2020年3月11日

隈研吾氏の明朝体炎上は一般人の目をごまかしきれなかった彼の擬似和風設計への率直な批評の一つの表れ

くまけんの『高輪ゲートウェイ駅』がまた炎上してた。明朝体がダサいと
(画像URL:https://twitter.com/tetsudo_com/status/1236871658796773376
 で渋谷駅も明朝体で、駅の視認性悪いってツイートがあったが渋谷駅もくまけん。明朝体が前から好きなんだろう。

 妹島設計の『日立駅』は多分自分の知るかぎり世界でも一番洗練された駅と思うがフォント確認したらゴシックだった。

(画像URL:https://images.app.goo.gl/p9BpUJrduC3TzkFc8
https://images.app.goo.gl/SLJHYspruucYZ4Mh9

 むかし、僕はある沖縄の建築家(まだ駆け出し)の人に、くまけんの設計嫌いといったら「嫉妬しちゃだめだよ」といわれた。でも僕としては全然そうじゃないのでこのひと誤解してるなぁと思った。
 僕はくまけんの建築あちこちでみて、これ『M2ビル』からかわってねー表面だけの切り貼りだと思ってるのだ。

 一定より深い建築ファンなら絶対わかる話として、僕は妹島さんの建築は超一流のもので、少なくともミースを超えていると思っている。だから21才だかの頃に僕は直線で妹島氏に弟子入りにいった。なぜそういえるかだが構造という根本原理から革新的だからだ。鋼板で作ってある『梅林の家』なんて典型例だろう。
 が。くまけんの実作色々見たんだが一個もいいのがなかった。彼の作品集もGAなどで大体網羅してみていたけどやはり同じで、そもそも処女作から、美術用語でいえば寄せ集め(アッサンブラージュ)的なもの、もっといえば流用(アプロプリエーション)的な色が強い作家である。
 まあ磯崎新とかもだが。
 建築学の用語でいうと脱構築主義(デコンストラクショニズム)みたいな流れがあって、例えばOMAのコールハースなんかが典型例だけど、くまけんは擬似和風建築やりだす前まで完全にそれだったわけだ。擬似とは、僕から見ると構造は平凡な木造・鉄骨・RC造で、表面に木を貼り付けてあるだけだからだ。
 要するに、まあこれは曖昧な用語だがポストモダン建築の派生作家というのが僕のみてきたくまけんで、東大閥の中では凄く売れっ子になりましたが、正直な話、建築雑誌がもちあげすぎている点はある。日本の建築界では丹下健三以来、東大閥の権威や箔がかなり有効だから下駄は大分履かされるのだ。

 んで。じゃあ一般大衆がダサいダサいと、くまけん設計の新国立競技場や高輪ゲートウェイ駅にいうのは、なぜなのか。これ正直な感想であって僕がその沖縄の建築家の方(女性)にいったのと同じ直感である。確かにくまけんの建物は決してかっこよくない。極めて表面的操作、いわば化粧に終始している。
 つまり大衆は忖度する必要も意味もないから、建築業界と違って、東大閥の大先生にした手に出てないのである。僕もその業界内では、上記の沖縄の建築家の方みたいな、なんというのか業界常識みたいなので正直な意見を公には封殺されかねなかった。忖度の極度が建築雑誌なので彼は完全に王様扱いである。
 僕は学科試験は受かったものの、製図試験を落とされまくった為(規定どおり書いてるのに他人からみて独特の図面なのか知らんが落とされる)、偶然、途中からほぼ直線で進んでた建築家の道は日本で今のところ閉ざされている。猛勉強し弟子入りいったから業界事情も大分知っているが部外者として語れる。
 一般大衆側がなんで無忖度で正直に、裸の王様みたいな状態の人気建築家に直球でダサいというか。まあ視覚芸術って一見して全てがわかるところもあるから、僕と同じ直感でもあるが、そもそもくまけんの建築哲学への疑義もそれとなしには感じ取ってると思う。
 もう少し詳しく考えよう。

