2020年9月5日

吉田松陰は無政府侵略主義のテロリストにして正真正銘の極悪人

この世には絶対悪と呼べる様な人がいて、例えば吉田松陰がそれだろう。彼は侵略主義者として有名だが、『幽囚録』で北海道・北方領土・琉球(沖縄)含む周辺諸国への侵略を主張した。彼を唱道者とした薩長藩閥は明治以後に日帝を形成し、結局連合国に原爆で抑えつけられるまで、極東一帯を荒らした。
 だが山口県民の相当部分は、この絶対悪の人、極悪人たる吉田松陰を英雄として偶像化し、それだけでなく神社に祀り、神格化すらしている。しかも山口出身者である安倍晋三は、松陰がテロリスト養成機関にしていた松下村塾を世界遺産にしようと画策、日帝戦争犯罪の証拠として実際、軍艦島とも登録させた。これだけでなく、例えばツイッターにいる学者・芸術家の類でも茂木健一郎氏とか会田誠氏とかは松陰を、ほぼ肯定的文脈に置く場面が多い。
 なぜか? この論考ではこの理由について考えてみたい。なぜ一部の人達は絶対悪、或いは極悪人を美化してしまうのか。

 先ず松陰から考えるが、彼は欧米から日本が侵略されるのを憂慮していた点では、その先覚たる尊王攘夷論――中国春秋時代に周王室を守護し諸侯が団結し外敵侵略を防いだ会盟に範を取り、天皇を擁護し諸大名が欧米から日本を守る点で団結すべしと説いたもの――を啓蒙していた会沢安ら水戸学者に習っていた。常陸国(現茨城県)では大津浜事件をきっかけに日本も周辺国同様に欧米から侵略されうる危機を知識人を兼ねていた武士らが察知し、幕府(当時の中央政府)に異国船打払令を発布させると共に、当時日本最大の藩校・弘道館で上記尊攘論を会沢らが啓蒙、或いは有志が全国各地(今の都府県)へ遊説していた。松陰は弘道館へ留学に来て、会沢から直接、尊攘論を学んだ。そして東北旅行後(実際にはのち彼の弟子らが「白河以北一山百文」等と蔑視しつつ戊辰戦争と呼ばれる国内侵略を引き起こす前提になっており、当時各地の偵察を兼ねていたと『東北遊日記』等でわかる)、郷里に帰って彼の私塾・松下村塾を作る。
 ここで松陰ははじめ、水戸学に全面的に心酔し素直に尊攘論を教えていた。しかし宇都宮黙霖なる広島の盲目僧が彼に倒幕を説きだしてから、徐々に様相が変わった。黙霖は幕府(中央政府)に恨みを持っていたと思われ、中央政府を覇府(力で民を抑えつけている者)とみなし、天皇こそ王者と説いたのだった。この部分は極めて国学(特に国内政治思想)上の重要な論理転換、或いは詭弁が入っているので、なるだけ緻密に詳述するが、慎重な検討を要する。
 そもそも水戸学は徳川光圀(義公)に端を発する。少なくとも承平天慶の乱やアテルイの蜂起があったとされ、今の見方なら平将門・藤原純友・アテルイらによる地方自治が、天皇政府とは別に試みられた平安期以後の、「武家政治と天皇(皇室)政治の二重権力」状態に、或る哲学的示唆を与えた体系である。義公はじめ水戸学者らは江戸期を通じ、今でいう象徴天皇制とほぼ同じ発想に辿り着いていた。当時の言い方なら「大義名分論」。形式(名分)上、政府(幕府こと武家政治)は、国事の実務を征夷大将軍(今でいう首相)という形で天皇から一任されている。政府は実務で天皇に応えるのが大義という発想だ。この考え方を元に、義公以後の水戸の徳川家(水戸家)は、いわば分裂状態であった政府と天皇の対立関係を、温和化しようとした。水戸家2代目の義公は自分から皇族を正妻にし、進んで皇室を奉る形で、「武家(政治家)は天皇の忠臣たるべし」といういわゆる尊皇論(尊王論)の気風を作り出していく。
 義公が出現する前まで、平安期以後の日本史は乱れに乱れ、室町期の小康状態をのぞけば絶えず内戦内乱をくり返していた。細かくいえば天皇渡来――奈良時代に作られた記紀による神道神話では「天孫降臨・神武東征」とも称されるが、要は考古学的には彼らを含む弥生民族の侵入――後、弥生期以後に国内外で戦争が始まった。原因として本格的水田稲作が蓄財を可能にし、貧富の格差が不公平感をまし、貧者虐殺や一揆の類が偶発した。奈良(朝鮮語でクニを意味する)地方で、飛鳥期頃から天皇と称しはじめた一門は、古墳期に(卑弥呼の邪馬台国、関東なら毛野国など)各地豪族の自治権があった状態から、各連邦国へ武力で侵略をしかけ、覇道的に統一しようとした。記紀にはこの時の事象が、大和国(奈良県)中心の見方で記述されている。しかし天皇の覇府は長続きしない。皇族の世襲・形骸化や(受領らの)売官による腐敗政治が進んだ平安中期頃から上記、各地豪族が再び自治権をとりもどそうと反乱を始める。今からみれば地方自治権の主張で、民族自決の攻勢なので決して問題がある行動でもないが、天皇はそれらを別の武家に弾圧させた。こうして初代幕府(東国政府)こと今でいう日本政府を開く源頼朝が武家代表の公認印として天皇から授与されたのが征夷大将軍という職名だった。元は征東大将軍と称され、奈良県(大和国)から天皇が渡来人をその地位にあてがって東日本を侵略させていた名義だったが、この時点で意味が決定的に変わった。元々、日本の主な人口は今と同じく国内最大平野がある関東地方こと現首都圏に集まっていた。特に縄文中期に鬼界カルデラ噴火があり人口の空いていた西日本側に中国・朝鮮から弥生系移民人らの定着があってからも、一時的に関西圏と人口比が迫る場面はあったものの、根本の状況はそこまで変化がなかった。いいかえれば関東統一政権は、国力(ここでは総合兵力)面で、関西政権より一般に強烈にならざるをえない。