2020年1月1日

徳川慶喜が禅譲を考え実行した当人

人は、ジョブスも言ってたが、今日死ぬならやらねばならないことから前倒しでやっていくべき。

 僕が死ぬ前に是非やらねばならないのは、徳川慶喜の名誉回復だ。私は全歴史上の偉人でこの人が一番偉いと思っているのに、ウィキペディアも書いたのに、世論が汚名着せてるから史実消されちゃう。

 慶喜公のどこが偉いかというと、この人は堯舜伝説上でしかありえなかった禅譲という政治行為を、現実にやった世界史上に最も傑出した偉人である。あまりに偉すぎるので周りから理解されていない。まあ地上に存在したあらゆるものごとの中でも最も神に近い人物といってもいいだろう。聖人以上である。
 ちなみに私の国、今は日本にとりこまれてるけど昔はひたちの国といった。漢字だと常陸国。ここを治めていたおうちが、水戸の徳川家であった。徳川さんちは今でも宗家以外、10もいないはずだ。水戸、尾張、紀州、あと御三卿(田安、一橋、清水)に、水戸分家の松戸くらいしかいないはずだ。
 しかも慶喜さんちも明治天皇からいいですよといわれて公爵で敗戦までやってたがこないだ水戸で薨去された。もしサムライが生き残っていたら、主君のおうちがなくなってしまったので、もう僕も出家か、殉死(それは佐賀です)というところである。武士とあろうものは己より優れた者に仕えねばならない。
 まあ慶喜公の本家筋であるところの水戸の徳川家は残ってるからいいんだけれども、宗家のほうは今のご当主が養子とってないからやばいかもしれん。
 われわれ一般の家もそうだが親戚は似て非なるもので、水戸の徳川と、江戸の徳川こと宗家(将軍家)は、性格が最初からだいぶ違っていた。
 で、僕が尊敬しているのは水戸のほうであって、実は宗家ではない。特に馬鹿殿が連打されてるのは宗家のほうで、水戸ではない。逆に水戸のほうは最初から秀才の出現率が高かった。あげく精力も強かったらしく子沢山だったので今の宗家も水戸の血筋になっている。でも最初から血統的に強かったのだ。

 有名なのが(水戸学者の間では常識になってる話でありますが)こどもが天守閣でなにほしい、とびおりればやるぞと家康にいわれて、末っ子の頼房が天下ほしい! といって、家康がガハハ的に笑った話。これは250年後、彼の子孫が実現する。そしてそれが慶喜公である。実に筋の通った話である。
 ところが、慶喜公(隠居先の静岡ではケイキコウというらしいが、地元にあたる水戸ではよしのぶコウと読みます)は、いわゆる水戸黄門といわれる頼房の末っ子・光圀に似て、秀才でした。今でいえば知的謙虚さが凄くて、兄弟の中で一番できた息子さんだったのに、失うなら天下とりたくないといっていた。
 どういうことかというと、父上に「お前が跡取りの中で頼りだからしっかりしろよ。しかもいま親族には馬鹿殿とお前より幼すぎるのしかいなくて、将軍に養子頂戴って頼まれてるんだよ」みたいくいわれた時に、まあ天才だったんでしょうが将来を見通したみたいに手紙でそう書いた。俺はなりたくねえと。
 実際、すでに欧米包囲網で刻一刻と日本が植民地になりかねない状態に追い詰められていた時、まだ中学生くらいの家茂くんしかおらず、慶喜はもう成人くらいだったので、宗家にいわれて将軍になる前提で養子にいった。
 本当は。水戸に残しておきたかったのである。だって一番できがよかったのだから。
 ここから慶喜の宿命の歯車はめぐっていき、当時の天皇に気に入られて(なにしろ慶喜の母親は皇族でしたし、光圀の奥さんも皇族でしたので、まあそれなりに近縁の親族みたいな状態であった)、皇居まもってね、といわれていた。当時は京都に天皇いたので、慣れない関西であれこれ奔走していたのである。
 ところが、ご存知、西日本の果てに山口県と鹿児島県という場所があってここの殿様は、むかし関が原で負けたから恨みを持っておって、とことん徳川に嫌がらせしてきておった。慶喜的にはそんな場合じゃねーって感じで、まあ天皇守って、みんなで話し合おうよ、と当たり前のことをいっていたのだが。

 で、あるとき将軍が死んだ。家茂くんである。病弱であった。さきにいったよう水戸の徳川家の血統は健康で強かったらしく、慶喜はけっきょく歴代将軍でも一番長生きしたんだけれども、将軍やってねといわれた。ここでも慶喜はやりたくねーといった。これは理解できる。最初からやりたくなかったのだ。
 なぜかといえば彼はこどものころから秀才であったから、知的謙虚さがはなはだある。ダニング・クルーガー効果かんがえるとすぐわかる話で、頭がいいと自分の実力を過小評価しやすい。まだ知らないことが沢山あるし、自分はまだまだと、テストは全部100点なのにオレスゲーとは決してならないのである。
 開国(要は港で外国との貿易許可)したのも国会かんがえたのも、いやそれだけじゃなくて近代化はじめたのも実は慶喜みたいなもんだ。これはウソではない。史実である。小説家は彼をちゃんと調べていないまま適当に汚名着せている。なんでかといえばこのあと書くが、天下とった慶喜は偉業してしまった。
 国会(諸侯会議)かんがえ、みんなで話し合いましょうよ、今は欧米列強が日本を植民地化しようとしてるから、内輪ゲンカしてる場合じゃないですから、と将軍になってすぐ慶喜は言った。正論である。同時に、これ今外国と戦ってもやばいから近代化しなきゃといって最新軍備を整えさせた。当然である。

 ところが慶喜はこれ以上のことをやってしまった。ここが僕が彼が世界史上で最も優れた偉人だと思ってるところなのであるが、禅譲した。禅譲とは何か。最高権力者がみずから地位をゆずることです。しかも強制されてではなく、自分から。自分より優れた人物をみつけ自分でゆずることをいう。

