2020年1月1日

あの世の学堂

一流以上の学者・芸術家とそうでないのを見分けるのには、次の仕方をつかえばよい。
 先ずその人が「あの世」で、過去の偉大な学者・芸術家らの談笑する場に入って、普通に重要な一員としてふるまえるかだ。これが決定的なものと思う。仕事の質で過去の偉人に匹敵していなければ、存在が無視される。

 現実にその様な場があるかはわからないが、「あの世」に死後の人類全ての魂が保存されており、ちょうどラファエロの『アテネの学堂』の絵みたく、彼らが喫茶店で談笑してその後の人類どうなりましたかねえと言っている空間があり、マルクスやアインシュタインと会話できたとて、自分が必然に必要かだ。
 
ここで脇役でしかないとしたら、人は一流以上の仕事を成し遂げたとはいえない。が場の全員が「あいつどこ?」といい、発言に一目置かれたり、一挙手一投足すべてが注目されていたら、その人は偉業を成し遂げた後だろう。
 イエスやソクラテス、孔子、ブッダ、ムハンムドらに会える場があったとして。

 こうしてみると、現世の世俗的ありさまは、全く仕事の価値を評価できていないのがよくわかるはずだ。「全く」である。たとえばこの人類の学堂にホーキングがいたらみんな「いたいた! ブラックホールの調子はどう?」というが、ノーベル物理学賞とってる大抵の人達は名前すらろくに覚えられていない。
 逆に、アインシュタインはまず確実にホーキングのところに行って話を聴きたがるに違いない。これはほかの分野にもいえて、一流以上の次元というのが確かにある。ダビンチはあの世でピカソやモンドリアン、ポロックらと並んで「ああ~壁のシミかあ。惜しかったな俺」(抽象的な模様を具象物に還元するパレイドリア現象と、シミのままで使う抽象画は本質的に発想が違う)と嘆くはずだ。

 よくトップは孤独だという。これは一流以上のレベルに到達してる人は同時代にほとんどいないからである。だから飛びぬけて優れた一人とか二人とかしか、最重要人物としては、世界史に記録されない。VIP中のVIPサロンは、実は「あの世」の、人類の学堂としてしか存在しない。死後しかいけないのだ。
 ここで興味深いこととしては、その学堂の様子をよくみてみると、楽しく談話している人達が極めて個性的な事実である。まるでそのサロンは特別な人格の標本市みたいで、眺めているだけで驚くべき議論が展開されていく。そしてなおさらすばらしいのは、待っていればさらに面白い人物がやってくるのだ。

 人類の学堂のひとかどには政治家の集まりなんかもある。アレクサンダーやナポレオンが、家康、ワシントン、あるいはフビライや始皇帝らと口角泡に討論しているわけで、極めて清談の質が高い。彼らが地球を見下ろしてトランプや安倍、習らを評するところ辛辣である。世界史は魂の濾過装置の様なものだ。
 われわれからみると、「安倍をそこに混じらせるな」と感じる。確かにそうだ。だから既にこの人は一流以上の仕事を成し遂げていない証明ができる。
 むしろ進んでその崇高なる神々のサロンに、われわれが自信をもって送り込める人こそ、ほまれある偉人であり、すなわち時代精神の象徴なのである。
 たとえばヒトラーとチャーチルは、あの世で「いや~地上は大変でしたよねえ」とやりあっている。マルクスやアインシュタインが通りがかり、「死刑!」といい「しんでるから」と返している。秀吉や伊藤博文が金玉均らに同じ様なことをいわれ、孝明天皇のそばで慶喜と容保が「まあまあ」とかいっている。

 業は消えないとブッダは言っていたが、これはあの世の学堂を想定すればまことに確かなことだ。魂、つまりある人達の生きていた働きが保存されているのは、実は実在するあの世ではなくわれわれの心なのだが、世界史の必須人物まで個性が完璧に発揮されていると、その心はほぼ永久に生き続けるといえる。
 うらをかえすと、われわれが十全に生きたなら、誰かの心のなかに無二の個性を保存してもらえ永遠に生きられるのだから死を恐れる必要は実はなにもなく、むしろ恐るべきなのは、個性を完璧に発揮できないことのほうである。信長が信長でなかったり、バフェットがバフェットでない世界を想定すればよい。

 結局、われわれの生まれた地球という星で、個々の人類はなにをすべきかといえば、この意味で、自分の個性が圧倒的になるまで飽くまでも自分の道を極めていくことといっていい。イチローと宮本武蔵はあの世の学堂で確実に語り合うだろう。だが途中で彼らが「普通の人」になっていたら様子は違っていた。

 勿論、自称普通の人、つまり、あまり目立った個性がないまま集団の多数派に埋没して、そのままこの世を去っていく人達の空間もある。そこで雑談してるほうが居心地がよい、という個性もいて、大体、邪馬台国民サロンとか、アステカ民サロンみたいなのがある。しかしそこはドラクエの村みたいなもんだ。
 RPGの村には名前が*とかの人がおり、彼らなりに面白おかしく退屈まぎれに生きているし、中には結構興味深いふるまいをしている人達もいるけれど(『マザー2』ならヒップをちらちら見ないでねとか痴漢冤罪キャラ)、やはり平凡に暮らしている事だけは疑いない。
 世界は個性的な人が一流なのである。