2020年5月16日

悪役の使い方

或る深夜テレビ番組で、或る横文字の肩書きを名乗る東京人が、別の或る福井人を極めて幼稚な仕方で罵っていた。それは前者が世間的にはまあまあの学歴(一応は東大)で、後者は中卒だったのを利用しつつ、周りのゲストも東大学閥で固められている状況を濫用したみるからに卑劣な馬乗りだった。
 自分はその現場をウェブ経由だかでみたのだが、義憤を感じた。公的には法の下の平等に反した違憲で、あからさまな差別に他ならない。通常の場面ならその東京人は社会的地位をその時点で失墜させていてもおかしくないのだが、番組の司会も類似の考え方の持ち主で、現場では流されてしまった。
 もし薩長土肥が暴れずに武士の時代が続いていれば、そして自分が侍の身分でその場に居れば、非礼を謝る様その東京人に詰め寄る所だと感じた。場合によっては無礼討ちにしてもいい。
 現代は町人、特に商人が全盛で、既に道義も廃れているので、正義の平衡器は表面上、目に見えなくなっている。
 侍は一般に、正義を命より重く見ていたので、カネによって得られる世俗的快楽など先ず歯牙にかけていなかった。自分はそういう文化的風土が僅かに残っている地域(水戸の徳川領地)の公務員家庭で育ったが、どれほど資本主義が浸透しても、やはり本質にある貴族道徳は金銭より強く無意識に作用する。

 上記の東京人は、いまだに世間に顔を向け、巧い飯を食っているといわざるをえないが、そして自分は直接侮辱されたわけではないにしても、当の福井人が不当に貶められた分の名誉は一体誰が回復するのか、ずっと気がかりなので、自分はその東京人、福井人両者の既往を機会をみつつ遠巻きに観察していた。
 それで今朝考えたのだが、その東京人は或る組織のかなり高い地位を占めているのだが(迷惑な事に私の県にある組織だ)、結局、その種の人格破綻者はいわば自壊的勢力であり、敵陣に放り込まれていれば自動的にその陣営を悪評や悪業で破滅させていく点では利用価値があるということである。
 忠臣蔵あるいは桜田門外の変は、主君の名誉に傷をつけられた侍(しかも四十七士も国替えされたわが県の侍だ)が、復讐劇によって正義の平衡をとりかえした一例だといえようが、実は悪役を泳がせるのにも戦略的価値がある、と思う。なぜなら東京圏が悪役に操られているとすれば、彼らの損害なのだから。
 安倍晋三や麻生太郎、小泉進次郎、河野太郎の様な人々についても、全く同じ事がいえるだろう。無能または悪徳にまみれた人物を高い地位に就けるのは官位討ちを超えて、その組織(自民党、日本国政府)を決定的に破壊する。

 正義を実現する為に必ずしも正攻法を取る必要はない。