2020年5月17日

天才と秀才の違い

天才と秀才は種類が異なっている。これは至言だと思う。例えば漱石の『文学論』に出てくるが、実際、自分はこれについて山ほど言わなければならない事が鬱積しているにしても、この事実を知らない人達は、いわば天地をとりちがえているに等しい。
 自分は今にして思うと、別の国ではギフテッドと呼ばれる種類の脳の特性をもっていた可能性が非常に高い。これを書く直前までしばらく寝て色々過去をおもいかえしてみていたのだが、自分の人生の殆どの部分が、日本という極度に集団圧力の強い(いいかえれば悪意の)集団で、その種の脳の持ち主が陥る悲劇の連続だったと思う。
 自分は既に幼稚園の頃、そこが地獄だと感じていた。少々大袈裟にいえば周りに群れている人達(園児)がサルにしかみえないし、ほぼ同等の事は、幼稚園の先生のほぼ全数(自分を庇ってくれた一人の女の先生除く)に対してだけでなく、小中高校、専門、大学教員にも感じた。それを現実で他人にいったことはない。しかしこの感覚自体がギフテッドの証だった気がする。
 上記した所でわかるかもしれないが、自分にとって日本国という島国、少なくとも自分が参加した(させられた)凡そ首都圏辺りでの全集団経験は、文字通り地獄的なものだった。これは大げさにいっているのではない。そして自分はつい最近まで、他人もそう感じている筈だというある種の人間主義の前提に立っていた。
 しかし、COVID-19が流行しだしたつい数ヶ月前頃から、自分はある悟りに至った。これまで散々自分を苦しめてきた(当人達は凡愚さの余りそう感じていないらしい)集団は、どうやら自分と根本から違う二足歩行のサル(精確には類人猿の進化した変種)達なのだと。それは決して同類の集団ではなかった。
 脳科学の見地から事態をより精密に理解する必要があるのも確かだが、現時点までで自分に幾らかわかっているのは、ギフテッドと呼ばれるだろう脳の持ち主(将来的にはもっと精確にその内部分類ができるだろう)は、実際に、他の人達となりたちが違うのだろうと思う。自分は特に感受性の面でそうだった。
 特に、と書いたが、自分は感受性以外の全ての面で、「周りがサルにしかみえない」ほど違う種類の集団にほうりこまれている様であり、そのあらゆる違和感の中でも最たる物が感受性というだけである。調度、いきなり違う惑星になげこまれた人類が極めて野卑な動物園の中で戸惑い続けるのと完全に同じだ。
 その概念を自力で知るまで、といってもここ数年以内なわけだけれども、超繊細な人(Highly Sensitive Person)の特徴が自分の経験した人生の原因なのじゃないかと思っていたのだが、より精確には感覚性または感情性の過度激動 (Overexcitabilities: OE)の説明に記述されている感じの方が近かった。
 が、自分は単純にそれだけなのではない。自分の場合は、それなりの秀才を兼ねていたので、人生で直面する経験が更に相当程度、複雑になった。
 自分のきょうだい(姉)をみるかぎり自分と同質の経験は全然していない風なので、明らかに特異点のよう自分の遺伝にだけに起きたことなのである。

 先ずこれまで誰にも言っていなかったけれども、自分は小中学校から今入っている大学まで、基本的に授業は殆ど聴いていなかった。しかし少なくとも中学まではほぼ満点かそれに近い成績だった。授業中、すぐ課題が終わるので、その後は退屈なので無意識に、一人で物語の様な事を空想していたのである。
 それで自分には学校という場所は、親から強制されて通わされているものの、その殆どの時間はサルの様な同級生と同じ列に並べられた椅子と机に座って、すぐ終わる課題をやったら後は恐ろしく低レベルの話をききながしながら空想するためだけの監獄の様なものだった。自分はずっと監獄にいたのである。
 なぜ自分がその事を誰にもいわなかったかだが、これも自分の特殊性だと最近まで気づかなかったものの、ある種の善良な(いわばカント的、人格主義的な)親による幼児からの無意識のしつけの故だろう、他人も同じ人間だと思い込んでいたので、みな似た様な経験をしているのだろうなと勘違いしていた。
 幼稚園の方も相当酷くて、ある幼馴染が暴力的な人物で(近所の建設業者の息子)、そのたちの悪いチンパンジー的存在から日常的に暴行されるのに凄まじい防衛戦を繰り広げ続けなければならないのにも関わらず毎日強制的に、車酔いし続ける自分には不利な幼稚園バスの条件下で通わされるというこれも深刻な地獄だった(なお最低でも3歳とかから小学校高学年くらいまで大体近所の子供集団で彼とも一緒に遊んでいたわけで、自分と特に仲が悪かったわけではない。かつ軽蔑していたわけでもない。別の箇所で詳しく書くが、彼にも危急時に於ける瞬時の判断など長所はあった。端的にいうと彼に暴力傾向があるだけで、その原因が家庭環境の違いなのか――自分が生まれて初めて受けたカルチャーショックでもあるが、総じて大人しい自分の家ではついぞない事であるが、彼の家に3歳の頃遊びに行ったら彼の母親が彼や彼の兄の頭を、食事だというのに彼らが言うこと聞かず夢中でテレビゲームし続けていたら、しつけのつもりかまあまあの強さで簡単に引っぱたいていた。彼がそれを常識とすりこまれ模倣したものなのか――それとも彼の遺伝なのか、それらの混濁なのかは、今の自分にはよく分からない)。

