2020年5月24日

日本病について

刑法第230条の2(公共の利害に関する場合の特例)に、公共の利害に関する事実で目的が公益を図ることなら、そして事実が真実なら名誉毀損にあたらない、公訴以前の犯罪行為や、公務員や公選される候補者の事実についても同じと書いてある。
 その前で、ツイッター右翼達はどうだろうか?
 彼らは匿名犯罪厨こと日本人一般(日本語圏ツイッター民一般など)から、実質的に集団虐殺された著名人が日本でも出たのにかこつけて、わが国の首相を誹謗するなと言論弾圧の挙に出ている。だが、そんな知的レベルなのが日本人一般であって、上記の法など理解する能力は最初から全く期待できない。その種の衆愚の国であればこそ、天皇制ファシズムがつい75、6年前に世界を滅ぼす勢いで徹底した全体統制をはかっていたのも、われわれは全く疑問をもてない。今後も、彼ら日本人一般のうちでも保守的傾向の人々が政府を支配することがあれば、本気で彼らは政治批判の言論を弾圧しはじめるであろう。いや、現時点でも、その兆候は明らかに現れている。或る音楽家が政治的言動をすればアーティスト如きは黙れと罵り、他の喜劇役者が悪政を揶揄すれば殺意をもった人々がかれの元に言論抹殺のため殺到する。別の女性芸能人がなにか公共について意見を述べれば、問答無用で袋叩きにし逆に売国奴扱いする。
 それほど狂った国民性が他のどの国にあるというのだろう? しかもあまつさえこの国は、言論の自由が憲法に明記されており、上述の様、その公論の特例はきちんと法文で定義されているのにもかかわらず。

 教育の失敗。無論それもある。だが本当にそれだけだろうか。日本の民主化は失敗したわけだ。
 それも、制度に於いての失敗ではなく、民衆自身の考え方、あるいは習慣、癖の失敗である。彼らは殆ど本能のよう匿名で群れ、犯罪をしまくる。ネットでは2chが起源かもしれないが、歴史的には聖徳太子の17条憲法が「和」を至上原理とし、対立言論を民衆自身に弾圧させたのにも一起源がある様に思う。

 西洋文化ではヘーゲルが定義したよう、古代ギリシア以来、対話の伝統があった。それは2つ以上の対立する論点があって、両者が議論する中でより高次元な段階をみいだす会話であり、西洋の学識全体が発展する原理と定義されている。いわゆるアウフヘーベン Aufheben、弁証法と訳されるが対話術の事だ。
 が日本では全くそうではない。これは日本で生まれ育ちその文化的特徴を一定より知っている人には自明だが、改めて定義すると、日本文化では議論はどの場合でも結局、徹底的に憎まれるだけに終わる、してはいけない行動だ。日本人一般は対話術を喧嘩と呼び蔑む。あるのは詭弁と世辞による回避だけだ。
 勿論、議会を西洋の表面だけまねて導入したのもつい最近の事で殆ど根づいていない。150年前それをまねさせようとした人達は、古代奈良ではその種の行動をすれば天皇一味に暗殺されていただろう事とか、中世京都では公卿らの陰謀で流罪にされただろう事、近世江戸でも侍に首を取られた事実を無視した。
 現代東京も話は全く変わっていない。自民党員たちは国会の最中に歴史小説を読んだり、もっとあからさまに寝てすごしたりしてもたんまり税金がもらえるのは、そこが形式だけでお仕着せの場所だと悟っているからだ。しかもこの国会動物園はバンクシーの英議会の絵さながら全国民がえり抜いた結果なのだ。それで討議のつもりで首相に挑んだ新人議員らは、全員面食らう結果になる。相手は官僚が用意した紙をよみあげるばかりで暖簾に腕押しだから、なだけではない。国会の全時間が官僚製の答弁書を機械的によみあげあう場として作られ、それで中小企業の社長より高い給料を貰うロボット工場になっている。
 この救いがない硬直性は、勿論国会がその最も目立つ場として一部はネット中継などで公共に晒されているわけだが、驚くべきことに日本全体の縮図である。企業でも学校でも、どんな小組織でも、およそ例外なく日本人なるものが多数派で統治していれば似た部類の堅苦しい形式が優越し、自由が制限される。かれらは冗談でそうしているのだろうか? わたしも生まれてから何度もそう思った。それでかれら日本人一般に何度かなぜそんな馬鹿げた行動をするのか尋ねた。しかしかれらの答えは常に、逆上とか、逆恨みとか、最悪のときは訳のわからない罪をつくりあげることでの濡れ衣とかなので誰も声を出せない。この病的硬直性は、日本人生活のきわめて微小な部分まで入り込んでいて、子供が1×2の計算式を2×1と書いただけで減点になるなど、言語道断の現象が本当にいたるところで起きている。例えば屋上庭園を作ってあっても、そこに出入りできない。行政が落ちた人の責任をとらないため鍵をかけてしまう。しかもこの窒息しそうな硬直化は日々急激にましており、公園遊具にはロープが張られ、校庭に放課後入ることもできない。それらで怪我したり、子供だけで好きに遊んでいたら危険だというのが行政や、教育者の言い分だ。ひとを一から十まで管理し、赤ん坊が泣けば老人が叱る。みな引きこもるしかない。コロナ禍だといえば全国一律で、自ら閉鎖を求める。自由への憎悪。その度合いでいって、世界で最も激しい国の一つが日本なのは絶対に疑う余地がないだろう。これゆえ、自粛警察など意味不明の無法者が跋扈して、自分勝手な私刑をくりかえすが、それを促す者こそ賞賛されるが、自由の主張は抹殺される。

