2020年5月17日

科学主義は有害な宗派

次に書く事は現時点の地球で、相当程度に学がある人にしか容易に理解されないと思うが、自分は科学主義を根源的に不特定の敵意があるものだと見なしつつある。
 特に理系と呼ばれる分類に属する専門教育を受けその思考の癖を宗教化している人達は大抵、倫理を自然学の下位か誤謬とみなす場合がある。
 しかもおそるべきことに、この野蛮な国の政府は、公教育で科学主義をほぼ宗教の代替物として全国民に教え込むばかりでなく、勿論それ自体も禍々しいのだが、その道具的知識のみを学問と教義づけ、目的の知識である道徳を全教育課程でおよそ無視させている。明治政府が最悪の政府だったのは間違いない。
 これまで自分がインターネットなどで自分の限界まで啓蒙した所の一つに薩長藩閥の悪行批判があるが、いうまでもなく現政府はその後釜なので、彼らが洗脳済みの日本人大衆は少しもその意味を理解しない。というか自分のみたかぎり日本史、世界史自体を知ろうとしない程の民衆が殆どで、愚民の国である。
 今から150年より前の公教育は、少なくとも江戸時代後期の段階で、当時の知識階級の人々がのち武士道と呼ばれる貴族道徳を育む国だったほど、後自然学の中でも倫理が目的の知識だという、一種の学習課程が前提になっていた。儒学や仏教、国学がそれである。
 俄仕込みの無教養な一部西国の成り上がり政商ら、わけても福沢諭吉、大隈重信といった当時の教育者らは、欧米を全面的に猿真似することで「和魂」を程あれ否定しようとした。その後遺症が戦後のノーベル賞崇拝で、東大を頂点とする旧帝大の輸入学府を権威づける、偏差値教育と学歴崇拝の教義になった。

 勿論そういった経緯があるにしても、そもそも自然あるいはその人工的側面である社会の分析は能動的なものではない。今の言い方なら自然科学や社会科学といった分野は、本質的に人にとって受身の分野で、しかも概して時間的にも過去を反省的に抽出して取り扱うものだ。だが芸術や、倫理はそうではない。
 人が自ら世界を変える、しかもよりよい向きへ変えるのは、芸術(広義の技)や倫理といった、いわば非科学的な(単なる自然学的な分析知ではない)分野、というかより総合的な活動になる。その集団性が経済だったり政治だったりする。いづれにしても科学主義はそこでは道具中でも一部の思考でしかない。
 が、少なくとも自分の知る限り、決して他国民ではなく日本国民一般だけだと自分がみた限りいえるのだが、彼らはこの道具的知識である「科学」や、その思考の癖を信仰対象にしているのである。
 これは比喩だが、スピリチュアルを下に見つつ自らは科学的思考を狂信するなど、一種の愚の骨頂と思う。
 少々脇道にそれるがなぜそういえるか。まず自分がスピリチュアルなどの単なる精神論といった妄想の類の分野(広義で宗教学)を信じている、もしくは、実証反証などの手法をもつ科学主義の普遍性と直接比べているわけではなく、懐疑せず当時の知識を信奉布教する態度が、知性の欠如といっているのだ。

 自分は芸術と科学のすりあわせといってもいい工学系の大学でどの様な教え方をしているか直接観察した(精確には大学付属の2年制専修学校、カレッジの類から、その工学系の講義・実習態度をみた)。結果、工学(技術、technology)は中間分野といってもいい。実証も美学も使うが厳密でない合いの子だ。
 その工学を、近代日本語では「科学技術」という謎の曖昧な訳語にしている。Technology(工学)でもscience(知識、科学)でもない何が間にあるというのか。これもことばのうえにのこった無理がある急き過ぎた偽近代化、明治の後遺症の一つに挙げられようが、商業的転用を目当てにした日帝用語と思う。
 日本国民一般は、こういってよければタレス的な哲学者よりずっと政商に近く、それより更に町人風の労働者に近い。それで彼らは学の効用を実利にしか認めないので、大学の学部を就職手形を得るシグナリングの手段とあたりまえにみなし、それ自体を疑わないし、本来の真理の探求など頭の片隅にもない。
 これだけでもおそろしいほど野卑で、朝三暮四で、かつ利己的な国といえるのだが、なぜかならその学自体を近代西洋の産業革命(戦後は米国発の情報革命)をかつらはぎし町人風の現世利益観に接木した科学主義のみに求めているので、いわば道徳哲学を完全に忘却している恥知らずで、驕りも甚だしい。
 では少数なら道学者もいるだろうと思えば、彼ら自体が甚だ堕落していて、大学内では年頭月尾で瑣末な思想史のあげあしとりに終始する半永久的な馬乗り合戦をしつつ、欧米思潮の輸入学者に納まっているといった部類でなければ、学閥商人(最悪のとき御用学者の類である)位しかみあたらないのだ。

 科学主義が不特定の敵意に満ちた物となってしまっているとすれば、その最大の理由は、上述のわが国特有の文化的構造が背後にあるのと同時に、そもそも知識人一般の知性が低いせいだといっていいだろう。並の知能以上があれば国の教義だか同国学界の空気に影響され唯の専門馬鹿になる筈もない。
 結論として、科学主義は本来、単なる自然学(自然哲学)だったわけだが、明治期の西日本の果てにいた相当無教養で拙速な人々による、欧米模倣の勘違いした行き過ぎがやがて独特の町人根性と融和し、宗教化、下手すれば戦後は国教化してしまった節がある。それで悪意がある代物になりさがっている。
 同じ事は資本主義の極論版といってもいい拝金主義にもいえて、これも九州北部あたりからでてきた人々が、主な布教者として東京界隈で宣教活動しているところをみるに、科学主義と経緯として似た構図を伴った宗教だといえるだろう。なぜ九州北部あたりの出身者が発生源なのか、偶然かは分からないが。
 科学主義者の悪意が典型的に現れているのがたとえば原発推進派であり、拝金主義者のそれがたとえば小泉・安倍政権だといえよう。これらは倫理的にみれば簡単に齟齬がみつかるのに、彼らはそれらの宗派内に人々をひきいれ、だまし、洗脳し、結果として自ら暴利を貪ろうと謀る。純粋な悪意がそこにある。
 小泉・安倍政権はいいかえれば新自由主義という謳い文句で自己責任論をおしつけあう弱肉強食の社会に、日本全体を作り変えた。彼らを擁護していた人達が単なる無知であったなら君子豹変式に反省の弁を述べてもよさそうなものの、竹中平蔵はじめその様な姿は一切みられず、開き直って貪り続けている。
 悪意がある行為、悪行の果てに報いがないものだろうか? 人の心理に正義の平衡があればこそ、確実にそれはやってくる。単に悪行中の人々は、報いがすぐにやってこないので二度とこないものだと自己正当化に耽っているだけである。事実は逆で、大きな悪業であればあるほど反動も大きく、故に遅くなる。
 たとえば民族抹殺の様な業は、やがて歴史家の筆から伝わり、その主体を罪深い存在と考えた人達の脳裏で報復される。すぐに結果が出る小さな罪(たとえば家族のアイスを食べてしまったとか)に比べ、大きな罪ほどすぐには感づかれにくい(たとえばイエスを人々が濡れ衣で殺したとか)。
 科学主義者の悪行についても同じ事がいえる。破壊した環境、箔の転用による馬乗りで踏み躙った同類は、生物濃縮や恨みなど直接的影響でなくとも、自然を軽視した集住先での間接的な都市問題とか、経済的沈没や社会不安による国の破滅といった遠因としても現れる。その種の宗派は有害といえるだろう。