 とにかくその種の監獄(学校)生活は幼稚園を除くと最低でも9年間も続いた。成程、それだけ長ければ誰でも心は死んでいく。と、自分は思い込んでいたわけである。
 自分が長い学習の果てに気づいたのは、周りのサル達はその種の教育を「肯定的に」かつ「再生産的」にみているらしいことだった。
 また、自分が周りのサル(自称ヒト)とどうやら脳の何かのなりたちからして違う存在らしいと気づけたもう一つのきっかけは、ある自閉症の子と知り合って色々情報を仕入れたことだった。その子は自分とは全く異質な経験をしていたが、やはり学校、もしくは会社などの凡人組織を地獄的だと感じていた。
 その子は自分と違って秀才でもなかった。というかIQではかなり低いテスト結果が出たらしく、いわゆる落ちこぼれの部類として扱われていた、と言った。だが、自分と全く同じだったのは、学校・会社に溢れたサル達が自分へやってきたのとほぼ同等の邪悪な振舞いばかりしてきたという点だった。
 これで自分は照合ができ、学校・会社など日本的組織であれほど我が物顔に振舞っている悪質極まりないサル達(いわば自称普通の凡人たち)は、要するになんらかの個性に対して似た様な振舞いをするのではないかと気づいた。前から薄々勘づいていたが、それからやっと自分は人間主義を疑いはじめた。
 話をもどすと、ここは複雑になる点なので別の論考に詳述は譲るが、高校時点から憲法的な「義務」の範囲を超えたので自分はほぼ独学にきりかえた様なものだったのだが(故に授業中に自習し、試験は制度上こなすが教員自体は基本無視する様になった)、それではじめてまともに学習できる様になった。
 他のギフテッドの例に漏れず(自分もそうなら)、自分も勉強が苦痛だと思ったことは生まれて一度もなく、逆に楽しくて仕方がない。自分が苦痛だったのは典型的なギフテッド的特徴のようで学校の授業ペースが恐ろしく鈍臭く殆どの時間を空想に費やすしかなかったのと、興味がない科目の押しつけだった。
 自分の高校はある程度まで自由度が高かったので上述のよう自分の興味ある本(小説)を授業中にも通学電車内でも家でも読み続けられた。それゆえ学校に通わされることが小中学のよう、自殺まで考える程とんでもない苦痛・苦難・苦役ではなくなった。
 だが完全に自由ではなかったので、意地の悪い(というか医学部に一応いったやつであろうが頭の悪い)ある同級生から授業中に別の勉強をしていると数学教師にちくられ、興味のない科目に再び時間をとられてしまったり、そもそもある種の体育科目のよう下らない集団行動を強要されたりで全く苦痛がなくなったわけではなかった。
 つまり、幼稚園・小中学校までの地獄的監獄より少しはましになった程度だったものの、自分は、その高校がなかったら恐らく思春期も最悪級の苦痛を我慢し続ける過酷な受難を経験せねばならず、恐らくそれは発狂でなければ自殺以外の選択肢がないだけの、想像するに余りある地獄中の地獄だったろう。
 というのは、そのある程度は自由があった高校の経験の中ですら、疾風怒濤は自分には過酷度が凄まじい経験で、これも今にしておもうと感覚性・感情性の過度激動ギフテッド的なものが重なっていた為だったのだろう。猿的思春期はもっと気楽な経験そうなのは最近流行のティクトクなどで確認できるからだ。
 一言でいうと、自分はもし自由の国にでも生まれていれば、今より遥かにましな人生を辿れた典型的な人物だったろう。それは暗鬱な監獄に半生を縛られることもなければ、好きな勉学を果てしなくおこなっても誰からも攻撃されない最高の環境だったろうし、下手すれば大変ほめられ大金を得てすらいたろう。
 凡そ3才くらいから10代全体の経験を通じ、自分は日本という名の地獄(だがサル達には「いい国」らしい)に呆れ返ったので、それ以後、つまり20代からは、やはりどうみても自分より暗愚な面が大きい教員らを無視し独学は続けたものの、知恵もある程度ついたため組織を利用する立場に回れる様になった。