 実は。これには2つ重要なポイントがある。是非ともこれを後世に伝えたい。ここが一番重要です。

 1つ。まず水戸の徳川家は、実は禅譲伝説をすでに実現ずみのおうちでした。これも水戸学者のなかでは常識中の常識でありますが、いわゆる水戸黄門は実は、お兄さんのこどもにおうちを譲っています。
 水戸の徳川家は、光圀という大学者になった秀才中の秀才がいた(身びいき抜きで、多分日本史上でも最高レベルの学者でしょう。『大日本史』原文、かれの執筆した全巻を是非ごらんあれ)。この人は若い頃、うらぶれておった。いまでいうヤンキーみたいなもんで学校いかず辻斬りまがいとかやっていた。
 なんでかというと、まあ当時の武士はまだ戦国時代おわってすぐなので、人くらい斬れなきゃいかん、みたいな世風があった。いくら殿の子でも、自分も浮浪者を斬ってみるぞ、俺は武士だとかいって気負っていたのもある。そもそも父が天下クレというくらいだから、テストステロン値が明らかに高い。
 そのほかにも遊郭がよいとかしていた。今でいえば新宿の歌舞伎町くんだりに出入りして、青汁王子まがいのホストだぜごっこやってたみたいなもんだ。ここもテストステロン値の高さを証明してる。
 しかしただの不良であったのではない。当人があとからそう書いているんだからまちがいない。
 彼の主著『大日本史』の冒頭にも自分で書いてるし、自分の墓碑『梅里先生碑文』を生前にかいてて「先生常州水戸産也」からはじまる有名な文があって、まあこれも水戸学やってないとわからんかもしれんがこっちの学者でしらないと靴屋(スノッブ)といわれるしかないマストの部分。あいうえおである。
 で。光圀はなんでうらぶれておったかというと、お兄さんがあとを継ぐのが当時の常識、要は長子相続なのだけれども、弟なのにお前が跡継げと父にいわれてしまった。しかし光圀はIQが高い。しかもまだ子供で、「これだけ不良な俺なら父も世間体から諦め、兄ちゃんの顔たててくれんじゃねえか」と考えた。
 麗しい兄弟愛、漢語でいえば悌(テイ)が、実は光圀がやり場のない憤りで、世の不条理に反抗していた理由だった。兄ちゃんがかわいそうじゃねえか、父上はなんで俺に継げつげっていうんだ、俺のほうができが悪いのに。これまた慶喜を彷彿とさせる知的謙虚ぶり。やはり遺伝としかいえない。
 父にあたる頼房(家康の末っ子)は、そんなの見抜いていて、いいからお前がやれという。なぜなら大事な跡取りは一番かしこいやつがいいに決まっている。兄は親戚にあたる松平家(沢山ある)を相続することになって香川に行った。で、光圀は水戸にきたのだが、あるとき本を読んでて凄い記述をみつける。
 それは司馬遷『史記』で、伯夷(ハクイ)と叔斉(シュクセイ)という兄弟について書かれてあった。しかもかれらも王族で、日本でいやあ徳川将軍の状況と似ていた。
(余談だが、実際、歴代将軍は外交称号で日本国王となのっていたこともある。将軍は世俗権力、天皇は宗教権力というわけだ) 
 ある国の王子の話。伯夷はお兄さんで、叔斉は弟である。偶然にもというべきか、お父さんである王様から、兄じゃなく弟のお前が跡継げよといわれてたのまで同じであった。光圀はふむふむ、弟はどうしたと思って読んだに違いない。
 弟は兄さんに跡継いでほしいとこれまた普遍的テーマ悌を発揮する。
(たとえば映画『英国王のスピーチ』も全く同じテーマを扱っている。東洋だけでなく西洋でも、弟はいつも同じ様なこと考えるらしい)

 それまで不良三昧してた光圀は夢中になってそのあとは? と読み進めた。当時18歳。

 そしたら兄は、国の為に自分より賢い弟のほうがいい、といい国外逃亡した。
 光圀も兄は香川に行ってしまっている。ここまで『史記』のお話とそっくりである。

 ところが次が違った。弟にあたる叔斉は、兄がいいんだ、ボクは王位を譲るんだといって自分まで兄を探しにあとを追いかけて国外へいってしまった。父としてはふざけんなであり、間にいた次男を王位に就けるしかなかった。
 結局、伯夷と叔斉兄弟は当時一番でかい国だった殷(イン)に行くも、そこでは道徳が廃れていて、王様は上位者にあたる帝位を奪おうとマキャベリズムで行動していた。日本でいえば、武将が天皇を滅ぼそうとしてたみたいな感じだ。兄弟はこんなヤクザな国は耐えられないといって山にひきこもってたが餓死した。
 光圀はこれを読んで、一生が変わった。
 まず弟は飽くまでお兄さんに地位をゆずるべきだったのか、と悌をつらぬくべきだったと後悔した。というか叔斉に比べ自分の至らなさを恥じた。兄ちゃんのが俺より偉いのに、なんで俺がここに居るんだと思ったに違いない。
 次に帝位を守るのが王だと悟った。
 そしてこれまで馬鹿みたいに暴れて、結局、自分が王位同然の御三家(当時でいえば一国一城をもらってますから)の相続者になってしまったので、もはや別の作戦を考えるしかないなと、どうすべきかと考えはじめた。それから彼はよく不良が再起して東大合格みたいに、猛勉強をやりだすのである。
 やがて光圀はわれわれがドラマでみるあの様なおじいちゃんになるわけだが、その途中で次の様な行動をしていた。
 まず伯夷叔斉が彼のロールモデルであるから、奥さんは王より偉い帝にあたる天皇家から貰った。当時は戦国直後で武将が偉い、周りは呆気にとられてたが一人だけ公家に頭さげてたらしい。
 これだけでなく生まれた子は香川にやるといった。代わりに兄から養子を貰うんだといった。それで水戸の徳川家は、お兄さんの血統があとを継ぐ事になり、光圀としては子の代で禅譲を果たしたのである。彼はその後も勉強しまくってて、最後は伯夷叔斉みたく茨城の山奥こもって天皇を讃える本書いて死ぬ。

