2019年12月31日

普段が全て

自分が東日本大震災などの経験から悟ったのは、「普段が全て」で、普段、ろくでもない言行をしている人達が、いざとなって急に賢くなったり善人になることは基本全くない。急場の人間がどう振舞うか観察したかぎり、本性を露わにし、普段邪悪な者はますます邪悪に、暗愚な者はますます暗愚になった。

 ゲイン・ロス(gain loss、得失)効果とよばれる心理があり、不良が急に善行すると普段から善行している優等生のそれより、効果が強調され感じられる(得る効果)。逆に、普段立派にふるまっている清純なイメージの俳優女優・政治家などが思わぬ醜行を暴露されると、これも強調される(失う効果)。
 つまり、われわれが「本当はいいひとなんだろう」みたいに、ある種の不良をみてしまいがちなのは、この心理的偏見のせいである。しかも、自分が性善的だと、基本ひとは他人を自己の中にある要素の延長上でしか想像できないので、主観を投影し、つい他人も本当は善良なんだろうと思い込みやすい。
 たとえば、僕はきわめて性善的なほうに属する人格であり、性悪の考え方が基本的に理解できない。だが逆に、性悪な人は、こちらが全く理解できない。なぜなら彼らは他人が彼らと同じ様に、罰されたりみつかりさえしなければ常に悪事しようと考え、利己的に行動するものと思い込んでいるからである。
「普段が全て」とはまさにこれで、性善から性悪の濃度を想定すると、人はつねによい行いをしたい、他人をより得させてあげたい、自分はまあ後回しでよいか、など善意で行動している人から、つねにわるい行いをしてやろう、他人から多くむさぼってやろう、自分さえよければいいと行動する人までがいる。
 急場がくると人は命の危機と焦って、ますます本性のままに行動しようとする。性善な人はここで善行しきらないともう二度と善行できないぞと考え、決死で利他的にふるまう。しかし性悪な人はここで死んだらもうおしまいとますます他人など無視し自分だけ得するべく、傍若無人にふるまう。ゲインロスはまれだ。

 最も典型的な例をだそう。どちらも当人達が死の直前までおいつめられどうふるまったかの差だ。
 茨城のJCO事故で臨界がおき職員が対応を迫られた。一度は逃げ出したものの知事らに責任を問われ、数人の職員が覚悟を決め青い光をみながら事故を手動で終息させた。結果、首都圏は救われたが職員は死んだ。
 福島原発事故でも建屋の水素爆発が迫り、排気の必要があり東電職員らは対応を問われた。数人の職員は自力で臨界をとめるべく中枢部まで進んだものの、ガイガーカウンターが鳴り続けそれより進むと被曝で死が確定する地点まで行くと、臆病風に吹かれひきかえしてしまった。こうして福島東部は被災した。
 これらは道徳の次元で、自己犠牲をはかってまで利他行動するか問われた案件である。法的責任の面ではどちらも罰が未確定だった。

 なぜ急場で差があらわれたのか。

 私の意見としては、かれらは普段の行いの時点ですでに、利他を利己に優越させる癖がついているか、つまり義務感が違ったのである。
 自分は偶然にも、これら2つの原発事故があった両地域にはさまれる中間地帯で生まれ育った。よって両方の地域的特色差も十分にわかっている。
 一方は水戸武士道が支配し、一方はいわき浜通りののどかな土地である。前者は誇り高く忠義に死ぬ行為を潔しとし、後者はほのぼのニコニコ生きている。
 つまり、「普段が全て」とは、日常のあらゆる振る舞いの時点で、すでに人は全然ちがうので、いざとなるとその差がますます大きな落差を伴ってみえてくるだけなのである。それは現実にみると、ぎょっとするほどの大差としてあらわれ、しかも二度と元通りにならない。それが文化というものの本質なのだ。

