2019年8月1日

ケルトン氏の操縦財政論はインフレターゲットの前提に貨幣錯覚の解消を無条件に置いている放漫財政肯定の詭弁を含む

前論(「れいわ新撰組の公約批評によせた中くらいの政府論、及び全額預金保護制度含む金融機関投資促進法、基礎年金保障・GPIFボーナス制などの提案」)内にあげたステファニー・ケルトン氏は、ある講演内で、「物価上昇・下落(又は貨幣膨張・収縮)率を程よい中に保つ為の考え方がMMT」と語っていたらしい。シンクと水のたとえで一見尤もらしいことをいって、直感的に子供だましっぽいのだが、これについてもう少し深く考えてみる。

 先ず私は「生活保障により実質賃金の下げ止まりに対応する政策論」に於いて、潜行スタフレ下でフィリップス曲線が成立しないと述べた。オカシオ・コルテス議員と違って、ケルトン氏はこの種の洞察を持っていないと思う。その意味でケルトン氏は古い「貨幣錯覚の解消論」に則っている。
 現実にフィリップス曲線が成立しない(物価上昇に必ずしも実質賃金がついてこない)かでいえば、現日本がまさにそうだ*1。
経営者からすると労働者の非正規や移民へのおきかえ、海外移転、長時間労働、自民党権益(反労組)など人件費圧縮の選択肢が多すぎて賃金を下げ止まらせる鼓舞になっている。
 日銀と安倍官邸は、インフレターゲット政策で「古い貨幣錯覚論」に基づいた誤った誘導をしていると現時点ではいうしかない。要は先に実質賃金をあげてから物価上昇目標を決めるならまだ消費者一般の貧困化などおきなかったが、逆順にして枷もあるのだからフィリップス曲線通りにならないのも道理だ。しかも私は日銀・政府が共謀し、雇用市場を含む金融計画をはかるのは、その時点で日銀・政府の愚を示すだけと思う。正直いって御用学者らの質が低いのだろう。いわゆる市場統制は需給秩序をよみちがえる一方なので、国家社会主義の末路と同様「計画経済は不可能」と例の如く実証しているにすぎない。
 ここまでいえばわかる話だが、アベノミクスと幼稚に自称していた某政策は根本的に不可能なことをしようと悪あがきした挙句、経済構造に致命的な汚損を与えてしまい(共産化や低賃金労働者への依存、所得格差拡大など)殆どどこから手をつけて直せばいいかわからないほど滅茶苦茶になってしまっている。
 そこでケルトン氏がきて、世界一の赤字政府に「赤字は気にするな」といいにきた。
私「貨幣錯覚が解消され、徐々に実質賃金が上がるのは労組が機能していたり、経営陣にとって人件費圧縮の代替手段がないときだけ」
結局、政府歳出がGDPに占める割合*2をみて、少なくともOECD平均やG7平均あたりまで赤字国債で調達しろとケルトン氏はいってるわけだが、この理屈はれいわ新撰組代表・山本太郎氏と同じだ。その問題点は前論で述べた。
 *2
また高校の教科書・参考書などにも出てる話だけど、幕末までに薩長両藩は藩札(今でいう地方債、県債)などで借金を抱えていたのだが無理やり踏み倒した。つまり商人から金を借り、暴力を背景にそのまま軍事費に使い2度も勝手に外患誘致して負け(賠償金は幕府におしつけ)、やがて、いわば非正規雇用者を含めた県職員テロ活動である討幕運動になる。一方、現宗家ご当主の徳川家広氏が著書(『なぜ日本経済が21世紀をリードするのか ポスト「資本主義」世界の構図』NHK出版新書、2012年)に書いてたけど、徳川幕府は(ケルトン氏のいうよりずっと前から)インフレ・デフレの景気調整効果を知っていて、緊縮・出動を交互にくりかえして250年間、危機をのりこえ安定した国家財政を続け、江戸を中心とした人口規模世界一の大都市を築いたわけだ。教科書は文科省が旧明治政府の末裔なので、薩長史観に染まっていて薩長両藩の放漫財政を「幕政改革の成功」みたいに言ってることが多い。が事実は上に書いた通りで、徳川幕府の安定運営に比べ、相当商人を犠牲にした極端すぎる開発独裁体制を敷いていた。まあだから暴走体質が日帝に乗り移ったのだが。
 要は、薩長・日帝型の放漫財政は近世MMTだった。極端にいえば借金踏み倒しを前提に商人を収奪し、反乱や不平を暴力で押さえ(奄美収奪制や西南戦争、萩の乱みたいに)、計画経済なので基本非効率で当然うまくいかなくなるわけだがそしたら無理やり侵略戦争や開発独裁でごまかす。いいかえれば無理や粗漏が大変多く、一般民衆を大いに犠牲にする、粗野な財政出動が目立つ一部の途上国的な方法だ。それに比べれば徳川幕府型・(バブル崩壊までの)戦後日本型の操縦財政は、民間人が犠牲になる赤字国債の踏み倒しを前提としない良識的なものといえたが、教科書的にも事実としても、1994年頃から不況対策で行った減税*3-1の穴埋めとして赤字国債依存が始まった*3-2。そして放漫財政に至ってしまったわけだ。
まあ放漫財政といっても流石に薩長・日帝レベルの踏み倒しとか侵略戦争での不況対策まで行ってないけど、ケルトン氏は既に世界一の借金をさらに積み増せという。もし徳川慶喜がみたら欧米列強が日本の植民地化を虎視眈々と狙って外交ですりよってきて、薩長と内乱あおってた時期と同じにみえたはずだ。