 だいぶ前置きが続きました。この逸話は、代々語り継がれ、水戸(今でいう茨城県の中北部の人)の学者の間では何度もいいますがあいうえおレベルによく知られていた。それで僕も当然しっているわけですが、慶喜公はそういう文化風土の中で当時の大学にあたる弘道館で更なる教えを受けていたわけである。
 つまり、禅譲は当然するもんだ、ってのが水戸の徳川家ではかなり常識レベルであって、これ自体、実は世界史しってたらとんでもない話である。偉いおうちという意味で。なぜかというと権力者は普通、自分から譲らない。権力闘争が強いからその地位にあるものだからだ。それで僕は彼らを尊敬している。
 これはご存知の、徳川将軍家、つまり本家にあたる宗家のほうでは全然まったく違いました。禅譲という考えはちょっとありえない話で、相続争いがそこまで激しくはないものの、まあまああった。家庭文化が違ったのである。それで紀州の徳川家が跡継ぎを多くだしてたので、家茂くんまで相続牛耳っていた。
 なにがいいたいか。慶喜が将軍になる前に、あなたしかいないから頼むと部下らにいわれて条件だした。やりたくないのにやるんだから、そんなら俺は幕府を倒す覚悟でやるけどいい? と。意味わかるだろうか。これ当人がそう言ったんだよといっている。生前出版の自伝『徳川慶喜公伝』に書いてある。
 慶喜がいうには、「家康が開いた幕府だけど、俺が倒すんだよ。それでもいいの?」と条件だした。で、当時の徳川一族で跡取りといっても慶喜しかいない状況でした。しかも上記の山口だの鹿児島だのの殿様がヤーさん操り色々嫌がらせしてくる。周りは外国船がウヨウヨ内乱煽って戦争けしかけてきている。
 この慶喜発言にも実は伏線がある。ここが重要の上にも重要だから、かさねがさね強調しておきたい。福沢諭吉でいうと『痩せ我慢の説』レベルに、僕はこれがボクの全著述でも、後世に極めて大きな意味をもつ箇所だと、確信していう。
 慶喜がはたちのころ、父親に言われた話である。
 これもはっきり記録に残っているので確かな話だろうが、当時は黒船とかきてかなり厄介な状況になりつつあった。慶喜の父親が庭に若き慶喜を呼んでいった。

「お前、幕府と戦ってもいいけど、天皇には絶対に弓を引くなよ。これは光圀公からずっと続いてるわが家の家訓だから。絶対忘れるなよ」

と。(徳川慶喜著、渋沢栄一編『昔夢会筆記――徳川慶喜公回想談』より)
 慶喜は、当時はそんなもんか、と思ってきいていたらしいが、父は急に襟を正して、思い立っていう様子であって、いたって真面目であったらしい。
 これはなんで歴史に記録されたかというと、維新後に渋沢栄一があるパーティの帰り、伊藤博文から電車の中で教えてもらって聞き取ったから残っている。
 前述『徳川慶喜公伝』は渋沢栄一の主著といってもいいであろう。渋沢はもと徳川の武士であって、かつての主君がいたずらに辱められ、誤解されたままであるのがどうしても解せなく、今の僕と同じで、主君の雪辱を代わりに果たさんと思い立って大著にとりかかった。実業の傍ら大変な仕事で難儀であった。
 で、この記述は、その渋沢自身の筆で、公伝に出てくる。
 初代総理になった伊藤博文であったが、パーティで隣に座る事になった最後の将軍に、前から気になっていたことをたずねた。なぜ貴公はあのとき禅譲されたのですか? 
 慶喜いわく、「父に言われた。家訓守っただけだ」
 これが歴史の真実だ。

 慶喜自身が幕府を倒すつもりでいいなら将軍なるよ、といった理由がこれで明らかである。父(斉昭)も学者であったから、光圀の主著は勉強していたはずだ。禅譲伝説はいうまでもなく帝位を守るのが王の務め。すなわち将軍は天皇を守るのが忠義。
 だから大事な哲学の核は、帝王学として息子に伝えた。
 光圀は彰考館(ショウコウカン)という研究所をつくって、そこに国内外から沢山の学者を招いて歴史研究していたんだけれども、この水戸で代々はぐくまれていた哲学は急場になって慶喜に大政奉還を脳裏に浮かばせたわけだ。将軍継ぐ前から既に、幕府は無くし元一大名として国会議員やろうと考えていた。
「征夷大将軍」という正式名称が示すとおり、将軍は今でいう首相だっただけではなくて、対外戦争を率いる必要があった。だが職を天皇に返上すれば戦争回避できる。
 しかも幕藩体制から国会(諸侯会議。いわば貴族院)にきりかえれば、山口や鹿児島で暴れてる人達も抑えられる。暴力はやめようと。
 また、そもそもこれは禅譲である。自分が事実上、世俗的な最高権力の持ち主であったのだが、自分で幕府をたたみ、当時の天皇のもとにつどう一大名にもどりますよ、というわけである。当人が記録に残るかぎりでも間違いなくそういっている。光圀、斉昭、慶喜の必然的な流れがこれでわかったでしょうか?