こうしてほぼ関東統一に成功した鎌倉と江戸の両幕府は、覇府として内戦を一時的に完全制圧していたのである。天皇はこの勢力を傘下に収める方便として、征夷大将軍の役をあげて部下仕立てにした。再び義公による征夷大将軍の解釈に返るが、例えば武家の統領が、もはや何の実権も実力もないのに偉がる天皇を無用の長物扱いし、滅ぼそうと企てた事例があった。それが室町幕府で、足利尊氏が反政府的な後醍醐天皇を排除し、光厳上皇を立てて新政権を樹立した。これは義公によると悪だという事になる。なぜ覇府(政府)が天皇の上位に就くと、義公の政治哲学では悪と定義されるのか。これは上記した大義名分論が理由とされる。飽くまで将軍職は天皇の代理なので、天皇の意志(国学用語でいう大御心、おおみこころ)に反した行政はそこでは認められない。無論これは政治道徳、公徳論の理論的立場である。例えば安倍政権下で退位法なるものが立法された。正にこれは義公の政治哲学と完全に同系統の解釈、いわば水戸学で通ったのである。通常の国政手続きだと天皇に憲法上、国権はないので、国事行為に規定されていない立法の依願など通ってはならない筈が、全国会議員一致で通ってしまう。大義名分論で。或いはまた例えば、鳩山由紀夫政権下で平成天皇へ当時の中共副主席・習近平との接受を依頼した際、慣例となっている日程調整の都合から少しずれこんでいた為もっと早く言ってくれと宮内庁長官・羽毛田信吾が公式発表したら、右翼が凄く憤り、結果、朝敵扱いで鳩山政権潰してしまった事例も同じである。つまりこういう事になる、現日本国政の根本理論は、義公の政治哲学に遡れる訳である。一言でいうと、天皇が政府より偉い。政府は天皇の代理に過ぎない、との考え方。
 しかしこれは憲法に定めている部分ではない為、いわば外国からは見てとれない暗黙知になっており、完全に不文憲法式の裏構造である。したがってたまに韓国の大臣とかが天皇ディスってきたりするけれども、これは本当に戦略的にやめた方がいいのである。なぜかというと義公があの世でぶちぎれ事案にあたり、普通に助さん格さんへ「もういいからやっておしまいなさい」式に武力嗾けられるからというだけではない。日本の魂を侮辱するから。この点、アメリカ政府は随分と賢い。特に『菊と刀』書いた日本学者ベネディクトとか既に戦時中からこの暗黙知を見抜いていたらしく、天皇立てとけば日本人なるものは大人しいからそこだけは形式的に守って対処すれば、寧ろ簡単に間接統治できるとかGHQに入れ知恵したわけだが、その通りの結果になった。

 そんでだ。
 再び黙霖にもどるが、彼は「幕府(政府)は覇府に過ぎないから倒しちまえばいい」「天皇立てれば新政府なんて余裕」とか足利(室町)幕府式の理屈をこねて、松陰を説得しようとした。松陰にもし義公級の知恵、国学的公徳があれば、いやいや、それ偽王朝だからとすぐ気づけたわけである。が。松陰は浅学で、まぁ年齢からいっても20代だったから『大日本史』全部読んでたわけでもないだろうし俄かでも仕方がない。普通に説得されてしまい、以後、徐々に倒幕論に傾いてしまう。成程、山口県(当時の長門・周防)からは毛利家をやりこめていた徳川家に戦国バトルしかけ直すだけに見えたのだ。所が当初の毛利家からみたら松陰の極左理論とか受け入れられる筈がない。だって徳川に喧嘩売ったら基本ボコられお家終了であり、実際のち第一次長州征伐でその様な結果になるが、松陰は無謀な若人公務員なので上層部が全然動かないから、発狂して密航スパイ企てたり遂に政府要人の暗殺計画までしだした。僕は穏健な絵描きさんだから、その種のテロ行動みたいなのする過激派は基本として全然好きになれないのだけれども。おうちで絵描いてなさいと思うわけだけど。とりあえず狂歌でも詠んでお茶飲んで落ち着きなさいと。しかし松陰は大人しい僕とは全然違う性格をしており、血気に逸って弟子にまでテロ唆す。弟子にちくられたんだかなんだかで(この時点でもう師匠はとち狂ってると思われていたのだ)、テロ唆してるのが政府にばれ、今でいう共謀罪扱いで松陰は逮捕された。そして獄中でも彼の過激派ぶりは健在で、学が有るともいいがたい囚人に極左理論説きまくっていたまではいいが、遂に侵略主義論客になる。それが『幽囚録』と題されている松陰によるテロリスト養成塾生らへあてた手紙なわけだ。彼のこの時期にはもう一つ興味深い点があり、単に国内外へ弟子らによる一方的な武力侵略を唆しただけではなく、完全に無政府主義を述べている。天朝もわが藩も要らぬ、とか(安政6(1859)年、野村和作宛て書簡)。要するに松陰は、安政の大獄こと尊王論者を反政府扱いで取り締まった井伊直弼から死の間際までおいつめられて、いよいよ侵略主義とか無政府主義とか、やばいレベルの利己性を全開にしていたのである。彼を極悪人といえるのはこの時期があるからだ。要人暗殺企てる時点でまずいが、理論面でも悪徳凄い。松陰は元々、利己的な性格に生まれついていたのだろう。そういう人はいわば脳内の共感性が低いのである。実際に彼の残した和歌とか読んでも、総じて一茶の逆類型というか、弱者や弱い生き物に同情の涙を注ぐみたいな部分が全然なく、オレツエーとかこんな俺ってやっぱスゲーの連打であり、自己愛妄想系。
やせ蛙負けるな一茶是にあり
――小林一茶

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
――吉田松陰