 日本病。ここで英国病に習って私は上記の現象をそう名づけたい。急激な少子高齢化は、嘗ての成功体験だった製造業にしがみつく産業構造の失敗に直接は由来しているが、徐々に多数さをましていく高齢者の既得権に偏った自民党の金権政治もそこに加担している。企業献金はこの国では違法ではないのだ。そこで冒頭の「自粛警察」は、古くは飛鳥時代からいつもの天皇制ファシスト的、全体主義の発想によって、いかなる言論でも天皇万歳とか、自民党総裁万歳とか叫ぶ以外、すなわち『君が代』的体制翼賛しか許されないといいたいのである。この悪意は徹底していて、日本人右派は暴力団と一体化している。
 日本のあちこちで社会不安が生じた時、先ずスケープゴート探しが行われ、その標的は確実に集団虐待によって血祭りに挙げられ、殺されてしまう。大抵の場合は最弱者が犠牲になる。関東大震災では在日朝鮮人がそうだったし、それ以前の関西地方なら逆に先住日本人、あるいは関西外の日本人がそうだった。日本的な魔女狩りの犠牲者は日本人お得意の神道信仰が根っから侮蔑し、排除している人種であったりする。そして彼らがいかに善良な人々であっても、いやそうであればあるだけ朝敵などと呼ばれ、ひたすら濡れ衣を着せられる。現代のいけにえは成金と疑われる人が多いが、これは民衆の恨みによっている。自粛警察たちがツイッターを匿名で徘徊し、溜まったストレスの解消先に択んでいるのは、どうみても抵抗してこなそうな弱者である。かれらが決して首相や、大企業の社長など、抵抗力の強そうな相手に集団攻撃せず、代わりに無名の人とか、ニートを虐殺したがるのは、反撃の痛みは否定できないからだ。かれら日本人一般が匿名なのは、責任回避の為、すなわち根っから卑怯な為であり、自分が悪事をする前提で、常に自分が被害者にならない場所から世間を馬鹿にする為でしかない。かれらのうちでも少しのワル知恵があると言い訳で、家族を守る為、立場を守る為などというが、要は無責任なだけである。出る杭は打たれる、という日本のことわざは、かれら日本人一般、そしてその中でネオナチ的な自粛警察にとっては天のお告げというべき内容である。かれらはいつでも単にストレス解消目的の集団虐殺の相手を探しているのは幼児の頃から変わらない。この悪業の為に、皆がやっていたから、が正当化になる。
 何歳になっても日本人一般のこの集団虐待の習性、濡れ衣を着せることでの生け贄屠殺の文化は少しも変わらない。今日の政界は国であれ地方自治体であれほぼ全数が日本人高齢男性で占められているが、かれらのやっている全行動も、全てが、これらの行動でしかないのだ。すなわち少数派を虐待すること。

 病的な日本の症状を少しは上記した。しかしこれらは根本原因ではない。天皇による独裁体制はかれらの暗に狂信する唯一の宗教だが、その暗黒面が果たして彼ら日本人一般の邪悪な硬直性の根源原因かは疑わしい。その逆に、日本人一般が邪悪だからこそ、天皇制や神道という殺人宗教を育んだのではないか。確かに日本人右翼の中には、その種の邪悪さが根を下ろしている様にみえなくもない。だが、民衆一般はいうまでもなく、自由派と称する知識人らの中でも、やはり似た様な悪意の行動原理が散見される以上、もっと病根は深くにあると私は思う。一体だれが明治寡頭政治の暗面をまっとうに日本で述べている?
 上から下まで、全員が集団で悪事を正当化し続けるのが、この極東島国の国民性というものであり、それを指摘した人は悪意ある匿名衆愚から、確実に抹殺されてしまう。天皇一味も無論その種の「和」の風習を作った、むしろ暴力でおしつけてきた第一人者といえるだろうが、日本病は彼だけががんではない。