 もう少しこの1つ目のポイントをわかりやすくいうと、次の流れがある。
 光圀(水戸黄門)が更生し偉い学者になった理由、つまり皇位を守る忠義な武士たるべし、その為には暴力より道徳を重んじ時に及んで禅譲すべしという考え。そして斉昭(父)にいわれたこの教えの家訓。慶喜にはこの文脈がある。
 ここまで読んだ読者には、もはや禅譲のなにが驚きなのか伝わらないと思うが、それでいいのである。なんでかというと、世界史に禅譲なんて伝説上にしかなかったのだ。それなのに光圀が実行して、奇跡的に水戸の徳川家が文化として代々伝承し、最後に世界史の偉業と呼ぶべき明治維新につながったのだ。
 しかしなんでそんな大業ができたか色んな学者が全く勘違いしきった説を唱えていて、僕は本当に色々読んでいるのだけど、どれもコリャダメだと思ってがっかり三昧してきた。なんでちゃんと勉強しないんだろうと。三文小説家の書いたウソばかり信じ込み、三流学者は史実をちゃんと辿ろうとしないのだ。
(実はこれも大事なところで、光圀は歴史研究の基本態度として実証を最重要視した。それで『大日本史』の形式をたどるとわかるだろうけども、フィクションだとわかっている場所はこれはこの本にこう書いてあるとしかでていない。そして事実と分けてある。これが歴史家の功徳にして本義と考えるべきだ)

 で、2つ目のポイントにうつる。これもまあ上記1つ目に比べれば小さな重要性ではあるが述べておかねばならない。
 それは大政奉還を考え出したのは坂本龍馬だ、と言っている説についてである。結論からいうとこれは虚偽である。小説家の創作だ。私はウソが公然と流布されてるのに本当に耐え難い。
 上記『徳川慶喜公伝』で、慶喜は渋沢に質問され、坂本龍馬についてどう思うかといわれて「そんなやつしらん」と素っ気無く答える。えっ、そんなことないでしょう? と尋ねられると
「いや坂本云々というやつは、そもそも維新後まで誰も知らなかった。当時も今も知らん。誰も覚えていない」
と答える。
 これは慶喜自身の口述筆記であり、渋沢が書き取ったものだがその後も慶喜が校閲してるはずなので、確かな話だ。これが史実である。

 では坂本龍馬が考え出したといわれている「船中八策」という代物だが、はっきりいうと偽書ですらない。ただの小説家・司馬遼太郎くんだりの空想上の創作物であろう。
 史実は、『新政府綱領八策』というものが残っている。こちらは坂本当人の筆になって現実にある。

 司馬遼太郎は大阪の一小説家で、僕に言わせるとこのひと作家としてもろくなレベルにない。単に面白くないだけでなく文も下手だわ人も思想も描けてないわ、ただの三流作家だ。
 で、遼太郎はこの『新政府綱領八策』をネタにして、それを大幅に改造し、あたかも坂本が現実に維新の政策構想を練っていた天才思想家で、それが明治政府の原型になったみたいに、マジで大嘘をかきちらした。これは本当に当人は悪ふざけのつもりなんだろうが、司馬遷に謝罪して土下座したらいいと思う。
 司馬遷は歴史家であって、司馬遼太郎は小説家である。ところが、この両者を混同している人が大勢日本には居る。どこの日本かというと、近現代の日本。日帝含めて。いや日帝どころか皇室ですらそうだったのである。それだけ知的水準が大幅に下がってしまったのであろうが、本当笑い話にすらならん。
 司馬遼太郎というやつは、なんでペンネームをそれにしたか当人がいうところでは、司馬遷には遥かに及ばないので遼(はるか)太郎だという。本当にふざけきった男であって、この場を借りて言わせていただくと僕はこの人が天下第一とまではいかないが、相当嫌いである。まあ別にうらんでまではいないが。
 どのくらいこの近現代日本の知的水準(特に史学の水準)の低落が甚だしかったかきっぱり説明しておくと、光圀からの水戸学派がレベル100だとするとマイナス50無量大数くらいというのは冗談に聴こえるだろうが、実際のところ、計量できない。250年あれだけしっかり考証してた水戸の先人に謝罪してくれ。
 さきにいっておくが、僕は歴史の大家かというと、これも謙遜はいってるとおもわれるかもしれんが、まじで僕はただの、ただのである。ただの趣味で歴史も学んでいた、水戸徳川家の統治してた地域に住んでいる一介の公務員の子である。しかも独学に等しい。それですら、こんだけ落差にびっくりしている。
 この際いっておくが、司馬遷をカントだとすると、遼太郎は松本仁志くらいのもんだ。これジョークだと思うでしょ。ほんとだからね。司馬遷をニュートンだとすると、遼太郎はさかなクンですらなく、無論、秋篠宮殿下なんて遥か天上界に見える次元で学者ではない。どのくらい下か。ドラえもんの地底人だ。
「そこまで歴史小説家をばかにして。あんた小説きらいなんか?」
そうではない。むしろ僕は高校のときなんて授業ずっと小説よんでたんだから。
「小説は三流文学であると?」
これは確かに伝統的価値づけとしてはそうです。本当は、詩のが偉い。でもギリシア詩劇を考えるとなんともいえない点もある。
「司馬遼太郎が嫌いなだけ?」
いや、僕はこいつはろくなやつじゃねえなと気づいてからも、ちゃんと研究の為に、それなりに読んであげました。ひどい文を。でも慶喜すらちゃんとかけてないというか、嘘八百かさねててこいつ馬鹿にも程があるでしょとあきれ返りましたね。なにもわかっちゃいないし。
 単に嫌いだといいたいのではなく、それ以前に小説家としてろくなレベルにないといっている。もう少し詳しくいいましょう。ここで完璧にやっつけておかないと、また今後150年謬説だらけで、世の道義、風儀、規律、道徳あまたの仁義忠孝をはなはだ乱すこと疑う余地がない。俗習だますのは罪が重い。後学気をつけて読むべし。
 たとえば。『ドラゴンボール』という漫画作品がある。僕はこれ家にもあったし、あたりまえだけれどもジャンプで現役で読んでたし、1話から終わりまで何度も読んだ。すばらしい作品といってまちがいない。特に絵のうまさ、筋の滑らかさ、人物造型の巧みさ、非の打ち所がない。難点といって序盤でエロあるくらいだ。
 これは『西遊記』を下敷きにしてあるのは皆さんご存知のとおり。いや知らないかもしれないけどそうなんです。『西遊記』も有名ですね。これも小説(リアリズムでない物語)です。つまりフィクション。しかし大変面白い。こっちのアニメもありましたよ、多分。僕が子供のころ。まあ面白い小説は面白い。
 でだ。『西遊記』は、これまた『大唐西域記』を下敷きにしてある。これは地誌と書いてあるけれども、実話というか、偉い中国のお坊さんによるインドへの旅を弟子らが記録したもので、要は日本でいえば日記? 旅日記である。多分、ほとんどの人はこれを原文読んでない。僕も読んでない。おわかりでしょうか?
 なにが? 小説なり物語なり漫画なりといったものは、面白おかしく実話を下敷きに、ウソはウソとわかるよう大幅に脚色して書き直したもの、なのが基本構図なんですね。これをフィクション、虚構という。おわかりですか?
 まだわからないですね? 僕がなにをいいたいか。2つ目のポイントです。
 歴史家だってちゃんと実地検証で真偽を実証したり、散逸している資料を集め厳密に読み込んで俗説とそうでないのを分別する考証を深めたり、主観を廃して客観的事実だけ記述する一流のもいる。他人が書いてあるのをそのまま写して間違い伝達するわ、資料も適当に読むわ、主観だらけだわ二流なのもいる。
 小説家もそうです。
 おわかり? いわなくても? 一を聞いて十を知ったか。知ったかぶりか。
 説明しよう。なんで僕が遼太郎は雑魚だといってるかというと、こいつはフィクションがなんたるものかをさっぱりわかってないのである。小説家はウソを書く。だからウソをウソとわからせる必要がある。
『西遊記』がおもしろいのは、現実にいるわけない沙悟浄(サゴジョウ)だの猪八戒(チョハッカイ)だの、お師匠さんにあたる三蔵法師のまわりにすばらしくキャラ立ちした印象的な登場人物を配する。そんで、『ドラゴンボール』に受け継がれている、この構図。ウソはウソとわかるようにね。孫悟空も。
『ドラゴンボール』だと、お師匠さんのほうは偉い坊主じゃなくて亀仙人とかいう好色爺さんになっており、この時点で漫画なのだが(仙人は普通、俗世を離れて悟った人で老子がモデルすからね)、ほかにもチョハッカイの代わりに名前忘れたけどあの豚でてくる。検索結果 ドラゴンボール 豚 ウーロン。
 大体、人物名からしてウーロン茶だからウーロンとか、プーアル茶だからプーアルとか、中国文学のフィクション状になっていてわかりやすい。飲茶(ヤムチャ)とか。桃白白(タオパイパイ)とか。これがなんの中国語なのか不明だけれども、まあフィクションだとわかる様に書いてある。それはえらいのだけど当然だ。
 で。