 結局、山本氏とケルトン氏は一見、操縦財政論を述べるが、インフレターゲットという「古い貨幣錯覚論」を前提にしていて、フィリップス曲線が成り立たない経営陣の人件費圧縮に選択肢が多くある状況を分析しきれていない。実際には放漫財政下の潜行スタフレを第二の英国病として辿らせるつもりなのだ。

 上述した藩札などによる幕末の薩長両藩の借金踏み倒し部分について、もう少し詳しく調べ、次のことがわかったので追記。
 先ず1838(天保9)年時点で、長州は約1766億8992万円(147万2416両余)の借金を抱え、年の歳入約72億7680円(6万640両)の22倍にのぼっていたのに加え、毎年の借金返済額も約177億2736万円(14万7728両)と歳入の2倍以上で、かつ経常収支は約6億7008万円(5584両)の赤字と、ほぼ財政破綻していた*4。
*4 三坂圭治『萩藩の財政と撫育』(田中彰『幕末の藩政改革』内で引用)の財政表による。
 薩摩は、1827(文政10)年時点で、長州より更に膨大な約6144億円(512万両)の借金を抱え、年の歳入は約144億円(2万両)から約216億円(18万両)なのに対し、毎年の借金返済額は約732億円(61万両)と3倍~5倍以上だった*5。
*5 原口虎雄『幕末の薩摩』による。
この後、長州は大坂商人には利子減額と米の給付で返済を先送りさせ、長州商人には大幅な利下げと元金返済猶予(毎年の返済額は元金の0.8%弱)で事実上借金を踏み倒した。
また薩摩は大坂・江戸・薩摩商人らへ古い借金証文を書き直すと詐欺し全て焼き捨て、250年賦の無利子償還へ一方的にたてかえ、事実上の借金踏み倒しを行った。
 現在の検定教科書では幕末までに両藩が専売制などで藩内商人を収奪しつつ殖産興業に成功し、幕末に薩英戦争、下関戦争、戊辰戦争の軍事費を確保したといった流れ(いわゆる薩長史観に於ける維新の成功視)で端的にまとめられているが、一部、事実に反する。長州の財政資料によると、1871(明治7)年の廃藩置県時、821億2032万円(約68万4336両)の借金が残っていた。これは幕末までに別会計とした撫育局が約76億8000万円(6万4000両)の資本を有していたのを考慮しても、やはり財政破綻状態は同じだったのだ*7。
*7 引用元(但し、引用元ページの「100~150万両 (約1200億円~1800億円)を費やしてもなお100万両(約1200億円)前後残っていたといわれている」との記述は、引用元不明記で、撫育局の資本金、廃藩置県時の長州藩の負債総額とあわせみて、計算があわない様に思われる)
 また薩摩が廃藩置県時までに上述の新借款で返済した分を差し引いても、明治初年の負債残額は約4800億円(400万両)以上あった計算になる*8( (2)➁-(d))
 他に土佐藩が発行済みで廃藩置県の1871(明治4)年までに回収できなかった藩札は約2640億円(220万両)だった*9((3)➁)ことをもあわせみると、小御所会議で徳川排除のクーデターを行った薩摩・土佐の両藩、そして戊辰戦争で西軍に加わった長州の真意は、いわば借金の踏み倒しという側面があったのは免れない。
 こうして廃藩置県後の1873(明治6)年までの旧諸藩の負債総額は現在の約12兆5000億円(1億2500万円)にのぼる巨額なものになっていた。諸藩は平均して歳入の3.5倍以上の債務を負っていた計算になる*10((3)➄)
 要は現検定教科書は「薩長土肥」が殖産興業により近代化したという文脈を薩長史観によって強調しすぎているのだが、実際には水戸藩や福井藩といった徳川方の御三家・親藩でも十分近代化は行われており、時期的にも規模の面でも兵器導入や幕政改革は斉昭の改革など他藩の方が早く、巨大だったりする。その上、幕府自体も慶応の改革を通じ、幕末の最後まで軍制含む近代化を続けていたし、それどころか井伊直弼は状況的に東の、徳川慶喜が進んで西の開港を行ったのが事実だ。つまり事実として、組織がより巨大で複雑だっただけで、幕府自身も一部諸藩も決して薩長土肥と変わらずに近代化していたのだ。簡単にいうと慶喜による天皇への禅譲と、戊辰戦争で西軍が東北・蝦夷地までの侵略を、検定教科書の基本的な薩長史観は混同している。これについては水戸史観(水戸史学会の研究書など)、会津史観、秋田・仙台・新潟、東北諸藩の歴史、蝦夷地の歴史や琉球史等から見直せばすぐ気づく話なので省略する。
 ここでいいたいのは、なぜ薩長土ら西国諸藩が倒幕という当時の目からみても奇異で極端な藩論に傾いたかだが、財政からみれば一目瞭然、彼らは身の程を過ぎた放漫財政により借金の返済に長年苦しんできたので、外敵襲来の混乱に乗じ、旧徳川幕府に対外戦争の賠償をおしつけつつ借金を踏み倒そうとした。一方の幕府は上述した緊縮・出動を景気感をみてくりかえす「操縦財政」をできるだけ健全に行う中で、比較的安定した国政を続けていた。ところが日帝は薩長藩閥の借金体質が乗り移り、戊辰戦争に味を占め日清・日露・太平洋と侵略戦争による借金踏み倒しを繰り広げ、最終的には国家の破綻に至ったのだ。日清・日露、そして満州事変以後の大陸権益拡大としての対中戦争は、薩長藩閥や薩長軍閥(陸海軍閥)政治の中で、戊辰戦争式に無理やり侵略をしかけなぜか相手国に賠償を支払わせるという、実に野蛮な借金返済手段を日帝がとろうとした確たる歴史上の証拠である。
 現時点の安倍政権が対外危機をあおり、しばしば一触即発の事態を右翼ともども招来しようという素振りがみえるのも、彼の長州史観によれば、賠償金目的でのこの種の対外戦争は罪にならないからなのだ。簡単にいうと米軍が真珠湾で、日帝が盧溝橋でやった当たり屋行為みたいなものだ。
 こういった歴史上の教訓から本旨に返ると、ケルトン氏が日本政府にもちかけている甘い話は、薩長両藩が江戸時代末ころ財政破綻状態になっていた時に「もっと借金しちゃいなさいよ」というみたいなもんだ。最終的に両藩はおいつめられ山口藩庁が武装勢力にのっとられたレベルのテロ集団の巣窟になった。
(いわゆる奇兵隊を含む元治の内戦というやつで、事実として山口県内の武装勢力が正規の山口藩庁、いまでいう山口県庁をのっとってしまい、結果、県(藩)ぐるみで中央政府(幕府)へテロを行っていく流れになる。なぜか山口県知事などもこれを美化しているが、現実的にみて、非常に危ない話である)
つまり、借金に借金を重ねる放漫財政のツケはいずれ回ってくる。福沢諭吉は『福翁自伝』で、私がここで指摘している「借金踏み倒し目的」とほぼ似た趣旨で攘夷戦争批判をし、下関戦争時の長州藩を「気狂い共」と語っているのだが(言い方が適切かは別に)、当時の状況はそう見えていたという記録だ。
 ケルトン氏は信用創造から逆算し、政府の赤字は民間の黒字といっているのだが、これは余りに極論でしかない。なぜなら民間人は政府に国債で吸い取られなければ自分の為にその金を使えたからだ。民間が国債を買うのは他人にその使い道を渡す為ではなく、利回り目的でしかないのをケルトン氏は無視する。既に述べた通り薩長両藩は地方債(藩札等)の利回りを帳消し・減額で返済を滞らせ、又はほぼ完済できない期間に引き延ばした上、最終的に内外戦争をしかけうやむやにしつつ廃藩置県で踏み倒した。今の日本国債がこうならないとだれに保障できよう? 現に安倍首相・麻生副総理は薩長の末裔なのだが。
 では日本国債は誰が持っているのか?
1.中央銀行
2.国内銀行(ゆうちょ銀行含む)、信用金庫、信用組合
3.生命保険、共済保険など保険会社
が主だ*11。