 くまけんこと隈研吾氏は『負ける建築』という真面目な建築学生なら大抵しっている本を書いて、いわば理論的な面から有名になった人である。この点ではコールハースと似ている。隈氏が独特なのは最初、ゼネコン(一般の建設会社)に務めていた経歴だ。
 普通の建築家は最初からアトリエ系に行く。
 業界の内部事情としては、次の様になっている。
(以下では説明の為に、設計事務所を大雑把に3つに分ける。個人事務所(アトリエ系)、組織事務所(組織系)、 建設会社(ゼネコン系)。ここでは煩瑣になるので組織系について詳しくは触れない。
 なお梓設計は組織系であるが、作家個人が独立していない点ではゼネコン系に近い性質をあわせもっているといえる。以下ではゼネコン系と組織系がしばしば混同される傾向の文意が展開されるが、それは次の節で説明するが、建築家個人に責任がある体制との違いを強調する為で、組織系を貶めているとかでは決してないので他意はない。例えば茨城空港も梓設計だろうが、それなりによい建物に感じた。
 なお以下に出すゼネコン系の戸田建設も茨城県庁舎など立派な作品があり、個人じゃないから建物自体の質が低いとは特にいえないだろう)

 先ず建築家として偉いのはアトリエ系と呼ばれる、独立した設計事務所の人達、特に一番偉いのは国際的に活躍する有名建築家達である。理由としてはもともと建築士制度は欧米から輸入したのだが、向こうでは職業的美術家の一種で作家が独立している。
 建築家協会の様なもの(日本で代表的なのは日本建築学会)は、職業倫理を教え、建築家が金儲け目的に粗製乱造しないよう講習したり国家資格の付与者を一定の数に絞っている。その種の事情は欧米でも基本的に同じだ。
 対して一般大衆が考える建築士は、これと違って建設会社に雇われている会社員だ。
 一定規模より大きな建物の設計管理には日本の法律として、建築士資格が必要だ(厳密にはただのデザイナー・設計者として建築士を使って作品を残している人もいる。マーク・ニューソンみたいなの。また施主、つまりたてぬしとして特定の注文をしたため設計者より有名な人もいる。八条宮家みたいなの)。
 すなわち、欧米だとアーキテクト architectは建築家でも会社に雇われている建築士でもあるが、日本語だと建築家の方は一種の美称として独立した建築士についていわれる傾向にある。建設会社内で設計業務している人達を建築家とは、一応、日本語の慣用では余り使わないわけだ。
 で、この独立していない建設会社内の建築士達と、独立した建築家達(とその弟子達)とは、大きく分けて別の種類の人達である。
 理由としては建設会社内の人達は商売でやっているのだが、独立した建築家達は清貧でやっている傾向にある。僕がみたかぎり世界的建築家の妹島事務所ですらそうだった。
 実は僕が行った頃の妹島事務所の前には梓設計という、空港建築とかで有名な、いちおう建設会社系の設計事務所があった。
(今から下に書くことは僕の人生経験として書くので、梓設計を揶揄とかは一切していないし、当時の妹島事務所の現実で、他意がないのでもし業界人読んでも怒らないで頂きたい。)
 くまけんの就職した戸田建設みたいな代表格に比べると梓側の意識は違うかもしれないが、僕の時は倉庫内でコンビニ手弁当だった妹島氏を慕う学生見習いに比べ、梓は道を挟んで湾岸側に立派な事務所を建てていた。川辺の2階にはテラスまであってそこで、梓設計の会社員の人達が優雅に昼食しておられた。
 ほんで、僕は親友がみたいといったかで、天王洲アイルにあった当時の妹島事務所の前まで彼を案内したんだけど、その梓設計の隣の敷地はちょっとした駐車場みたいになってて運河のすぐ前まで出られた。
 僕と親友はそこまで行って手すりにもたれて話してたが、多分お昼の頃で、梓の人がテラスにいた。
 そこで梓の人達がどんな顔してたかというと、まあ静かな運河の前だから僕らが気炎を吐いてたら向こうにも聴こえている。で、テラスで腰掛けてランチ休憩だかの彼らは、ちょっと僕ら(福島・茨城から出てきた、典型的なバイト学生ですね)を見下したかの様な、哀れむ様な、おかしがる様な表情していた。
 その時、僕は無理に妹島さんに頼み込んで働かせてもらっていたので無償のただ働き(模型作り手伝って掃除させてもらってただけだが)というか、いわゆるインターン、オープンデスク学生の扱いである。
(労基法がどうとかじゃなく、建築学生界では一種の実習で事務所の見習いさせてもらう期間がある)
 だからその梓の方がなにもかも金持ちなのは明らかだが、こっちは世界的建築(当時はルーブル・ランスの模型を作ってた)の手伝いだぞと、気持ちだけやせ我慢の説してたわけである。
 多分梓には僕と大して年齢違わない人もいたんじゃないだろうか? 当然高いお給料貰えていたと思う。
 しかし妹島事務所の台所事情は大分厳しかった様にみえ、しかも世界中から色んな国々の学生が見習いにくるので正規で雇われるには競争率も激しく、相当というか限界まで頑張っている人達だらけであった。
 当時妹島さんは慶応で教えてて学生だらけなので学芸会のノリに近く、泊まり込んでた人もいた。
 そういう我々を見かねてか、ある日、妹島さんは沢山のおにぎりを差し入れしてくれた。しかも夏の暑い頃だったのもあるのか、わざわざ僕らが模型作っていた倉庫の天井にエアコンつけてくれた(模型だらけの中に西沢立衛さんの事務所スペースというか模型上に組まれたロフトみたいな狭い空間があった)。
 そこに集まっていた学生の人達は、21美の経緯で金沢から来た人も、慶応院の学生も、イタリアだのフランスだのアメリカだのからきてる人、或いはインドぽい人とかもいた。まあそれはわき道だから省くが、要は彼らにかねがあるとは到底おもえなかった。単にSANAAの建築が好きで手伝いにきていたのだ。
 そんでだ。
 僕の高校の同級生には、多分その建設会社系(general constru(a)ctorまたはcontru(a)ctorの略で、ゼネコン系という)に就職した友達もいたが、普通に給料貰って結婚して、みたいな意志でそういうところにいくのだ。僕はそういう世俗は完全無視なので直球でアトリエ系しか眼中になかった。