 司馬遼太郎がなんで坂本龍馬という実在人物をモデルに『竜馬がゆく』を書いたか。まあさほど有名でない。無名だったからなんですよね、家康とかに比べると。それだけ簡単に脚色してしまえることになる。つっこみいれる前にみんな大して知らないからである。
 おわかりでしょうか? まだか。
 つまりだ。『新政府綱領八策』のどこにも、大政奉還の事なんて書いてないのである。驚きですか? 僕はそりゃそうだろうなとおもいます。しかし、下手すると近現代の歴史教科書(!)すら、驚くなかれ、小説を史実として書いてあったりするんですよ? そんだけ三流の歴史学者しかいなかった近代日本。
 ドンだけこれが笑えるレベルかというと、マンガ国家というわけである。教科書で、孫悟空が実在したと書き、三蔵法師に大政奉還を建白し、三蔵はこれを受けた。とか。チョハッカイを通じ孫悟空は地球防衛軍を依頼、ついに三蔵はみずからの幕府権力を維持する為、大政奉還の挙に至ったとか。こんなです。
 これ素人レベルじゃなく、大学教授のレベルがその程度ということなので、本当にそんなのが偉そうに歴史教科書検定とかいってるんだから悲しくなりますよ。光圀がみたら、こりゃダメだと彰考館復活するでしょう。すぐ。そうしなければなりません、すぐ。本当に。それだけひどい。ひどすぎる。むなしい。

 史実のほうを書くと、慶喜当人が公伝とかその他の口述筆記『昔夢会筆記――徳川慶喜公回想談』でいってるけども、いろいろ建白してくれた(将軍まで意見あげてくれた)のは、横井小楠という人でした。この人は優秀な学者で、いわゆる親藩でも偉かった松平春嶽の顧問だった。それで公儀政体を慶喜に奨めた。
 ちゃんと書簡が残っているが、『国是七条』(1862年)という横井の筆に、この部分が残っている。つまり国会思想の原型は、確かに慶喜が進んで主張したのではあるけど、文書記録としては横井のこの筆が初出かもしれない。
 慶喜が自ら大政奉還したのはこれ読んで5年後の1867年11月9日である。
 で、慶喜当人が坂本なんてしらんわ、といってるけど、これは真実である傍証があって、そもそも横井は『国是七条』に大政奉還について一言も書いていない。皇居にいって天皇に謝ろうぜといっている。どういうことかというと、攘夷戦争したら日本ぶっつぶれるし、ま無理っすわ、ゴメンちゃいといおうと。
『国是七条』冒頭の
一、大将軍上洛謝列世之無礼
これである。
 これ将軍として謝ろうぜ、といっている。将軍やめようとは書いてない。いいかえれば、慶喜は真実、当人が俺が将軍やるならそれは幕府やめる時、わかった上で俺に頼んでねといっていたのだ。大政奉還のアイデアは慶喜自身のものだった。
 なんでこれが明らかといえるかだが、そもそも当時の武士は、維新後に路頭に迷う結果になった。実は慶喜はこれを最後まで案じていたのが公伝でわかる。もしまだ15才くらいで判断力がない明治天皇のもとで、いわゆる摂関家がちゃんと政治やれてたら、各地の士族反乱というのはおきなかったはずである。
 大政奉還は今でいうなら大規模リストラにつながる。徳川の下に全大名は配属されていたので、簡単にいうと首相が「もう日本政府やめます」といって、全国の公務員は「え、俺どうなるの?」といきなり無職になりかねない状態である。まず、大政奉還を公務員自身が奨めてくることなどありえないのである。
 それで慶喜の脳内だと、この横井の利口な考えであるところの国会(公儀政体)を、各大名が貴族院議員の立場でやればいいじゃん、と考えた。どこの国でも同様の貴族院があって、フランスでいう右翼(右派。議長からみて右にいた)を形成している。なら日本もそれでいいジャンと考えるのは自然だ。
 そんで、まあ大名の下に大勢ついてるサムライ(公務員)をみんな首にしたら全員路頭に迷うから無理だけれども、とりあえず対外戦争したら欧米列強に日本が支配される結果になる大敗戦は100%確かなのだから(その時点の国力差は明らか)、人的被害を予想し、国会で全大名近代化しようと当然になる。