 要するに広く日本国民の貯金・保険は、安定した利回りを目的に、金融機関や保険会社を通じ国債に替えられ、政府の財源にされているわけだ。
 ケルトン説は「非効率な政府部門により多くの資金を投入せよ」といっているに等しい。しかも現日本ではこの借金返済の目処は全然立たない上に、歴史の教訓として政府(極貧に追い詰められた公務員)が発狂して内外テロや侵略戦争でごまかそうとする傾向があるので、単に愚劣な開発独裁主義に過ぎない。

 私見として、政府は財政再建を堅実にめざす方が日本の将来の為だ。その為の方策は前論「れいわ新撰組の公約批評によせた中くらいの政府論、及び全額預金保護制度含む金融機関投資促進法、基礎年金保障・GPIFボーナス制などの提案」で述べた次の様なものだ。
    ・消費税廃止・付加価値税の立法
    ・内部留保税の立法
    ・金融機関投資促進法(全額預金保護制度含む)の立法
    ・基礎年金保障・GPIFボーナス制の立法
    ・各累進税の立法
こうして日本政府は赤字国債の積み増しによる放漫財政を脱し、できるだけ多くの資金を成長可能な新経済の民間部門に回して自然な税収増をはかりつつ、税制改革と(民間委託を前提とした、かつ中程度の充実を目指した)社会保障への歳出増大で、相対貧困率を下げる各種の累進税整備をはかるべきだ。