 自分は20代全体をほぼその種の独学に費やす環境を自力でなんとかつくりだしたので、自分で好きに、誰からも邪魔されず勉強できたその時間がこれまでの人生でこの上ない至福だった。
 震災経験を挟み学習を続けた結果として今に至るわけだが、上述の日本的組織のしくみを表も裏もほぼ解明できた。
 自分は特異な遺伝をなんらかの理由で与えられ、サル達の蠢く地獄から生還した初の生存者ではないか。自分と同等以上の苦痛を経験していきのこれるとは到底思えないからだし、実際に自分もぎりぎりの生還を果たしているだけでいつ何時みたびサル達の悪意が襲ってくるかもしれず恐れは更に高まっている。

 ではなぜこの記述をしたかだが、その人類的組織とは、冒頭から書いている通り「サル達」の集まりなのである。彼らは大概二足歩行だろうしヒトと自らを呼んで他の哺乳類や、類人猿より進んだ種とみずからをおもいあがっているが中身はより邪悪になっている。
 一般的なサルは原発公害で他のサルを虐げつつ巣にこもって餌(ヒトの餌はカネである)を貪りまくったりしない。攻撃性も、大量殺傷兵器や生化学兵器など持っていないのでゴリラですらもっと低い。単なる哺乳類間の比較からみて、ヒトの負の面が最も邪悪なのは火を見るより明らかであろう。
 然るに宗教もしくは思想、哲学といった言語の集まりの体系があって、その一部では人間主義が教えられている。というかその種の考えに他のサルを洗脳し、なんらかの利益をえているサルがいる。この目的に、あるサルは法や、日本人集団で「空気」「和」と呼ぶ倫理観(妄想の類だ)などで種を弾圧する。
 諸々の洗脳、つまり教育のうち、最もたちが悪い妄想の一つがこの人間主義であろう。上述したカントの人格主義はその人間主義の中でもハードコアの部類で、自分はこれに一つの彼の理想は認めるものの、現実のサル達に対してはひとかけらも有効性がない点ではカントが形式的と揶揄されるのも頷ける。
 人間主義(英語でいうhumanism)は、高がサルでしかない動物に、謎の同等性の妄念を重ねた実に悪質で、多かれ少なかれ事実に反する考え方なのだが、その極端な行き過ぎが国連の人権組織まで形成させているので、事態は深刻である。勿論、人権自体が妄想である。はじめは善意だったろう妄想なのだが。
 既に、自分の実人生で、上述の通り、人間主義は破綻し続けてきた。幼稚園の時点から他の人間はサル未満の振舞いをしてきていたばかりではない。それ以後も、自分に彼らは極めて有害であり続けた。36年間、基本的に例外がなかった上に今もそうであり、斯くなれば今後もそうだろうと想定される。
 自分が人間主義を凡そ完全に否定するに至った諸々の知見のうち、決定的な一つは、中学のとき帰り道で或る同級生がふざけて喧嘩を仕掛けてきたので正当防衛をはかった次の日、彼が体育教師ぐるみで自分を学級裁判にかけ、クラスメイトは虚偽の弁を弄するその同級生を無罪とし自分を冤罪に陥れた事象だ。
 人間の邪悪さを最もよく示す事例はイエスを磔にした新約聖書の逸話だろうが、自分は人間性と呼ばれる、ある種のサルの行動原理の理解としては、それこそ彼らの変わらぬ邪悪さの証明だと説明できると思う。彼らはマキャベリがいうとおり恩知らず、恥知らずで根本的に利己心しかもっていない集団なのだ。
 ウォーレン・バフェットが慈善事業に資産の9割ほどを寄付すると表明するに至った理由は、グレン・アーノルドの記述によれば彼の目の前で先に慈善に手をだしていたゲイツを過度に賞賛し、比較対象として彼が金満家にみえるようしたてた社交の機会以後だという。十分ありうる話だが虚構かもしれない。
 なにがいいたいかといえば、人は根本的に「アイン・ランド的な」存在であり、もっと簡素にいえば神や聖人ほど上等でないサルの変種である。だからこそ人間主義は不当な契約、もっといえば近代社会に飲まれた天才、わけても道徳的天才の桎梏に他ならない。その契約は不履行になるのが当然なのだから。