とを比較して考える。一茶は動物界でも弱者が強者に虐められてるのをみて弱者の味方をし、がんばれがんばれ~と応援している。小動物にまで共感し、自らの武士道を映しているともいえる。一方、松陰は「テロすれば捕まる、しかし自分は自分の信念の為にテロせざるをえない!」と、なぜか自分の恐怖政治欲を大和魂という重要国学用語と重ねて論じてしまっている。言うまでもない話だが、大和魂は最初に紫式部が『源氏物語』で主人公に物語論させた所まで遡れる概念で、日本らしさの意味だ。

 流石にガチテロリストがテロるのこそ日本魂とかいわれると困るとしかいえないわけだが、この無政府侵略主義の極左精神(普通に公害)を素で奉呈してしまった一派というのが、いわゆる松下村塾生らであり、彼らの迷惑極まる悪業の山をこれまた美化してきた長州閥の政治屋らだ。伊藤博文から安倍晋三まで。『山口県の総理大臣展』で菅直人が外されてるのが憐れで仕方がない。こう思っているのは僕だけではないだろう。なんで岡山県で生まれたら山口育ちでも長州閥ではないのか。門地差別そのものだ。寧ろ安倍晋三による陰謀だとしても、安倍独裁政に弁護の余地はない。彼の侵略主義戦争法は松陰譲りの発想だ。一応書いておくと、松陰は要人暗殺計画を自白し処刑され、代わりに彼の弟子らが何度も国内外にテロ戦争起こし、遂には山口県庁(当時の藩庁)まで乗っ取った。政府に無断で山口県単体で起こした対英戦争(下関戦争)でボロ負けするや、その賠償金は政府もちとするなど無政府テロ集団、厄介極まりない。天皇(121代孝明天皇)は暴れてしょうがない長州征伐を政府に頼む。武家を操って自分の手を汚さず同士討ちさせ、おいしい所だけ持っていく、源平合戦後勝った方に征夷大将軍あげる式、天皇お得意のパターン。第一次征伐の時は紀州系の家茂君だったから普通に完了したが、第二次の時ボタン掛け違えた。
 家茂君は病弱で20そこそこで死んだ。次に将軍になったのが慶喜公である。この人は母も有栖川宮、妻も同家系統の皇族と、半分皇族、半分徳川家(水戸系)との出自で、よく知られているよう実に英明かつ、歴代将軍で最も長生きで強健な人物でもあった。日本が植民地化されなかったのは先ず慶喜の威徳だ。当時慶喜に会ったミッドフォード男爵も「私が会った日本人で最も体格がいい、実に立派な男」とか「彼がその後まきこまれた運命は世界史でも希有なもので、複雑な心情は想像に余りある」云々と回想録に書いていた。正にその通り。一貴族がみてそうだっただけではなくて、禅譲伝説実現した人って彼だけ。慶喜は上記した義公の政治哲学、水戸学を幼児から弘道館で習っていて、更に父・斉昭(烈公)からの庭訓で重ねて「絶対に皇室に弓を引くな、やるなら政府(幕府)相手にしろ。これは先祖代々の家訓だからゆめゆめ忘れるな」といわれていた。伊藤博文が晩餐会で聞き取り渋沢栄一に伝えた逸話で公伝にある。第二次長州征伐ではこの慶喜が指揮を任されたが、当時、毛利家は慶喜の親戚だったのである。やはり有栖川宮家を母方にもっていた。その上、水長同盟が背後にある。慶喜の地元にあたる常陸国の武士は幕末全体を通し、毛利家側の地元にあたる長門・周防国の武士と組み、尊攘論のもと幕政改革を進めてきた。したがって第二次長州征伐は一通りの戦闘を終え慶喜は、もう許してやってくれと孝明天皇に頼んでイイヨといわれた。元々、将軍慶喜と毛利家は同じ目的意識(天皇を奉り、日本を諸外国から防衛する)を共有している筈なので、理の当然ともいえる。所がこれが思わぬ伏線になって、のち、戊辰戦争に繋がる。この時点で、やはり反政府テロを繰り返していた鹿児島県(薩摩国)と高知県(土佐国)勢がいた。彼らは松陰の無政府侵略主義とは直接は無関係だが、究極のところ県庁(藩庁)が経営失敗により借金火の車状態で、常態的に治安が悪かった。山口県もだが、そこで中央政府からカネを分捕ろうとしていた。当時の各県(各国)借金の状態は『ケルトン氏の操縦財政論はインフレターゲットの前提に貨幣錯覚の解消を無条件に置いている放漫財政肯定の詭弁を含む』に詳しく書いた。それで坂本龍馬が死の商売をやるつもりで、鹿児島と山口にスコットランド商人経由で武器を売りつけていた。つまり、山口と鹿児島、高知は暗に、中央政府からカネを分捕る目的で結託しており、山口・鹿児島両県では勝手に薩英戦争・下関戦争を起こしその敗戦費も中央政府もちに立て替えてしまったり、坂本は自分の船で中央政府の船と戦ったりして、無政府主義的な海賊行動をとっていた。鹿児島人の西郷隆盛と大久保利通が、京都人で当時の急進左派といえる下級公家・岩倉具視と組んで、小御所会議を牛耳り、慶喜抜きで陰険に国策を徳川排除に転換したので、最初こそ高知の殿様・山内豊信も反対に回ったが、広島の殿様・浅野茂勲がクーデターの肩をもち、会議全体が反徳川に傾いてしまった。この後、大阪にいた慶喜が京都によびだされるや鹿児島人らが慶喜のお供へ軍事行動をしかけてきたので、慶喜は一旦大阪城まで退却するが、結局、「皇室(を擁している軍)に弓を引くな」との家訓を慶喜は政治道徳として守らねばならなかった為、激昂する会津・桑名の兵を死地に置き、江戸へ退却する。当時の皇室は、孝明天皇が崩御後で、まだ16歳の明治天皇を有するだけだった。摂関家が代職する決まりになっている状態だが、母も妻も皇族である前将軍の慶喜を関白にし、完全に公武合体した挙国一致体制にしようとの会議が小御所会議だったのだ。西郷・大久保らと岩倉の陰険な野心が慶喜をねたませた。この後、岩倉具視は慶喜が賢明な人物だったから天皇への禅譲が順当に行われた云々と語り(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』35章)、それはその通りだったのだが、西郷と大久保は士族反乱や征韓論で暴走した末にどちらも新政府や旧士族といった対立勢力に殺される。
