2019年12月18日

哲学は宿主操作のゲーム

この世で道徳や倫理と呼ばれる代物は、全て妄想または信仰の類で、人の外部に何らかの形を伴う対象ではない。(だから究極では象徴や偶像も、飽くまで主観の投影によって何らかの徳性を表象しているかの如くに勘違いされているが、その主体は実は、みずからの思想の方である)
 これらの形而上学の観念をここでは「道徳」と呼ぶと、この道徳は自己犠牲を正当化する種類の時、最も狡猾な姿をとる。道徳は観念的ミームだが、ある人の本能をのっとり、寄生生活によりその人を操った果てに、やがて死に至らしめることさえある。そうでなくともある種の道徳は宿主を操ろうとする。
 この道徳による宿主操作をわれわれは一般に「正義」と呼んでいる。はじめにこの概念を見いだした者は、自分自身がそれを本気で信じているか否かにかかわらず、他人を自分に都合よく操る方法としてこの単位を利用したのだ。正義の感染力が強ければ教団や学派、政党など様々な集団操作を伴うこともある。
 ミーム学の中で、これら正義のふるまいは一般に「偽善」に分類される。すなわち自分自身は利己的に動きつつ、他人には無数の利他性をしつけることで、偽善の正義は最も、流布する側の独占的利益になる。
 ドーキンスは神のミームを繰り返し批判するが、知的設計論含め、道徳自体この種の偽善なのだ。

 単なる言葉遊びとしての哲学の中だけで道徳を論じるなら問題は少ない。感染するのはもともと実在しない形而上学を信じてしまった人達だけだからだ。より広範にこの種の偽善が影響するのは、道徳と行動(活動)が結びついている時で、これは一般に「政治」と呼ばれる。政治とは暴力正当化の手段である。
 すべて道徳は究極のところ偽善を免れないので(なぜなら人の本能は利他的にふるまう理由をもたないのだから)、政治は必ずや弱い者いじめである。徳治政治の類ですら、力を使って弱者を救おうとした途端、強者の害となってしまう。つまり、政治は偽善を完成させる為の集団的暴力の現れでしかない。

 道徳のなりたちはこの様に、本能の目的(利己性)を完遂するため、集団に流布された感染しやすいミームによる宿主操作だったのである。われわれがこの道徳について散々考え、現代では哲学と呼ばれる分野をつくりあげてきたのは、宿主操作のゲームだったのだ。