2020年10月2日

なぜこの世には「夜の街」があるか、或いは業に応じた勧懲論

僕はずっと「夜の街」なるものの存在意義が分からなかった。そもそも性売買に関しては日本では違法で、そんなのを放置してるのが明らかだったら新宿文化というのも、単に自堕落で退廃的なだけに見えた。

 しかし先日次の様な事があった。
 ある奈良女が自殺志願をSNS上で公言していた。僕はそれを眺めてこの人を放置したらいけないんじゃないかと良識で考え、精神的な支援――要はネット上で相談相手をしだした。だが徐々にその女は本性を現し、最終的に僕に濡れ衣を着せだしたので、僕は呆れてしまった。

 その奈良女はこういった。
「自分が被害だと感じればどんなことでもセクハラだ」
その奈良女は半狂乱状態で、僕の言葉尻を捉え、やたらめったら誹謗してきた。そもそも相手は僕と語彙力や国語力が全く違い、文意文脈を読み取れていたとは思えない。ひたすらわけのわからない悪意で濡れ衣を着せてくる。

 つまり「悪意のある人間」というのがこの世にはいて、そういう人は他人に濡れ衣を着せてなんとも感じない。
 そう考えると、そもそも自殺志願者が十分に愚かで性悪だった場合、医療関係者以外の一般人が助けようとするなんて、基本的に無理な話なのだ。濡れ衣着せてくる相手に関わったら負けなのだ。
 そしてこの「悪意のある人間」がいる、もしくはかなり多い社会では、そもそも一般的なコミュニケーションがなりたたないのではないだろうか? 例えばフェミニズムの理屈を悪用すれば、その奈良女と同様に、相手が意図していない事で、勝手に濡れ衣着せようとすれば無限にできる。無限に悪事できるのだ。

 つまりそう考えると、悪人が多すぎ一般的なやりとりが成立しないほど、「商売」としてそれをする人々が都会に多くなる理由が説明できる筈だ。なんでも濡れ衣できる条件下だと、金を取る目的で、便宜としてのみ他人とのやりとりを使えるわけだ。この種の演芸的世界が恐らく「夜の街」なのではないか?

 僕はその奈良女が、とんでもない性悪だとか全然知らなかった。親に過剰に教育されたからといって、自殺する事はないんじゃないかな、と素朴に感じていた。
 その奈良女は、単に性悪だから対人関係で生きづらいと当人が気づけていなかった。今後もできないだろう。それが本当の性悪というものだ。

 その奈良女は、自分に相談してくる途中で僕が絶えず制止するのに、それを振り切ってパパ活なるもの、要は昔でいう援助交際をやりだした。これで僕は吐き気がとまらなくなったり、その奈良女に酷く呆れた。この時点でもう見限ってよかったのだ。馬鹿は死ななきゃ直らない。だが自分は慈悲で見守っていた。

 その奈良女はコロコロいう事が変わるのでどれが真実か誰にもわからない。数日で全く別の事をいいだすし、全く反省もしない。記憶障害の診断もされていなそうだった。そういう恐ろしいほど低知能な人間がいるという事も、僕は全然しらなかった。その奈良女はガールズバーで働きたいだのともいっていた。
 結局、その奈良女は現時点で「夜の街」に生きている様な人々の一種だったのだ。僕はそういう人達が不潔に感じ生理的に苦手なので、そうとわかった時点でなるだけ距離を置いていた。だが一体どういう経過で性悪が進んであばずれ化していくか――しかも止められないかその全容をみると、必然だと感じる。

「夜の街」が存在するのは、ある種の安全網でもあるのだ。生まれつき愚かな人々は、対人関係もまともに作る事ままならない。知的障害まで行けばケアされるが、そのグレーゾーンに居る人々は放置されている。更に、愚か者は理非を分かてず、酷く悪い仲間に染まり易いので、性悪さがどんどんます。性悪仲間では、自他が悪意を持っている事が前提なので、金銭獲得を目的にしか他人と接せない。それで新宿の様な堕落した街ができる。そこにたかっている人達は、交際にあたってカネを払う――他人が常道的に裏切る事が前提だからである。性悪はどんどんその様な「夜の街」に、自らひきつけられていく。

 通常の交際――善意が前提――では、相手と何かをやりとりしていく中で、こちらにとって不快な部分が偶然出てくれば、それはちょっと、などと制止し、相手に悪意がなければ謝罪し、失礼しました、で二度と繰り返されず終わりである。相手と文化や語彙が違うほどそういう場面がふえる。僕には関西弁は不快だ。だからといって関西弁を全て嫌がらせだ! と僕が相手に濡れ衣を着せる事ができようか。「アホ」と軽く日常的にいいまくる関西人が幾ら不愉快だからといって、相手を思いやっていればこそ、悪意でやっているに違いない、もしくは不躾なゲスだと濡れ衣を着せは必ずしもしない。そうしたいのは山々だが。
 だがその奈良女は性悪なので、この文化的摩擦もしくは意図のすれ違いを濫用し放題だと考えていた。
 これが「夜の街」の人々の特徴だといっても間違っていないと思った。根が悪いから他人を悪意でしか見れない。その結果、交際にあたって他人を不快な目にあわせるのが前提の筈なので、金を取るのだ! 当人が性悪な上にその原因として、共感的な低知能だから、他人もやはり性悪に違いないと考える。結果、他人は常に自分を不快な目にあわせてくる筈だと考える。この傾向が激しくなると、他人をカネをとる為の手段としか考えなくなる。それで彼ら性悪は、同類たる「夜の街」の人々と接近していくのである。