 ここでなぜ幕末史の一場面を敢えて描出したかといえば、この間、松陰の弟子らがいかにして明治政府の中で成り上がっていくか、そしてその禍が今の世にまで尾を引いているかの理解に必要だからだ。これら徳川排除クーデターと慶喜禅譲、そしてそれらの急進展開への不満分子とのバトルといった国内攻防戦(総じて戊辰戦争や続く士族反乱と呼ばれる)があった時期に、山口県を牛耳っていたテロ集団は力を盛り返し、新潟・東北・北海道へと攻め込んでいたのだった。これが今に続く会津との確執の原因だ。元が嘗ての被差別民まで含む、武士とは言いがたい民兵まじりのテロ集団(奇兵隊系)、当時の山口県庁(藩庁)を牛耳っていた勢力は、はっきりいって武士道教育があったとは到底いえない。というか藩校で教育を受けていたのは本の一部で総じて排除されてしまった後なので、無学文盲に近かったであろう。その野卑極まりない連中が、坂本経由で手にした銃だのを手に東北まで攻め込んできた。イギリス公使もそんなの紳士道徳に反するから認められないといって薩長との会談を打ち切りプンスカしていたくらいで、皇軍に自分から恭順している慶喜を虐め殺すとかありえない。だから代わりに反抗的な会津を攻めた。会津からしてみると、そもそも水戸系松平、徳川親族の殿様で、しかも孝明天皇にも懸命に仕え、主家にあたる慶喜公ともども幕末に大変な犠牲払って尊王内治に勤めてきたのに、小御所会議でいきなり慶喜を朝敵扱いとか濡れ衣でしょと誰でも思う。当時皆思っていたのは『討薩の檄』『夜明け前』でもわかる。慶喜は大人しいからたとえ濡れ衣だろうが疑われる事は一切しないと、会津の殿様・容保公を理由告げずつれだして、江戸まで退却し、その後も各郷里に帰った。慶喜は水戸へ、容保公も会津まで帰ったわけである。もう馬鹿らしいから帰ろうぜってなる。勝手に京都でインチキ偽王朝でもやってろって話である。明治天皇は10代だからまともに政治判断できないかもしれない。だったら摂関家がしっかり判断しないといけない。当時なら二条斉敬ら。所が、慶喜は徳川幕府をやめ天皇親政で諸侯会議を開こうとしていたわけだが(所謂国会。小説家・司馬遼太郎の捏造にすぎない船中八策は実在せず坂本の考えではない。実際には横井小楠『国是七条』がその考えの原型を提供する。詳しくは『徳川慶喜が禅譲を考え実行した当人』)大政奉還後、公家としては格下の岩倉が孝明天皇崩御の隙に専横してだろう、朝廷発という形で『王政復古の大号令』をだしてきて摂関家が廃され、有栖川宮熾仁親王が「総裁」とされ、摂関職に置き換わる形にさせられてしまう。つまり岩倉の操り易い熾仁親王を立てて、岩倉権力を拡大しようとした様なもの。この時点で、岩倉家って今もありますけど(こないだ京都市長・門川大作だかに会議で公然と皇族京都誘致策を唆してましたから、皇族政治利用そのものと普通に上から目線で専横してて相変わらずだなぁと思いましたけどね。おうちの性格変わらないんでしょうね)、具視さんは相当おかしい行動をしている。伝統からしたら摂関家がしっかり天皇を盛り立てて幼帝の代職しなければなりません。それが叶わなければ流石に仕方ないにしても、普通に二条勢力を迫害する目的で無理やり熾仁親王立てるのはこれ、義公だったら筆誅してるでしょう岩倉具視を。偽王朝そのものですから。明治政府の作りかけの時点って。岩倉具視は、尊皇心とか公家式に巧妙に裏表使い分けて点前で立てていただけで本心では決してなく、面従腹背、いってみれば天皇機関説である。それは当時、大久保とか木戸孝允、伊藤博文らもそうだった。彼らが天皇を「玉」と呼び、道具扱いしていた記録が残っている。
(木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らの「玉」発言等
1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年
2.1868(慶応4)年1月17日、大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』「玉簾」「玉体」との表現で象徴的天皇を否定
3.『岩倉公実記』「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」「小御所会議ノ事」等での岩倉による「倒幕密勅」偽造等
4.宮内省御用掛『ベルツの日記』、伊藤が天皇を笛を吹かれて踊る操り人形と物まねする記述)
無論、偽王朝だとはいっても血統的には北朝に南朝が神器帰してからのものだから、一応だが明治帝は代を継いでいる。が、幕末当時、京都にいた岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、そして前述の浅野茂勲、山内豊信ら小御所会議で、慶喜を排除し、その後に朝敵扱いの濡れ衣した連中は偽王朝の偽覇府なわけだ。孝明天皇の時点で慶喜は懸命に皇室に仕えてただけでなくほぼ摂関家の肩代わり位の働きぶりを示していた。義公が天国でみていたらそれでこそ自称副将軍、よくやったと褒めるに違いない。慶喜が将軍になってからも同じだった。自分から天皇親政を実現しようと諮って、将軍やめてからも至誠一貫天皇を奉る。容保公は慶喜公を最も間近でみていたのだから、そりゃ誰でも彼が天皇の最たる忠臣にして誠心の最たる者なのはわかるであろう。
