彼らが寄生先に狙い撃ちしている東京人衆愚一般の低知性加減、不勉強加減、道徳的堕落加減にもあるにしても、彼らより遥かに高い文明性や学術水準に到達済みで、優れた倫理規範を持つ士人の目には、たとえまだにわかに騒ぎ出している段階だとしても、多文化主義への疑義として予てから危惧されてきている悪徳移民の一部として、わが国獅子身中の虫に違いない。

 サンドラ説なるものは、国政の儀について礼を弁えない日本人以外の口に唱えられているばかりか、皇室なるものの公的意義を弁えない愚の骨頂説であって、なおかつわが国の平均道徳律への蛮族風の我執による無礼千万な侮辱なのは論を待たない。
 この説をわかりやすくいえば、
「借金など踏み倒してやればいいだろう。相手がたとえ皇女であれ、米国へ留学支援する金を、税からだろうと私的ポケットだからだろうと婚約者へくれてやればいいだろう。そしてそれら家計上の問題は、単に私的な係争にすぎないのであって、日本国民全体から徴収している税の支出先としてもなんの問題もなければ、皇統の汚点となるにも到底あてはまらない。ドイツやイギリスやフランスで現にそうであるごとく、皇族やら王室なんて時代遅れの産物は、倫理崩壊で愚図愚図になればいいだろう」
「日本人なるものがわがサンドラ説の必然的帰結として、国民一般より遥かモラルに欠きはじめたゆとり皇室の廃止で、天皇渡来以前の共和政へ返り着いた果てに、ヒトラーなりメルケルなりを選出し仰ぐなり勝手にすればいいだろう。私は責任を取らない。なぜならただの一人の外国人だからだ」
その様な投げやりでわが国全世代へ無責任な言動を上から目線で語り、煽り記事で金を儲け恥じないのは、サンドラ氏個人がさも専門としている風の、日本文化なるものの本質への理解が、露ほどもない証拠だといって間違いない。なぜなら日本人全般が憂いているのは小室圭氏およびその母君・佳代氏を中心とした神奈川県横浜市の一般日本国民に於ける、公的・私的道徳性の欠如では実際のところ全くないのだ――なにせ借金をした事があってその債務に関するトラブルを抱えた事もある人々は、そう沢山ではないかもしれないにしても、探せば国内でも相当数いるのだし、誰も彼ら個人の倫理問題自体をここで懸案とはしていない。疑義の対象はなにより千年以上、世界最長の期間に亘ってあまたの公人が命がけで守護してきた、わが国の皇統にさしさわりのある道徳的威厳なのである。何百万人もの日本人が進んで皇国の名の下に戦い、今も彼らが靖国に永眠する事になった前大戦は、欧米列強の植民地侵略およびそれに伴う人種差別という悪業に唯々諾々と従うのを潔しとしなかったわが日本国の忠義な国柄を示している。その捨て身の大業を駆動した侍魂を倫理的紐帯として心の底に、あるいは歴史的記憶として、各自がいかに生きるべきか司る自律規範の中に残存させているこの国にあって、いざとなって私を公に優越させるというまことに浅ましい考えは、飽くまで民衆の中の最も卑しい者にしか可能な話ではない。

 試しに一般の日本人に向かって、皇室に関する軽口を叩いてみるがいい。
「眞子さまの結婚は彼女の勝手ですよね!」
などと、プレジデント社という不躾極まりない拝金雑誌社以外の、あるいは退廃しきったエゴイストの集まりである東京都の、その外で生きている、一般の日本人に向かって言ってみるがいい。
 自分勝手な個人主義が前提で、決して正しいとは限らない便宜的な集団意思決定方法にすぎない多数決による民主主義にかぶれたドイツ人は、よもや忠誠など中世の古い考えとしてとうにまるごと捨て去ってしまったかもしれないが、その凡庸な田舎あるいは地方都市で暮らす、それゆえ大都会の俗に染まりきっていないわが国の殆どの一般的良識を代表する一日本人は、サンドラ氏のどこかに人格的問題を感じるか、外国人だから何も分かっていない単純思考なのだろうと暗に憐れむか、さもなければ義憤を感じ、いづれにせよサンドラ氏が軽蔑される事になるであろう。眞子内親王殿下も無論あてはまるが、これを日本語ではしばしば「お転婆」ともいい、決して良好な道徳的資質に当てはまる語彙ではない。それもフェミニストこと、女性優越主義者には政治的もしくは性差論的な容認の範囲内だろうか?――さも己の政略婚で国政の方針を二度も誤り、亡国の因をもたらしたエジプトの女王クレオパトラ7世、私の家政を国政の利害全体に多かれ少なかれ優先させた結果、あるいはそれに伴って近代化に際しての舵取りを根本的に誤って、清や李氏朝鮮の歴史を終わらせた西太后や閔妃の様に?
 サンドラ氏による、日本国の象徴に関わる日本人全体への論理的に自家撞着を起こしている精神的虐待は、今後の展開をよく見ていれば彼女自身が、皇統の永世に渡る尊厳をなんら理解していない事、飽くまで外国人の身でありながらわが国国体の根幹に関わる議論に口を出した軽薄さに、必然の因果応報を示すだけであろう。