 ところがである。ここで孝明天皇がしんでしまわれた。崩御。残ってるのは15才くらいの明治天皇であり、まあまだ子供であるからして国策を判断できる状態ではない。このときのために摂関家がいる。しかし、なんと岩倉具視という成り上がり公家と、鹿児島・山口のヤーさんが無理やり皇居を牛耳った。
 岩倉自身が維新後に言ってるんだから確かなことだが(いま手元に本ないけど、アルジャーノン・B・ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』か、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』にその記述あったと思う)、意図的に慶喜にぬれ衣きせた。岩倉いわく、どうせ慶喜は賢い人物だから天皇と戦うわけないと。
 岩倉は当時の公家では一番あたまがいい。ただ狡賢い面しかないけれども、公家ってそういうもんだ。小利口であって大利口ではない。それで鹿児島と山口からでてきたアホのヤクザを煽って、東北まで攻め込ませてしまう。慶喜はそれはおよし、といっていた。でも天皇とバトルは家訓に反する。無理だった。
 岩倉とか慶喜とかは、まあ国政以上のことを考えられた当時の政治中枢にいた人物で、岩倉は公家の中での最高実力者、慶喜は武家のそれといっていい。実際、上述のような心的攻防が普通に史実としてあったのが記録されているのだから、いわゆる幕末史で語られてる雑魚の蛮行なんて全く蚊帳の外だった
(蛮行ってなに? と後世からみえるかもしれないが、私の生きていた時代では、幕末ネタといえばNHK大河ドラマだろうが、東京関西中国四国九州、あるいは東北ですら、およそ水戸圏以外どこでも、一応学があるふりしてる文化人と称する人達の話題であれ、知事レベルでさえ、先ずもって薩長兵の会津との喧嘩しか注目していなかった)。
 結局、慶喜は光圀の哲学に従った。すなわち武家(将軍)の仕事は皇室を守ること、したがって光圀が皇族、公卿らに平身低頭し三顧の礼で迎えた史実の通り、摂関家の元にいた明治天皇の勅を実際には岩倉一派が偽っていたものの(倒幕密勅なんてなかったので)、少なくとも形式であっても慶喜も公方を尊重した。
 三顧の礼のつかい方おかしいといわれるかもしれんが、将軍は、中国だったら家康の時点で、皇室と公家を滅ぼし去って、自分が新皇帝になるのが慣わしである。ところが将軍、武家は飽くまで世俗権力だし、天皇の臣下でなければなりませんよ、と光圀は(伯夷叔斉伝から)考えたので、換骨奪胎してある。
 まあそれでもつかい方かなりおかしいかもしれんので、とにかく天皇皇族公卿公家に対して光圀はしたてにでていた。これは宗家とは全然違っていた。宗家はかなり上から目線で公家方を締めていたのは、歴史教科書の通りで、「公家諸法度」の統制からはじまり幕末の大老井伊直弼による大政委任論まで至る。

 慶喜公はこの後、内乱はよくない、そもそもそんな場合じゃねえんだから、俺はどくから、天皇陛下がここにいらっしゃるならみんなその元にまとまれよ。いいね。わたしはもう水戸に帰る、とおっしゃった。江戸城が皇居になったのはこのためであって、万が一にも、勝海舟と西郷隆盛の談判のせいではない。
 確かにしたのほうでは勝はよく働いていた。これはみな知っている。西郷は最初から最後まで陰謀ばっかり、テロばっかりしかけてた本当にろくな人間ではなかったが、このときだってイギリス公使もフランス公使も慶喜に、西郷一派を叩けよといっていたのである。西郷はそれだけ蛮行三昧していたのである。
(前掲書にサトウがこのときの様子をちゃんと書いているので読んでください。イギリス人はサトウレベルの平民も、いざとなって紳士協定に反するのはうべなえぬ、大体がナポレオンすら島流しでしかないのに、なんも悪事したでもない慶喜を引き渡せ殺せと西郷がいうが、ヤクザの味方はできないと怒った)
 ぬれぎぬ着せてころしちまえなんて、西郷隆盛くらいしか考えそうもないアイデアである。でも最初からこの人物について史実を史実として追いかけたことがある人なら、ああ西郷ならやりかねんとすぐわかる。この人も、小説やドラマで書かれるのと実像がまるで違う第一人者といっていい。まあヤクザ中のヤクザ。
 現実の西郷が、戊午密勅の捏造からはじまって桜田烈士裏切りとか、関東内乱の誘導とか、まあ会津に媚びて長州叩きと思ったらすぐ手のひら返して坂本通じて武器奪い、陰でてぐすねひいて将軍も皇室も手玉にとってだまそうとするわ、あげくのはて部下があばれるから朝鮮せめろとかろくなことやらん。
 いやそれだけでなく、このポイント2の項で書いた倒幕密勅すら西郷らの偽書。最後に明治政府すら裏切りだして、自滅にいたって死ぬ。でも自業自得と思う。西郷の実像はいずれ自分が史実だけ書かないと、ほんと僕んちにあった西郷どん系のマンガとか、子供のころ信じてたけどもうそ八百でわらえてくる。
 まあ西郷隆盛はここの本題ではない。この人をなんの偏見もなしに史実だけ丹念におっていってみれば、僕が今なにをいってるかもすぐわかる。小説とかフィクション系は完全無視してくれ。そうすれば誰でも同じ結論にたどりつくから。