 転じて会津に帰ってから容保公は部下を収めていたわけである。薩長土が濡れ衣着せてきてる偽王朝で偽覇府なのはわかるがここはとりあえず抑えとけと。あとでばれるからと。そしたらですよ、奇兵隊系のほぼ無教育ヤクザさんが主力だったからして、この東北に攻め込んできた時の山口人や鹿児島・高知・京都人らがやった事がいまだに語り草にされている。余りに酷い上に卑怯さ野蛮さが多岐に渡りすぎるのでここでは記述できないが、地誌を辿れば誰でもわかるほど凄惨な極悪衆だ。武士の風上に置けないどころの騒ぎではなく、わざと親子に殺し合いさせたり、東北人同士討ちを誘導して自分らは上から目線で差別しまくるとか、京都人の既往の性悪面と薩長土の端から野卑無道な面が合体し、まぁ人類史でも最悪の部類の蛮行を色々とやった。僕はかなり調べた方だが目を覆うばかりである。会津史に現れるのはその東北全域で薩長軍こと西軍がやった蛮行の本の一部に過ぎない。だがその会津史だけみても、本当に西軍は人の風上に置いてはならない。非人道を極めている。だから彼らを擁護したり美化している人間というのは、例えば母方が佐賀の茂木健一郎氏とかだが、真実を何も知らないだけだ。この蛮行ののち、いよいよ敵対勢力が、山口・鹿児島・高知・佐賀の地元士族だけになって、というのもそれら侵略勢力は主な公務員ではなく実は一部の極左分子だったからなんだが、その極左だけが高い地位を独占し、自分らだけカネを貪って代々世襲爵位で贅沢な年金も貰える体制にしたんだから切れられる。 そしてそれら侵略テロ勢力は内紛をくり返した。鹿児島人の西郷と大久保、そして高知人の板垣退助は、不平士族の怒りを自分達から外国に向けかえる目的で朝鮮侵略(征韓論)を主張した。
 テロ勢の内ゲバで西郷は潰され、大久保も不平士族に暗殺された。琉球は鹿児島の殿様・島津家が強奪し、北海道は侵略テロ勢が奪った。過酷な左翼内ゲバを勝ち抜いた伊藤が朝鮮侵略を開始したが、現地義士・安重根に暗殺された。これで松陰のテロ弟子らはほぼ全員死んだ。
 松陰はこれら、明治政府を名乗る極左テロ集団の前座を作った。その実態は、狂人の悪意である。

 なぜ松陰が、斯くまで悪果をもたらす言説を述べるに至ったか。この後の日帝が、松下村塾生含む奇兵隊ら侵略テロ集団を起源にもつ長州陸軍を旗本に、いかなる侵略主義的大陸進出の果て、理の当然といえる自滅に至ったか、我々の時代では既に知る所となっている。だが山口県はまだ彼らを美化しているのだ。百人斬り競争で山口県出身の向井敏明と、鹿児島県出身の野田毅が罪なき異国人を虐殺するのを自慢しているのは決して、歴史の偶然ではない。彼らは本気でそれが正義と信じていたに違いないのである。松陰に端を発する長州イデオロギーに完全に洗脳された人々だったのだろう。韓国自生植物園にあるワングァンヒョン 『永遠の贖罪』、これはいわば松陰以後の長州閥寡頭政への、現南北朝鮮(旧李氏朝鮮)からの復讐といっていいだろう。ここでの報復対象は、山口県が神格化した松陰の無政府侵略主義、即ちのちの長州閥に繋がる長州イデオロギーそのものだ。宿命といえば確かにその通り、業は消えない。松陰が弟子に唆した反政府・反皇室テロは、やがて弟子の1人・伊藤により朝鮮侵略をもたらし、アイヌの地(現北海道)や琉球王国を日帝傘下に収め、東アジア一帯まで領土拡大させ、途中では大量虐殺や慰安婦問題などを起こした。安倍晋三は原爆投下後の東京に生まれ、広島を跨ぎ山口と往復しながら、順調に虚言癖として育てられた。過去には菅直人を除けば7人も閥族から寡頭政治屋を国政に送りつけてきた上に、当の晋三の祖父が米政府スパイ(CIA Records, Name Files)となり死刑を逃れた岸信介だった。山口県の人々は、いわば松陰という悪魔崇拝者である。松陰は萩市にある神社のカミとして祭られており、山口県民は郷土史の範囲で松陰を仰ぐべき聖人の如くにしつけられてしまう。結果、安倍晋三の如き最悪僭主も松陰を二重に郷土の偉人と崇める、甚だ偏った長州イデオロギーに心まで毒されてしまうのだ。山口県の人々に嘗て唯の1人も、没後161年時点の現137万人のうち唯の1人も、明白かつ決定的な松陰批判者が出てこなかったのは、彼らの道徳的欠如を示している。松陰は端から他国民或いは他人の立場で物を見る能力を欠いていたサイコパスの類であり、故に「自国が侵略されるのは嫌だから他国侵略しちゃえばぁ?」とか「もう天皇とか皆の政府とかどうでもいいから。俺だけよければいいわ。はいテロろ」とかいうトンデモ極左理論家であり、はっきりいってヤクザだ。孔子は「己の欲せざる所人に施す事なかれ」(自分がされたら嫌な事は他人にしない様に)といい、イエスは「他人からされたい様にせよ」(自分がされて嬉しい事を他人にもしてあげましょうよ)といっていた。
 松陰という極悪サイコはこの真逆であり、自分が侵略されたくないからって侵略しようという。攻撃は最大の防御やで。それが嘘だったのは、松陰が武蔵野の露と散って86年後、長州陸軍大陸暴走中に、あの黙霖の地元に原爆を落とされたのですぐわかる。小御所会議後、広島人が唯の一度でも、慶喜公を裏切った事に謝罪したか。新潟や東日本、北海道、沖縄を侵略した事に申し訳なさを感じたりしたか? 黙霖は政府が覇者で天皇が王者だといった。天皇家の男系子孫が全員うまれつき謎の最高公徳を持っていたら(なぜか総合的政治道徳を遺伝していたら)、尊皇の最後の将軍に朝敵の濡れ衣なんて着せたろうか? 以後周辺国を侵略しまくりろくに謝罪もせず当の広島に原爆おちてからやむをえなかったろうか?