 大分迂回したが本筋にもどる。
 くまけんはそのゼネコン系で有名所な戸田建設にいた。そういう会社の特徴としては圧倒的独創性とか基本的にはNGなのである。お堅い物を型通りに作る。
 前も書いたけど(『立派な芸術は立派な真意で作られる』)、くまけんは独立後もこの癖が全然抜けない。基本設計は型通りにつくり、その上に一見独創っぽくおしゃれっぽく擬似和風っぽく、今風にみえるようなにか、特に和っぽくみえる木を貼り付けることが多い。
 だがアトリエ系の種類によっては、ガチでやばい(肯定的な意味で凄いって意味です)人達というのがいて、僕の知るかぎり現役で世界で一番やばいのはせじまさんなわけだけども、構造(いわば骨組み)からして根本的に違うのを提出してくる場合がある。基本設計どころか構造の概念に革新を加えている。
 PCでたとえると、普通の人がなにかサイト作ってといったらジャバスクリプトをウィンドウズでいじくって提出で終わりかもしれんが、ガチだとプログラミング言語から作りなおして対応OS違うじゃんってのがくるだろう。マックのお手伝いしてたと思ったらOS自作だったみたいなビルゲイツみたいなの。
 建築だと、それが構造を一から考え直してるもので、完全に独創的としかいえないから、既存のゼネコンだと確実にはじかれる設計である。前例がないし、手間が大変だし、そもそもちゃんと建つか実例ないから会社の信用の為に保守的になってやらない。しかしアトリエ系で勇気があるところは甘んじてやる。
 暫く前だと安藤忠雄事務所もかなりそれだった。彼は東大講義録『建築を語る』などの著書で繰り返し述べるよう、丹下健三の代々木競技場の必死の現場をみたりして難度の高い建築作業に夢見、或る意味でザハ的な作るの大変そうなの好む傾向がある。職人魂を全力で活かすには簡単な建物ではダメなわけだ。
 幸田露伴の『五重塔』を忠雄が重要書籍に挙げるのは、彼のその種の職人魂を燃やさせたからである。で、新国立競技場の設計選定で、忠雄は審査委員長として、(ほぼくまけん案がぱくった)かぜの通り道かねる、不定形で環境圧迫を弱めた妹島・西沢案ではなく、より建設難易度が高い大仰なザハ案を択んだわけだ。
 ここまでくると、大分わかってきたのではないか。
 くまけんが新国立の最終設計者に選定された経緯は上述の小論でも書いたけれども、もともと彼は寄せ集め的な色が濃い設計をする人だ。しかも擬似和風もそのうちの一つとして彼が身に着けていった芸風で、NYに畳み持ち込んだ時以来、実は底は浅い。