 逆にいなかの人々はその田舎さが激しいほど、「夜の街」なるものと逆の傾向になる。つまり性善説が前提の世界になっていく。人は根っから良い意図で行動する事が前提なので、疑われないし、そもそも疑う事が悪い事だと考えられてもいる。僕はこちらの方が自分の性にあっている。都会人と違う生物なのだ。その奈良女とやりとりしても、殆ど摩擦しかしなかった。なぜならその奈良女はやることなすこと悪意、もしくは性悪的で、大阪だの神戸だので他人をほぼ例外なく中傷ばかりしているし、単に相手の愚痴を聴いているだけで僕も全く無関係なのにとばっちりばかり受けまくった。関西は性悪に最適化されている。

 京女の中に著しく性悪な人物が多くいるのは、「夜の街」的なもの、即ち芸妓的悪徳が伝染した為と考える。中世都市化が激しかったので初めからその種の職業的売春もしくは接待が行われており、そこでは人を人とも思わぬ悪意――人身売買業の間で狡猾にカネをまきあげる悪魔的酌婦が人気を博していたのだ。確かに僕は都心で育ったので、この性悪的なものと、元々田舎町で生まれたので性善的なものと、どちらも緻密に観察する機会に囲まれ続けた。
 結論としていえるのは、都会に誘引される人々は、生まれつき性悪なのである。そして生まれつき性悪な人々が、都会に適応的である。他人をカネで買う環境だ。「セクハラ冤罪」「痴漢冤罪」の様な実に悪質な犯罪が、公然と罷り通っているのが都会の特徴でもある。これらは性悪どもが、人権を悪意を持って濫用しているのだ。しかもその濫用の方がフェミニズムで合理化されてしまい、冤罪を冤罪とも思わず、都会人が冤罪被害者を袋叩きにする羅生門状態である。その奈良女は、僕のみていた限り、大阪の雑然とした悪環境、或いは神戸の俗物根性に染まって日々堕落していった。ある京都人とつきあいだしてからはますます生まれながらの性悪さに磨きがかかった。奈良県民は北側からその様な都会的な負の面に次々毒されていっているのだろう。朱に交われば赤くなる。
 僕はその奈良女の自堕落さが恐ろしかった。そして「夜の街」どころかその裏側みたいな世界に、やめておけと僕が何度忠告しても無視して、進んで「何事も経験だ」などと典型的愚者の言説をいいながら入り込んで行って、愉快がっていた。だが当然のよう修羅場トラブルに巻き込まれ発狂し相談してくるのだ。

 その奈良女ははじめ自殺願望を語っていたが、僕はキリスト的精神で救済しようと考えてしまった。この考えが間違いだったのが今になってはっきりと分かる。性悪は自分から「夜の街」を含む都会に染まってそこで自堕落なくらしをして、自死同然に消えていくものだったのだ。放置していればそうなった筈だ。
 心優しい人々は、愚者に同情しがちである。だが、その愚かさといえば、道徳面では悪さでもある。だから愚者を助けようと思えば、先ず相手の生まれながらの性格をよく見抜く必要があるだろう。性悪とみなせる人々を助ける事は、基本的にできない。その人達は進んで堕落し、無限に自滅への道を歩む。愚者の中でも、性善的資質をもった人がいる。我々が福祉あるいは聖徳の現場で救済すべきなのは、この資質の持ち主である。例えば『シンデレラ』の逸話がそれを意味している。幾ら貧しいからといって意地悪な娘達を王子が助けるべきだろうか。真に哀れなのは健気なシンデレラだけではないだろうか?

 根が悪い人達の相当部分は、刑務所に出入りを繰り返しているが、それというのも、彼らは悪い習慣が身に着いてしまっただけではなく、その悪徳へ向かう強い性質が脳に刻まれてしまっている。
 だが法に触れないぎりぎりで、悪業をくり返しているタイプがいる。この極悪人達には救済など必要ないのだ。今後、コロナ禍の中で自殺がふえると予想されている。心優しい人々は自殺志願者が目の前にいれば、誰でも助けてあげねばならない、と判断しがちだろう――自分もそうだった。だがこの判断は自己犠牲にしかならない。特に性悪、更に極悪人を助けてしまった暁には、自分も世の悪に加担する事になってしまう。その自殺志願者の事情を十分に調べ、相手の資質も精査した上で、善良の者に限っては深慮を期して助ける、という世知が必要だ。
 僕がその自堕落極まる性悪の奈良女から学んだのはそういう事だ。自業自得で自殺したがっている人というのは確かにいて、助けようがカンダタ式に逆恨みしてくること確かだ。カント定言命法によれば、善行は見返りを求めてすべきものではない。それとは別に、大所高所からの勧善懲悪として、極悪人や性悪の類にはどんな悲惨だろうと当人達の自業自得でしかない。その宿命の前で、一人徳者が悪人正機説で慈悲の手を差し伸べるべきではないのだ。善人を助け悪人は見捨てるべきだ。