 黙霖が松陰に吹き込んだ説は完全に嘘だったと歴史が証明した。中国史では皇帝を放伐(武力で破る事)し、親王朝が始まる事が多い。所が日本では天皇渡来後、過去一度しかこれが起きていない。南北朝期に南朝が本来の正統な血筋だったのに、政府が無理に別北朝を立て、そっちが今の皇室である。天皇が滅ぼされなかったのは偶然に過ぎないだろう。もし強い意志を持った者が天皇一族を想定される限り皆殺しにしてしまえば、以後は別の政府に置き換わる筈だ。マッカーサーは徳川家康同様、それをしなかった。神道信者をまとめて統治できるので天皇を操り人形にする方針をとるのが将軍のご都合主義だ。即ち天皇もまた覇者なのだ。当時の政府が統治の都合上、維持している存在に過ぎない。公徳の高い人物は偶然生まれ育つのであって、一つの家に世襲で必ず遺伝するわけではない。これが永続した王朝がない真の理由であり、存続している場合は途中から名目君主制におきかわって実権剥奪される理由でもある。

 即ち黙霖は、反徳川の言い訳として、王道・覇道との孔子の哲学用語を濫用していたのである。
 孔子の定義では王道は徳政(君主の高い公徳を慕う民衆が進んでそれに従い治まる理想国)の事、覇道とは暴政(武力を用い反抗する民衆を押さえつけ成立する荒れた反面教師の国)を指す。黙霖の場合、天皇家に公徳が遺伝するという誤った信仰に基づき、徳川家の世襲批判に王覇の論理をすりかえた。天皇家も徳川家も世襲で君主を継ぐ限り、頻りに公徳に劣る人物が最高権力に就いてしまう落ち度は同じだろう。それなら倒幕論に王覇の弁を用いるのは論理的錯誤というべきだ。現に、徳川家は平和外交だった。秀吉の大陸進出計画から方針転換し、250年間、通信使らとの文化的交流で一国平和を貫いていた。その上、財政規律も有識者による改革を重ねつつきちんとしており、事実上の首都になった江戸の人口は当時の地球最大になるまで繁栄を極め、独自の町人文化を開花させていた。我々が外国から典型的日本イメージとして抱かれている殆ど全ての文化は、この江戸期の物と言っていい。サムライ、ニンジャ、ゲイシャ、フジヤマ。浮世絵や時代劇で描かれている日本という事になるが、それだけ独自色の豊かな進化を遂げていた。
 だが松陰以後薩長閥はこの古きよき日本を破壊し尽した。なぜ松陰はじめ、鹿児島や山口の人々に、文化的価値を理解する能力がなかったか? 単に本土の伝統文化について、廃仏毀釈(日本仏教の破壊)や廃刀令で士族廃止(侍の消滅)、鹿鳴館はじめ表面猿真似西洋化でとりかえしのつかない破滅的な破壊行為を加えただけではなく、アイヌや琉球文化も否定した。更には朝鮮でも台湾でも中国でも、東南アジアでもビルマでも、薩長閥の流れを汲む日帝は同じ事をしていた。即ち現地文化の破壊と、自文化中心主義に基づく奇形的な明治文化のおしつけである。親日派は台湾でも日本語話せるんだよとか武士道がねえとか語ってくるが、大抵の国々では日帝支配は負の歴史だ。台湾で親日言説が多いのは一般論的には、現地で対中戦略として自由陣営の一部ぶる方がまだ好都合だから、乃ち政治的策謀に過ぎないだろう。無論、飛虎将軍式に本気で現地人に感動を与えた水戸武士道の証みたいな事跡もあるだろうが(参考資料1)、大抵の場合、各地で日本軍がやったのは欧米列強による植民地支配の真似事にすぎず、しばしばより粗雑だった。この種の文化的理解力に関する凄まじい軽薄さ、無能さ、無力さ加減は、現在でも薩長藩閥の流れを汲む政治屋連中、或いは西日本の薩長土肥辺りから出てきた人々の中で、常態的に続いていると思う。鹿児島にルーツを持つ麻生太郎とか小泉親子、山口にルーツを持つ安倍晋三、佐賀にルーツをもつ茂木健一郎。彼らが松陰とか明治政府とかを「文化的未開さ」の面から批判している言説を私は一度も見た事がない。それどころか逆に口すっぱく褒めちぎっているのをみた。なぜ他の文化を理解しようとも認めようともせず、一方的に蹂躙し、ほぼ頭ごなしに全否定し、差別し、罵り、辱めた薩長藩閥や日帝を褒めるのか。即ちこれは彼らが文化資本を欠如させている証である。例えば朝鮮の時調史だの朱子学の系譜だの考古学だのを代々延々と調べる時間も能力も余裕も意志もないし、そうであればアイヌ、琉球はじめ国内各地の独自文化についても全く関心を欠いている。彼らは心が貧しいので、異文化を知ろうとする余裕がない。そもそも儒学や漢詩、仏教の伝来以来、わが国の学問は異文化研究からはじまった様なものだ。そうであれば朝鮮についてもアイヌや琉球・沖縄についても、或いは本土各地の文化についても、東京京都奈良だの天皇ゆかり外の文化についても全く同じ、人類学的関心が向けられていなければならないだろう。しかし薩長藩閥は全く何一つそうではなかった。単にほぼ無学の状態で、スコットランド武器商人経由で手にした銃を片手に東京まで出てくるや、全日本人を蔑視しまくった。理由は自分達が暴力団だから偉いのだという。そして彼らの低い知能では理解し難い高度な芸術だの哲学だのは全部丸ごと否定しだした。今でいっても麻生太郎という人が完全にその類型にあてはまるのはみなが知っている。ロウブロウな漫画しかわからん程度の芸術理解度では、日本画だの欧米美術だのに縁がないのはいうまでもないが、それでいえばもっと色彩の大幅に異なるアイヌ民俗芸能なんか成金議員如きに分かる筈も共感できる筈もない。義公の哲学なんざ、松陰が知的頂点と実に低次元な薩長土肥にわかっていたわけもない。実際に彼らは水戸学のかけらも理解しておらず、過半がその存在すら知らなかったのではないか? 最初に明治政府から派遣された佐賀人・渡辺清も不躾な芋侍だったらしく、水戸学者らから不評買い入城阻止の放火された。要は、武器を現地ヤクザに横流しし、標的国中で内乱させ、疲弊した所で食い漁るという欧米列強の植民地化方式を、内乱分子として幕末から約150年もやってきたのが薩長土肥という、松陰に洗脳された西日本果ての無学でサイコな野人達だったのだ。だから文化的素養とか何もないし、文化破壊だけをした。彼らの中では自分達の悪業が褒められた物らしいのは、現に山口県、鹿児島県、高知県、佐賀県の各県の地誌を辿ればよくわかる。これらの地域の人々は県庁・県知事をはじめとして自分達の幕末以後の侵略蛮行を正義のものと語る一方で、反省どころか自画自賛に終始している。県外で公害と思われているのに。薩長が近代化の先駆論みたいなのも完全に虚偽、明治政府の捏造なのはもう今更語るまでもなく日本史では常識だからわざわざ書くのも意味がない。一応書いておくと、反射炉や軍艦揃えてお台場に大砲設置させただけでなく、桜田門外の変でコルト使ってる時点で近代化の先駆って普通に徳川の水戸側である。以後も、中央政府側で近代化の事実上の足枷になっていた’(基本は保守派で、横浜開港は黒船来航でやむを得ずやったと解釈される)井伊直弼が斃されてから、進んで神戸開港したり慶応改革で近代軍備を備えさせていったのって水戸人であるところの慶喜だから、要は近代化勢力って徳川側にもいたのである。全く同じ事は朝鮮の開化派、清(中国)の洋務派にもいえるし、要は薩長土肥らの長州イデオロギーによる侵略暴政がなかったら、極東各国も遅かれ早かれ自動的に近代化していったのはもう明らかである。