 で坂本だが、大政奉還と同じ年に『新政府綱領八策』書いてるのだ。
 わかるだろうか。遼太郎の小説なんて嘘っぱちなのが。その上、この現実に存在する『新政府綱領八策』のほうに大政奉還自体かいてない。そもそも同じ年、しかも大政奉還と同じ月に書いてるんだから、船の中で書いたなんて虚構だし、起源にすらなりえないのがまことの史実とおわかりになりましょう?
『新政府綱領八策』の冒頭は
第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
である。有名人を集めて顧問にしたら? と書いてある。こんなのポピュリズムじゃんというわけで、思想家としては雑魚でしょう。しかしこれが坂本の実像。慶喜が「そんなやつしらん」といった理由がおわかりになりましたか。
 遼太郎は船中八策だ~とか大嘘まきちらした。そのくせウソをウソとわからないようばらまく、これ、小説家としては大罪である。本当は、歴史小説は『三国志演義』が史書『三国志』を脚色してあるよう、ああこの歴史をこう脚色したんだね、アハハオモロとわかる様に書くのが、普通のたしなみなのである。
 むしろ、150歩(維新からの数え年)ゆずって、慶喜に示唆を与えた建白書があったとしたら、横井の『国是七条』だったんですね。船中八策なんざウソであって実在すらしていない。書簡のこってないんだもの。あるのは大政奉還と同じ月にかかれた、小泉息子応援系のいかがでしたかSEOアフィブログ記事みたいなもんである。
 まあそこまでいかずとも、この坂本『新政府綱領八策』にも全くゴミでしかない点以外にも一応意味ある箇所が残っている。横井・慶喜による国会論を延長させ、二院制を主張してある。つまり貴族院だけでなく庶民院もつくろうぜといっている。僕が坂本嫌いなんじゃなく史実を読む人とわかってもらえたか。

 2つの重要点を語り終えたので、いよいよまとめに入る。
 この徳川慶喜という人は本当に偉い人物である。しかしこのひと、いにしえに出ていたら完璧に美化されていたろうが、150年前に生きていた。歴史上、最後の将軍にして世俗的な日本国王としては最後の人物である。最近なので記録が相当ある。
 僕にいわせてもらうと、この人は、まあ堯舜、伯夷叔斉に並ぶだけでなくて、業績の偉大さからいったら彼ら神話上の聖人を超えている。ウソだとおもうなら世界史をちゃんと読み返していただきたい。自分から最高権力ゆずったなんてきいた事ない。これが書きたかったんだけれども居るなら教えてほしい。
 で、三流の小説家が馬鹿みたいに史実と虚構をまぜて、どっちつかずの事をまきちらしたせいで、慶喜が現実にどういう人だったかを、そういうエセ資料モドキのフィクションまがいから知るのはとても難しくなっている。当人の残した記録、口述筆記を基礎に、現実に彼がどう行動したかだけ追うしかない。
 単なる行動だけを追っていくと、当然だが、天狗党の処理でかなりポシャっているのも見つかるだろう。すなわち地元から慶喜頼って御所まで進軍してきたかつての同期というか、まあ父の教えを真に受けた尊攘派を、天皇守る役割に就いてたので「俺とやるのか? 刀を捨てろ」と出て戦わずして降伏させた。
 そこまではいいのだが、このあと田沼意尊という意次の末裔の人に、投降済みの人達(老若男女)をゆだねちゃったので失敗している。この田沼はサイコ野郎だったらしく、降参した人達を何百人も拷問で餓死・病死させたうえ首チョンパしてしまった。慶喜は忙しくてすぐ京都にもどってタッチできなかった。
 ほかにも、第一次長州征討のとき馬乗って先陣きって戦っていた。これはまあ天皇がやれといったのでしょうがない。しょうがないどころか勝利を収めた。武家の本性である。その時の将軍は家茂クンである。
 だが第二次のときは慶喜が将軍になっていたが、さっさと撤退し、天皇に相談し終戦させている。
 これ、歴史教科書だとあたかも幕府軍が負けたみたいに書いてあったりするけど、事実に反する。本当は、戦況をみて慶喜は天皇に長州ゆるしてやりましょうぜ、ともちかけ、実際その様なご達しをもらって終戦したのである。天皇の命令で征討していたのであり、征討の終息宣言を天皇自身にさせたのである。
 ここの理由は、三流歴史家というか大学教授レベルだと、普通に勝手に主観で推測してかきちらしている。でもそれって歴史学としてはやってはいけない。証拠がないことを書いてはいけない。教えてはいけない。だってウソなんだから。あなたがそう考えるとか全くお呼びでない。ここ間違えてはいけない。

 史実だけを言うと、実は水長同盟というのが薩長同盟のはるか前にあり、西丸帯刀と木戸孝允らが丙辰丸の中で成破の盟約というのを桜田門外の変より前に結んでいる。より重い立場の御三家の水戸が負担背負って幕府潰すからきみら外様の長州はより簡単な役割で幕政改革すべし、と事前計画済みであった。
 なんで水戸と長州がこの契約してたか。実は殿様同士が同じ皇族から奥さんもらっていて親戚でした。だから水戸と長州は頻繁に連絡とっていた感じというか、安政大獄よりまえに関鉄之介らも遊説にいって尊攘同志えていたし、天狗党へも長州側が使者まわして匿ってやろうかっていってきたり、実際慶喜も終戦したよう、なんというか幕末全体にかけて協力関係に等しかった。
 そもそも雄藩を国政参加させようと斉昭(慶喜の父)が幕府にもちかけたり、弘道館に松陰を留学させ水戸学講義したり、松陰も獄中で水戸の盟友が心の支えみたいなの書いてるのは必然というか、尊皇攘夷の基本理念を共有していた。共有どころか水戸の学者が彼に教えたのである。それだけではない。
 これも一般に知られていない話だが、上述の天狗党はいきのこりがいて本圀寺党という慶喜の藩屏というか部下のサムライとしてはべっていたのだけれども、この慶喜の部下達のボスが戊辰戦争で西軍の大将というか道案内(東山道軍総督府大軍監)やっている。だれかというと香川敬三。
 いわゆる新撰組は最初、尊皇攘夷を目的に、僕の地元人であるところの芹沢鴨さんによってつくられた。芹沢さんは水戸学で教育されているので、慶喜の母方にあたる皇族に仕えにいった。だがこれ、直属の上司であった容保には理解されなかったとみえ、呼び出しくらった。で好機と見た江戸組に暗殺される。
 会津武士道は将軍第一であって、水戸武士道と違って天皇第一ではない。芹沢の行動記録がこないだ宮内庁資料で明らかにされ、吉子女王(慶喜の正妻)のおうち有栖川宮に部下従え仕えに行っていた。が容保からみると「俺と皇族どっちに仕える?」とすれ違いがあったのだが、江戸組はのっとりに使った。
 で、この有栖川宮というのは、毛利家にも嫁いでいる。だから芹沢は水長同盟を着実に履行していたともいえる。