 もう一度冒頭の記述にもどる。
 天才は秀才ではない。後者の評価関数は凡庸なものだが前者はその関数が未知なだけでなく(というか大抵のとき量的に数値化できず)、自力でつくりだす特性をもっている。学校教育はどこまでも評価体系なので天才を育む事は永遠にない。天才には有害な洗脳教派である。
 ギフテッドという定義は、天才の一定部分を分類しようとする試みといいかえてもいいだろう。この試みが成功すれば自分と同等以上の苦しみを味わう生物が、このサルの惑星にまきこまれることはなくて済むかもしれない。それでも教育という愚かな洗脳の癖が消滅しないかぎり、天才の受苦は続く。
 もっというと、教育や、シグナリングを通じそれに根ざしたあらゆる組織や、偏見は、凡愚以下のサル達が高々秀才級のもの、つまりIQとか既に評価の定まったラットレースで少々足の速い者を選りだす程しか意義のない、根本的にロボット作り(byゆたぼん)と違いのない代物である。贋金作りなのだ、要は。
 私は、その種のロボット作りの工場(学校や会社、政府など)を一々解体していく作業を全てやり終える事はできない。その暇も労力も有限の一生では足りないからだ。しかもサル達の世話などもうさらさら御免なので(そもそもの最初から呆れていた)、理論的見地を伝えるに留めるつもりでこれを書いた。

 なぜ彼らサル達が似通った組織をつくりだし、型に嵌った凡愚の量産に努めているかだが、恐らく最大の原因は、日本では天皇と自称するちんけな教祖の存在がある。彼らについて後世は既に末路を知っているから語るまでもないだろうが、問題はもっとしぶとい資本主義信者らの場合である。
 天皇は収奪を目的にしたやくざの親玉でしかないのでサル達から退治される(後世から見れば既にされた)のも然るべきなのだが、資本信徒の方はもっと抽象的にマネーゲームでそれをやって方々に散らばっているので余計処理が難しい(難しかった)。だがこの問題も一部の天才が解決していくであろう。
 人間主義に基づいた不当契約の一部に、この資本主義ゲームが含まれる(現日本国憲法や国際人権規約など)。他のサルに奉仕しなければならない義務など本来ないからだし、だからこそ自由人主義者の正当性が担保される。例えば功利主義や福祉国家の類も、資本主義同様、不当な義務を前提にしている。
 上記の論理が正しければもっと酷い妄想が共産主義なわけだが、この論述に深入りすれば隣国を自見が発端で破綻させかねないので通俗的な(無才のゆえ殆ど実効性のない)自由陣営の政略に任せておく。場合によってはその種の亢進を急いで解かない方が、総じて人的被害が少ないかもしれないではないか?
 結論の様な物を書くと、自由人主義は少なくとも資本主義よりは随分正しい考え方だろうと自分は思う。その第一の理由は、人権含む人間主義といった誤った前提を国単位の権力機構で強要されなくて済むからだ。他人を自分と本質的に交換可能と思う時点で間違いなばかりか狂っているし、論理的齟齬が凄い。
 暗号資産が法定通貨をぶっ壊し、中央銀行が破綻するのは単に時間の問題だろうが、結果、資本主義の屋台骨の一つだった無謬の前提たる「人権」が決定的に否定されるに至るであろう。徴税できない資産が更に格差を広める結果、資本蓄積の加速は、自然権をもつ近代人の集まりを崩壊させると目に見える。
 自分はその種の社会的必然性とは別の理路で、つまり上述した様な感情的・直感的な経験則からほぼ類似の結論に辿り着いていたのだが、理論的裏づけも取れたといってもいいという話。
 未来は過去の単純な延長ではない。個性の認められる世界は平等教義が前提とされた時期より随分ましになるだろう。