2020年5月17日

資本主義教義は一商業理論でしかない

自分はずっと商売に一切興味がなく、完全に無視して生きていた。その理由は幾つか考えられるにしてもそれ自体は確かで、寧ろ軽蔑すらしていた。
 それで労働者の人達が私生活で、匿名で意味不明な侮辱をしてくる時など、余計彼らの生態に失望せざるをえなかった。
 しかしある好奇心、具体的には経済学の部分を構成している商業界のうち、自分にとって縁遠い人たちの心理分析という興味から、ある男に誘われ起業もどきをしてみてから、今年で丸3年くらい経つ間、いつものことで猛勉強し(自分は勉強が趣味だ)資本主義の実体といえるものをおよそ掴むに至った。
 一体、労働者の人達、あるいは商人達があれだけ必死の形相でなにをしていたのかも、今の時点でほぼ完全に把握できた。一言でいうと利益追求だったのであり、その概念を意識するまで知性が高くない、もっというと経営知や経済学がない人達も、同類の同調圧力や快楽追求の結果、そうなっていたのだった。

 日本でも貴族道徳というものがあり、自分は完全にそちらの世界に属して生きてきた。公家も武家も、資産に余裕がある階級の人々は、儒学や仏教の影響下で、直接的な利益追求を下品さとして卑しむ傾向にあった訳だが、自分は凡そその現代版で、確かにそう思っていた。自分の興味は芸術と学問だった。
 が、上述のあるきっかけで(ブログのどこかに少し詳しく書いたかもしれない)、商人側の心情を知悉するに至ってから見直してみると、この貴族道徳という物はどの時代でも通底してあり、それをもつ人達だけが無為の為で日銭にもならないが故に消費されにくい、普遍的価値のある文事に従事するのだろう。

 自分はとりあえず資本主義側の最も深奥にある動きまでみてみようとして、現時点でそれをほぼ掌握したと思っているのだが、その一番奥で幣を振っている人々は、アダムスミス的な素朴な観念、すなわち空想上の完全競争市場での需給一致を義として信仰しているのである。
 資本主義陣営はその種の社を奉じて動き続ければ世界は改善される、という教義に立って、利益追求を続ける存在で、言うまでもなくその下っ端にすぎない労働者(相対的に弱小資本しかないがその宗派の信徒)は、彼らの全存在意義に等しい信仰を疑う余地などありえない。逆に批判勢力を弾圧するほどだ。
 それで、自分ははじめ、起業もどきをする時、この資本主義陣営の一番奥までみてやろうという一種の好奇心からきた密偵的意図で入り、実際に恐らく一番奥の地点までみて引き返し、改めていえるのは、この宗教は決して立派な宗教ではないということである。寧ろ、この宗教に向いているのは俗物の方だ。
 経済(広義の商業、全産業)と経済学の全ては、欲望に忠実な主体たる合理的経済人を前提になりたっている。孔子にいわせれば小人の世界、小人の学問であり、君子や聖人にとっては、形式を除けば永久に理解できない側面がある。これゆえ、貴族道徳の持ち主達が商業を忌避した点は今日でも有効である。
 商業化が進んだ一部の先進国、あるいは商業地で、資本主義教は猛威を振るっている。自分もそれにまきこまれきったある人から起業に誘われたのが陣営の内情を伺うきっかけになったくらいなので、今後とも、その種の地域に属するか接している人達は、同教の信徒らに同教を布教されるかもしれない。
 が、自分にいえるのは、この教団は根本的に下賤な人達だとは絶対にいえることである。なぜなら経済学は人々の欲求を満たす下品な活動を最適化する為の学問で、経済全体がその種の通俗活動なのである。うらをかえすと商業向きなのは根っから下品な人間で、それ自体は過去も未来も変わらないであろう。
 商取引なしに生活必需品も手に入らないので否応なく、商業に関わらざるを得ないとする。しかしこれは程度の問題である。この世には品性が上中下それぞれの人も各々存在するし、上智と下愚とは移らない。上品に生まれついた側にできるのはできるだけ品性の低い人と関わらない工夫だけである。
 低俗な欲求に忠実な人達の気持ちは、その種の下衆根性を生まれつきもちあわせた人達にしか永久に想像もつかない点がある。しかも経済全体はその種の欲求充足の為の装置でしかない。一方、無償で損得勘定を超越している道徳的な世界になればなるほど、下品な人達には逆に理解が及ばなくなるものである。
 生きる為にカネが必要だとする。しかし古代ギリシアの自由市民以来、いかなる貴族とも同じで、これのみに生涯従事している状態は、根っから欲深な、最も卑俗な人達だけにできるなりわいなのである。だから低級商人というべき労働者らに貴族側が理解できないとしても、それは必然というしかない。
 貴族は無限の蓄財(文字通りbusiness、忙事)を忙殺をもたらすにすぎないものとして忌避し、現世利益に過ぎない損得勘定を離れ、普遍的価値のある学芸にできるだけ多くの力を費やさなければならない。それでこそ、我々が過去の時代から進歩できたのである。貴族のいない国は進歩できないのである。
 ニュートンは投資家としては三流だったが、彼の力学は彼の哲学の本の一部でしかなかったにしても、少なくとも彼と同等以上の成果なくして我々が地球をとりまく引力の巨視的状況について今日程度まで理解できたか疑わしい。当時の金持ちは今日まで資産を保っていないだろうが、文明自体は進歩した。

 目の前に現世利益があって、その奥に永遠の真理があった時、人類のほぼ全数は利益に飛びつく様にうまれついている。だからこそ巨匠は極希なのであり、大半の会社は潰れてしまう。上品にうまれついている人が現世利益に気をとられるのは本性に反する。資本主義教義は貴族にとって商業理論に過ぎない。