 要は芹沢は主家筋にあたる慶喜の奥さんの家に仕えていたのだが、間接的に毛利の母方にも仕えていた。
 で、この新撰組のっとった江戸の近藤勇一派だったわけだが(僕はこの近藤の地元だった調布あたりに住んでたんで、彼が参ってた神社とか近所だったのだけれど、芹沢が養子にいった北茨城の神主の家がある辺りも近所で、どっちの出自も体感的にわかる)、実は上述の香川からいわば仇討ちされてるわけだ。
 回天神社のとなりにある常磐共有墓地いくとわかるが、香川は桜田烈士の蓮田一五郎の墓に揮毫を寄せている。この蓮田は烈士の中でも、僕は一番感じ入った人物で、悲劇性からいったら最大のものがある。岩崎英重『桜田義挙録 : 維新前史』は幕末史を知るには必読書だが、蓮田の項目は涙なしに読めない。
 涙なしには読めないというのは修辞で、現実には涙以上に心痛を感じるというか、本物のサムライはこれほどの悲運に耐えていかねばならないのかと、作り物ではない武士道に心打たれる。史実は小説より奇なり、を端的に代表する人物といっていい。そして通俗小説家が誰も彼を追わず無名で終わっている。
 たとえば蓮田の置かれた運命に比べると、高杉晋作とか大久保利通とか、本当に全く話にならないくらいしょぼい。高杉は武士ではなかったのもあるだろうけど、本物の武士はやはり格が違う。歴史を知る者は、ちゃんと蓮田の記録辿ったほうがいい。自分は桜田烈士も全員追ったが、全員凄まじい宿命がある。
 この文で、日本人全員になりかわって自分が後世に伝えておくが、武士で目立って賞賛されている者は、十中八九、大人物ではない。なぜそうなのかだが、孫子が真の勝負巧者は無名といっているが、徳についても同然のことが言える。俗受けするのは徳の賊で、高徳の位が高くなるほど密かに世を去っている。

 で、本旨にもどると、慶喜が第二次長州征討を早期にきりあげたのは、前述のよう水長同盟の文脈が背景にあったのが事実だろう。何しろこの直後に慶喜は大政奉還し、みずから幕府を倒す人物になる。この意味で同盟に於ける水戸の役割は果たされ、その後、今日まで長州閥が新政府の基幹になったのだ。

 ここでは慶喜が江戸城を天皇に、宗家を家達に譲り、水戸に帰ってからどうなったかについてまで、論の本旨を逸れるので詳しく書かない。史実として、慶喜は帰ってきた水戸では至善堂に篭もっていた。もともと弘道館で実質的な最奥にある至善堂はその『大学』からとった由来からも貴公子の宿所にして勉強部屋になっていた帰郷の期間、約4ヶ月にわたる
 至善堂に架けられた羽石光志『徳川慶喜肖像画』はこの間を想像して、慶喜の読書像を描いているとおもわれる。

実際にかれが至善堂で読書していた可能性がある一つの理由として、少なくとも記録に残る限りむしろ熱心に武芸に励んでいた幼児期に比べ、成人後に勉強家であったのは事実である。
 かつて小御所会議後に天皇から呼ばれ御所に向かった慶喜だったが、進軍中に通せんぼした薩摩兵らに発砲され配下がこぜりあいになる前に、拠点にしていた大阪城でも『孫子』を読んでいたと公伝で語っていて、これは確かなことであろう。
 慶喜はもっと若いころ大老から不条理な謹慎を命じられた時も(戊午密勅は陰謀たくらむ西郷が公卿に駆け寄り書かせた偽書だったのに、猜疑心に駆られた井伊から水戸学派に冤罪きせられたとばっちり)、いわば負けん気と当人が公伝で語っているが、窓を閉め切り示威行動かのよう本気でひきこもっていた。
 今度は子供のころから見知った地元の勉強部屋だ(7歳で兄らと御会読と呼ぶ読書会をしていた。1843年『弘道館御用留』)。
 海外には植民地化を狙う欧米列強、国内には慶喜から禅譲された天皇政権を(孝明の崩御により、まだ10代の明治および摂関家の手から)確実に簒奪するべく元将軍の命を狙うテロリスト(のちの薩長藩閥)と、四方八方に敵がうごめいていた京阪でのあの国家的危急時より、まだ心に余裕はあった筈だ。

 その後、いわゆる会津を守りにいっていた諸生党が帰ってきて弘道館の戦いになる前、無用な政党争いの渦中に巻き込まれるのを避け、慶喜はみずから、家康の隠居所があった静岡へ移った。

 私が是非とも残しておきたかったのは、慶喜に着せられてきた汚名のうち、明らかに史実と異なる2つの点、つまり大政奉還と江戸無血開城は彼自身の光圀以来の家訓による天皇への禅譲であったのに、そうと受け取られていない点。そして大政奉還は坂本龍馬の考えになるという明らかな虚偽の点を正す文だ。