 是非ともM2ビルをみてほしい。あれがくまけん建築の粋で、原点で、処女作にすべてが現れるとよくいうが、完全に僕としてはそのアノマリー(奇想天外)的な内容の結晶であると思う。僕の知る彼の最高傑作は『ロータスハウス』と前もいったけど、M2はもっと彼の本質を現している。ダサ超えのキッチュだ。
 擬似和風はくまけん設計のその寄せ集め本能の一部として定型化したアイコンでしかなく、本当はポストモダン的に、流用的に、前時代の手法をゼネコン建築の下敷きにコラージュしていくのが彼の本領なのである。これは馬鹿にしているのではない。現代美術的な文法で解析するとそういう作家なのである。
 『負ける建築』と言っていた理論は、僕が専門学校生の頃みていた範囲では、その種の彼の実践と大分ずれていた。ぶっちゃけ、結果からみると売名の為の手段であった。コールハースもコルビュジエも(特にコルブは後期に五原則を破っていったから)或る意味ではそうだったから、珍しくもない話だが。
 負ける建築とは、くまけん理論だと、これまで近代建築は環境に宇宙船みたいなのをぶつけて異様を誇っていたが、そうじゃなくて環境の制約条件にあわせ、目立たずその周りに調和するのがいいんだよ、という理屈。
 がこれ日本の伝統建築も基本同じ、それ学んだフランク・ロイド・ライトもそうだった。
 つまり負ける建築理論とは、ある種の日本の伝統建築理論なのである。だからいうまでもないことで、縄文遺跡、弥生遺跡、寝殿造に書院造、で庭つき一戸建てまでの建築史を多少あれ感覚で知っている古きよき日本人が設計する時は無意識に日本庭園とかが脳裏にあって、そういう傾向というか味わいが出る。
 逆に、庭や周辺環境を無視していたのは実際、コルビュジエくらいである。彼の理屈だとパリの都市環境では地上界が汚れてるからピロティで浮かし、屋上庭園作るしかない。それを少し鵜呑みにしてたのが安藤忠雄で、忠雄が仮想敵だったくまけんが当時の建築界へ名乗り挙げる手段が負ける建築論だった。
(くまけんの文によると、『住吉の長屋』の施主さんに建物案内してもらったらテニスラケットが室内にかけてあって、週末住宅状態で使われており、忠雄の当時主張していた都市ゲリラみたいな風貌はある種の売名目的のフェイクだったと悟った云々。これで忠雄に対置する理論をつくりはじめたんだろう)