 単に松陰に唆された一部の野人が、国内外でテロと文化破壊働いただけの話。それは何にも偉くない。

 では全体に結論をつけよう。
 なぜ吉田松陰という極悪人(無政府侵略主義の極左テロリスト)が特に山口県域で神格化されてしまったか。答えはここ150年の山口県民全般に公徳が欠落しているからだ。905年延喜式では周防は上国、長門は中国に分類され現時点の都道府県人口は27位。多様性に限界がある。成程日本単位なら僕のよう鋭く歴史考察してくる人間がいるから、いつまでもごまかせたとは到底思えない。現に、こうして松陰の悪徳ぶりは暴かれてしまった。それが彼が遊学した弘道館のあった水戸藩(常陸国)領域の一読書人の手による論考だったのは歴史の皮肉か、必然か。水戸学では侵略なぞ教えない。嘗て出現した全水戸学者の対外政策の基本理論は一国平和主義であって、しかも原則、文化交流を前提にした平和外交派でもある。それというのも義公がその態度で朝鮮通信使とか中国の学者を招き丁重に扱った歴史があるからだ。成程義公も唱道者で僕みたいに新水戸学者の間では当然批判対象ではあるが。だが公徳をより高める方へは進めても、わざわざ貶める方には、道徳哲学って進まないのだ。義公の時点で偉かったんだからそれ以後の全学者が、彼より程度の低い外交策とか論じる筈がない。だから水戸学では全員が一致して、専守防衛理論しか語っていない。この点で長州イデオロギーとは全く異質である。松陰は水戸学の凄く表面、乃ち尊皇攘夷と当時は言っていた「天皇の元の挙国一致体制で祖国防衛しようぜ! そしたら植民地化なんてされないっしょ」説の部分だけ盗み取って、しかもあとから黙霖に唆されそれと全く異質な、完全に堕落した悪徳説へと思想転向した。それが彼の倒幕論と無政府侵略主義だ。松陰には義公みたいな、純粋な歴史研究者としての側面は一切ない。血気に逸ったテロ計画が露呈し若くして処刑された松陰と、テレビドラマ化されてる様な最晩年まで助格モデルの若いお供を各地へ派遣し史料収集、皇国史書いて亡くなった義公では経歴も、学問への根本姿勢も違うけど、思想もまるで違う。水戸学の中で尊攘論がでてきたのは、上述した大義名分論(政府は天皇の代職でしかないので、飽くまで天皇に逆らうべきではない)などの類を一側面とする義公の哲学が根本理念としてあって、その上の一番表面で、幕末時点では挙国一致で天皇奉り植民地化しかけられても皆で日本守りましょうねってなった。が松陰はその義公哲学なぞ皆目ない浅学者の利己的サイコ野郎だから、連綿と歴代武家間の命懸けの抗争によって守られてきた皇国史の威厳とか全然脳裏にもなく、高々孔孟を軽く読んでた位の男なのだ。そんなのね、儒学者だったら全員読んでなきゃいけないんだよ。四書五経程度。水戸学者全員読んでるから。しぬほど浅はかな自己中男が、20代で学の入り口に立ってすらいないのに(王覇の違いを見分けてないんだから孔孟すらろくに読めてないのが事実でしょ)、遂には天朝も要らぬとかいって当人の中で忠義とかなくなった。ニーチェ級の大発狂。僕はニーチェもなんら好きではない、冷静に考えるべきだと思う。寧ろね、要らぬなら松陰の考え方だろうと僕は思う。これは嘘ではない。本当に要らぬのである。藩も天朝も要らぬ、そりゃそうかもしれん。山口県庁と、大和王朝以来の天皇政府なんて要らぬのかもしれない。けどね、無政府主義はまだしも、侵略主義は本当に要らない。欧米の悪い面をまねても意味なかった。無政府主義については僕としては一つ思い出がある。
 ピグに京大の経済学修士もってる或る女がいて、そいつはいわゆる京大に昔から住み着いてる系統の典型的極左であり、無政府テロリストと称していた。実際になんか京都のそっち系とつるんで暗殺計画を練ってるとかほざいており、公安にびびってた。僕は極左に殆ど関心がなかったが、普通ではない人、アップルCM的クレイジーな人は知的好奇心の面で好むので、ああこいつキチガイだなと(肯定的な意味で)思い、根掘り葉掘り話を聴いていった。そしてわかったのはこの女は、松陰と同じ系統の馬鹿であった。他人が殺されるのはよく自分は嫌だというのだ。そして例外に漏れず松陰はじめ長州閥の極左テロリストをこの女は肯定的に見ており、やっぱり長州だよなとかいって平気な顔でテロを煽っているのだった。のち共謀罪が施行されたのもあるが遠からず何かの事件であの女は逮捕されるのではないかと思う。いづれにしても他人への共感性が全然ないのである。無政府主義に惹かれる人は、結局、その種の共感性が決定的に欠如している人かもしれない。それで他人の苦しみとか悲しみに無感動で、無秩序な荒らしのはびこった阿鼻叫喚地獄みたいな状態が理想だとその女も思っているらしかった。松陰もほぼ同じ理想だったといっても、現実的には余り間違っていない。松陰の場合、大臣(老中)テロ計画をゲロれば警察(幕吏)もわかってくれるだろうとか、どうみても他者の認知を共感的に取得する部分に発達障害性がみられる。相手の立場で物を考える能力が極端に低い人だったので、周辺国民が侵略被害受けようが自分さえよければいい、というテロ発想に至ったのだろう。義公の理想国は、民は世界に冠たる天皇を奉り、天皇は民を愛し、いわば御恩と奉公の関係を皇民間に映した麗しい社会だった筈だ(これは烈公ことのちの代の斉昭による解釈だが)。そこからいうと、政府があるのは、御恩奉公の相互奉仕関係が崩れ、天皇が民を傷つけたり、民が天皇を信じなくなった為だ。