 文化ははじめある個人の癖から発生する。癖が習慣になり、やがて風習になると、文化と呼ばれるまとまった単位に近づいていく。
(後世ではすでに変わっているかもしれないが、現時点でエスカレーターでどちらに並ぶかなどがこれにあたる。関東と関西ですでにちがう文化があって、関東では左に、関西では右に乗り、片側を急いでいる人が駆け上がるために空けておいた。
 関東側のその風習をこじつければ、150年前には通りを闊歩していた武士も刀を左に差しており、ぶつかって喧嘩にならないよう左側を歩行する風習があったのに、一つの起源が求まるかもしれない。最近では安全対策としてどちらにも立つ様に変わりつつあるが)
 さらに文化が一定期間つづくと伝統とよばれ、むしろ変えるほうが難しくなる。
 そうであれば、われわれはよりよい伝統をもつよう努めなければならないはずだ。最悪の伝統をもっていれば、その改善だけでもはなはだ困難となり、信じがたい苦労をしなければならないし、別の集団では最善の伝統が生きているので、癖のままにふるまえば何もしなくとも感謝と誉れが集まってくるだろう。

「普段が全て」とは、この癖の出発点において、つねによい行いだけをして、わるい行いを一切しない事に尽きる。この本質をいいあてていたのは、釈迦とよばれるガウタマ・シッダールタであったのだが、実際にやってみようとすると、われわれの癖がいかに自分の良識にすら逆らうかかなり難しいのである。
 たとえば糖尿病になるとわかっていても清涼飲料水を飲みたい。人は原始時代に糖類が貴重だったので甘みとして感じるよう進化しており、血糖値上昇で一時的高揚感が得られ、しかもメーカーはカフェインまで添加してわざと中毒症状でくり返し購買すべくしくまれている。よい癖はしばしば本能にも逆らう。

 ひとの個性は様々なので、各々の生まれ育った環境下でなんらかの癖を身につけているが、その中でも最善の癖から最善の伝統がうまれる。ではそれはなにか。
 色々な哲学者が最善を定義したが、結局、冒頭に述べたとおり、利他性(他人を利する性質)をつくりだす癖がよい癖、よい伝統だといっていい。
 日常語の範囲でも、われわれが「よい人」「いい人」と呼ぶのは、他人の得になるなんらかのふるまいが板についている人をさす。これとは逆に、「わるいやつ」「よくない人」は、他人に害になるなんらかのふるまいをして恥じない人をさす。これらは利他性の有無といっていいだろう。当人の得失ではない。
 すなわち、「普段が全て」とは、普段から利他的ふるまいを自分に癖づけている人こそ、最善の伝統をうみだす意味なのである。ちょうど孔子が70歳を超えてから、思うがままにふるまっても節度をこえなくなったといっているのは、かれの癖づけが板につき、利他性にもとる行いを意識すらしなくなったのだ。

 われわれの社会にはあまたの法律があって事細かになんらかの行いを規制してある。法学者すら網羅しきれないほど法が煩瑣なのは、利他的ふるまいの癖がついていない人が多い社会、すなわち他人の迷惑をなんとも思わない人が多い社会だからだ。逆に理想的なのは法三章といわれ必要な法律が少ない社会だ。

 私の一生のうちでも最大の文化衝撃の一つは、ある英国人がジョークと呼ぶものを言ってきて、われわれの社会ではほとんど見聞きしないほどまれな犯罪類型をしてやるぞ、と脅迫じみたことをいうのだが、それに彼ら北欧人は爆笑している。だが日本からみるとそんな犯罪まずないので脅迫にしか聴こえない。
 もし日本で「ああ疲れたな。今から切腹するわ~」と公然といえば、誰でも冗談をいっているとわかるものの、もし英国でそれをいえば非常に驚かれるばかりか恐がられ、なぜ自殺する? と真面目にたずねられるかもしれない。別の伝統の下では、道徳の次元が全く違う例である。つまり普段が全てなのだ。