 話をまとめると、一般人がくまけん建築をみて直感でだせーとか素人じゃんとかいうのは、或る意味で正しい。なぜなら彼は原点M2からして寄せ集め的にそういう雑貨を偽物感の元に提示するキッチュな味わいが本領の人だからである。和風っぽさが偽っぽいのも真実で最初から竹並べたりそうだったのだ。
 逆に、和風とは一体なにかを本質までつきつめている人、いわばエクストリーム和風が妹島さんなので、同時代の有名建築家ではあるが、くまけんとは対極的でもある。
 例えば『21美(金沢21世紀美術館)』なんて建物全体が縁側、広縁みたく作られている。庭に開かれ平ら、外人はああいう発想しづらい。
 無論それは序盤戦で、妹島建築はちゃんとゼネコン的な枠に収めてくる場合(日立駅とか日立市庁舎、ルーブルランスのよう質実剛健に近くしっかりしたの)もあるし、そうでなくてまじでキチってるのもある。僕の親友も一例で挙げてたが東雲キャナルコートとか公団住宅の型ぶっ壊し住めるのってレベルだ。
 どこがやばいかというと縁側みたいな細長く日常使う通路(これもエクストリーム和風)がビルの外にガラス張りで、しかもその通路に洗面があるとかだ。ここにあったら気持ちいいでしょ、みたいな素朴な発想なんだが。しかも部屋自体もメゾネット形式で吹き抜けがガラス張り巡ってる古民家みたいとか。
 しかし、くまけんはこの点で飽くまで東大卒の常識人だから、建築設計のやばさが生活様式の革命として日常に侵入してこない。どこもかしこも普通に作ってある。ほんとの話、表面的に見た目が凄いねってだけである。だから僕はツマンネ、となって嫌いなのだが、上述した沖縄人にわかってもらえなかった。
 んで、一般東京人がくまけんはそこらにある明朝体フォント使ってて、とってつけたようで安っぽくてダセーとか、これは完全に正義の批評でその通りなのである。というか最初から彼はそれが持ち味なのだから真を穿っている。建築界が彼の箔(東大の先生、しかも戸田出)にビビッているだけのことなのだ。

 さらにいうと、上の小論にも写真引用したが、くまけんは基本設計が下手ということは前々から僕が指摘してきている通りである。『ココン烏山』入ってすぐの滝のすぐ横に青いビニールシートかけてある、電源コンセントに水かかっちゃうから。そんなレベルなのだ。表面だけお洒落ぽいけど基本設計は巧くない。
 これも業界事情を熟知してると十分わかる話。今から説明しよう。ここまで読み進める人は建築に関心がある人だから興味深いであろう。
 
 実は一級建築士ってそういう細かい設計の実践って一切積んでいない事がある。逆に二級の人、木造建築士、大工さんのが積んでいる。一級は勉強しただけが多い。
 制度的に、建築士制度って院生優遇になっている。学歴社会である。一切実践やってなくても受験勉強すれば一級建築士を取れる(但し管理建築士として具体的に設計業務を全面的に任せられるには2年だったか実務の手伝いが必要)。それで学校の勉強だけできる人が一級もってて、実務が雑魚な事がある。
 逆に、大工さんとか建設作業員とかは、何年やっててプロ職人でも、勉強できないと学科もある建築士とれない。
(僕は勉強は一応できるので独学で学科クリアできたが製図が受からなかったタイプだが、画家みたく個性や独創性出すのが前提の職能だと、型に嵌った図面を描くのが逆に凄く難しいのだろう)
 すなわち、くまけんはこの「勉強できるが、実務やってない」タイプの典型例である。東大入れる学力だったら学科なんて楽勝レベルで最初から一級なんて軽々とれてしまう(僕は一級も二級も試験監督のバイトやったりしたけど、製図除いて学科だけなら大体、一級は早慶入試くらいの難易度に思う。二級はマーチくらいか)。
 これも上の小論でも書いたが、大規模建築は実績ある人に任される傾向、くまけんはスタジアムの素人であった。ただでさえ基本設計が職人的な意味で巧くはない(正直な話、建築士試験の解答みたいで、凡打者というか、実務的配慮が足りない場合が多い)のに、写真雑誌の下駄で仕事規模ばかり大きくなる。
 くまけんは普段から継ぎ接ぎ的操作によって写真写りがいい建築を得意とする。雑誌写りはぴか一にいい。経歴も(建築界では一部で噂される私生活除けば)極めて立派というか学歴エリートだから、もちあげられまくる。
 そこにきて和風ぽくみえるから明朝フォント好きなのである。それが落ちである。