政府は、世襲なので漸次でてくる低公徳の天皇の代の際に、一時的に御恩・奉公の為政者側を代行しているにすぎず、いわば君主無答責の状態で、為政の全責は政府が負わねばならない。だが新たに最高公徳の天皇が出てきた時点で当時の政府はその役割を終える、というのが義公哲学の一つの正統的解釈だろう。この種の考え方からいうと、天皇機関説で明治天皇をデク扱いし、朝鮮侵略でウェーイ芸者遊びとかいっていた伊藤博文は本物の朝敵に他ならない。伊藤が初代総理として崇め奉られているとすればそれは山口県勢が身びいきだからに他ならないだろう。全日本史でも朝鮮侵略で偉いでしょってのはなりたたない。明治天皇は侵略主義者だ。確かにそうだろう。なぜなら日帝憲法下で彼は全権を持っていたからだ。そうであれば伊藤が他国への明白な侵略犯として日本史に最大の汚点の一つを刻んだのは仕方がないのではないか? この意見は義公哲学では論駁される。天皇失政の全責は当時の政府が負わねばならないからだ。
(因みに僕の意見をいえば、伊藤も有責なら明治天皇も有責というもので、義公哲学とは違いがある。即ち自分は天皇機関説にも大義名分論にも立たない。いわば天皇覇者説に立っている。天皇も唯の一政治家という立場だ。しかしここでは、義公哲学との対比による松陰思想の分析が中心なので深入りしない)

 松陰は彼の生涯の中期頃、一君万民論という中華皇帝の丸パクリ説を弟子に語り、天皇の下で全国民は等しいとか言い出した。いわば倒幕の理由づけの為の擬似的天賦人権説だ。これで松下村塾生がわりこんだ明治政府は、ちゃっかり自分らだけ爵位で年金もらえる立場に置きつつ、士農工商的身分制を廃止した。けれども、これは飽くまで擬似的な人権制度だったし、現実には薩長藩閥が寡頭政治で中央政府を牛耳っていたので、官吏(国家公務員)が馬鹿みたいに威張りちらし臣民を虐めていた。今も上級国民という揶揄語でわかるよう残ってるけどその気風、特に東京で。大正デモクラシー弾圧とか、特高警察とか典型。それで戦後も、皇族だけ憲法上人権が与えられておらず、いわばアマテラスの末裔たる神権の持ち主のままである。だから彼らが殺人犯そうが絶対に逮捕されないし、盗みや暴行はたらこうと代わりに内閣が責任を負う。エプステイン絡みでこの種の特権階級が犯罪犯した時の重大欠陥が明らかになってきている。成程義公にいわせりゃ「これでいいのだ、君君足らずといえども臣臣たらざるべからず! by『古文孝経』」となるだろうし、松陰の発想も反政府テロ活動(倒幕運動)に弾みつけ自分の恐怖政治欲を満たそうってものだから天皇の名のもとに民衆弾圧なんてどうでもいいのだろう。でもね、どうみてもおかしい。ここでは義公にも僕は反論するが、先ず皇族も所詮は人で悪事犯す事もある。その際、被害者救済されない場合(例えば殺人罪)とか、天皇無罪は無理でしょ。周辺諸国への侵略罪に於いても同じ事がいえる。松陰は唯のテラーだからまだしも義公の理屈も、忠臣が政府役人だけならあてはまるが全国民には無理。松陰が一君万民論を導入し中華皇帝式の全体主義に全国民をまきこんだので事が厄介になってしまった。本来、義公哲学上の飽くまで忠臣たるべしって武家の習いだからはじめて成立したのだ。今でいえば自衛官みたいなやつらへ、勝手に暴れだすんじゃねえぞ、天皇をころすなよという理屈で、武士倫理である。しかし松陰は全国民を臣民化させようとし、のちの国民皆兵令の前座を作った。この点でもろくな思想家じゃない。今でいう三浦瑠麗級のヤクザさんである。一般市民が戦争なんてやりたいわけがない。逃げてりゃいい。それまでまきこんで戦争準備させようとか絶対にあってはならない事だ。兵役拒否権がある。そもそも天皇を奉りたくないですよ、という人がいてもそれはそいつの自由なのであり僕も奉っていない。その場合とか、全員が天皇臣民決定で強制人間魚雷のれとか従う筈もないし、神道とかいう殺人カルト信じてもないし、要は武家でもなんでもない人からしたら、命懸けで天皇守れとか従う必要ないのだ。じゃあなんで東京文化人の類、例えば三浦瑠麗の周囲にいる様な連中、たとえば東浩紀、茂木健一郎、落合陽一とか。あと誰でしょ。津田大介とか。古市憲寿とか。こういう層。なんでそんな全体主義殺人カルト教義じみた国民皆兵令もどきを煽る徴兵論者を立てちゃうの? これ次元が低いからです。東京人の。松陰を褒めてる人も同じだが、例えば茂木健一郎氏とか正にそれであって、そもそも倫理だの政治道徳だのに落ち度が多すぎるだけに脳科学以外は往々にして素人次元である。特にここでいう類の、国学的な政治哲学の議論については全く着いてこれない初学者レベルだといっていいであろう。儒学すら怪しい。だったら三浦瑠麗をもちあげ松陰をもちあげろくな事いってないわけで黙霖級の悪役じゃないですかとなるが、実際そうだと思う。当人が悪意なかろうと、公害度が激しい政治的言説をばらまいてたら、広島に原爆落ちる間接的原因になるのは黙霖の逸話でもわかったのではないだろうか。業は消えないのだ。

 再びまとめる。
 松陰は極悪人の類であったと書いた。確かな事だ。当人は善意のつもりだったのか知らんけども結果が異常に悪いし、そもそも無政府侵略主義が善意だとか到底成立しない。自国が侵略されたくないから攘夷論だっていってるのに他国なら侵略しちまえばいいんだとか馬鹿でしかない。
 そして三浦瑠麗である。この人が松陰の一君万民論をぱくって、文官武官の別だけでなく官民分業を無視し全国民徴兵制語りだしたのは安倍友として調子に乗ってた因果応報だろうが、この発言で全国の平和を愛する一般人から大いに恨みを買っているので末路としてはゲッベルス夫妻みたいになると思うのだ。当の安倍晋三も、文民統制をぶっ壊した最悪僭主であった。長州閥はろくな政治をしない。権力亡者を次々送りこんでくるが悪政三昧ではますます評判おちるばかりであって、がちの話、山口県っていいよねとか凄いねとか聞いた事がなく、寧ろ本当にろくな連中じゃないという話なら史家から聴く事が多い。悪魔崇拝した連中なんざ、皆が皆、殺されまくった松下村塾生だの、或いは今後逮捕され安倍友もろとも永久に国政史から消え去るだろう安倍晋三夫妻みたいに、絶対に悲惨な末路だと思う。だって高々彼らに同情しただけの松任谷由実すら大炎上する始末なのだ。それだけ悪魔崇拝の禍は大きいものがある。