今から数日なりこの十数年、自分がネット上で経験した事について、今後の人類の指標を照らし出す可能性があるので記述しておく。
先ず「国をまたいで異なる語彙をもつ文化が接した時の話」に書いたが、自分はあるSNS経由でイギリスの人とノルウェーの人と会話していた。
彼らが私を呼んだので、私は自分にとって、本音では勉強と仕事の時間がとられて大いに迷惑だったのだけれども(あとづけでなく)、仕方なく親切心から彼らと会話する場に顔を出していた。で、彼らに奉仕していたのだけれども、最終的に彼らは彼ら自身の価値観と違う価値観の例をみて発狂し始めてしまった。
これは私には意外というか、僕がもしそういう立場におかれたら寧ろ大いに文化衝撃を受け、知的好奇心が満足するので、勉強になったと感じる。いわゆる比較文化論の話題である。
が、彼らイギリスとノルウェーの2人にとっては全くそうではなかった。ここには重要な示唆がある。これから分析しよう。
先ず最初から怪しかったのは、彼らイギリスとノルウェーの2人は、中東の人達を大いに差別的かつ侮蔑的に扱っていた。勿論これは僕には毛頭ない考えなので、「西洋の一部でそんなものかな?」という風に大雑把に捉え、全く同調せずただ彼らの意見は聞いていた。当然だが偏見もあるだろうと考えながら。
今話題のブレグジットであるが、これはイギリス人一般の保守主義者が、実はこの種の民族差別的偏見を普通にもっていることを内証しているといったら、和文読者にとっては結構な驚きではないだろうか。少なくとも僕には最初も今もそうは信じられないくらいだったが、正直、ネトウヨ級の平均民度である。
世界のどこでも保守主義者なんているよ、そりゃそうだ。世界中にレイシストはいるよ、とどこかの外国人がいっていたが、ここで問題なのは、日本は「明治の後遺症で(ここは是非とも強調しておくしかない。英文ならイタリック)」、脱亜入欧の偏見をもっている。だから西洋民度を無意識に過剰評価する。
フランスの別のしりあいの意見とか、ドイツを除くスペインとかデンマークとかスウェーデンとかイタリアとかの別の西洋人らとも、まあ直接旅行した人らは当然ながら、僕みたくネットだけでちらほら会話した感じを総合すると、ブレグジット現象は西洋一般のある民度の低さの証明というのが事実である。
民度の低さ? それも偏見に聞こえるだろうからより詳しく定義する。
先ずリベラル(このカタカナでは和文読者に多義性から誤解を呼ぶので、以後、自由・寛容で代替する)な人、往々にして高い教育を受け、教養の程度が高いと同時に、生得的IQもどちらかなら高い傾向の人々は、一般に差別を嫌いがちだ。
有名な科学論文(Gordon Hodsonらの"Bright Minds and Dark Attitude"、2012年等)の見解をまとめると、子供もそうだが一般知能因子(g)の値が相対的に低いと、世界をより単純化して捉えないと認知機能がパンクしてしまい易くなる。これは程度だ。誰でも偏見はもつ。それで反証や批判的思考等がある。
即ち、自由で寛容な傾向の知能をもつ人は、一般にであるが、保守的な傾向の知能をもつ人に比べ、事細かに世界をみて偏見にとって矛盾する要素をみわけられるので、ますます世界の複雑性を認知し、色々な立場、或いは異なる文化や考え方にも理解を示しやすい。この集団中央値をここでは仮に民度とする。
なぜ平均でないかなら、突出した少数個人がいても、或る集団の多数派の方が極めて保守的で、特定の偏見をもっていれば、現実には相当の差別的集団なのに、なぜか超寛容民度と捉えられてしまう。いわばここで定義する民度にとって、個々の賢者の質ではなく、民衆みんなの知能の傾向が問題なのである。
特にこの種の民度が問題になるのは、ブレグジットが典型だが、多数派世論が政治に反映される多数政治、現代通俗的にいう民主主義体制がある社会に於いてだ。つまり民度がそのまま政体なので、集団全体の寛容度が、どの程度、偏見や差別から自由に社会を作っていけるかの目安になる。続けよう。
国ごとの平均IQを調べている調査は色々あるが、信憑性からいうと決定的なものはないので、国際学力テストのPISAで仮に代用する。これでみると、大よそ極東諸国の成績が上位を占め、西洋圏はそれに次ぐ。
この場合平均だが、大体の目安と考えると、次のことが予想される。
イギリスとかノルウェーの一個人が単に、異文化に興味や理解を示さないとしてもそれは驚くに値しないが(色々な知能の持ち主がいる)、国単位でそうであったなら話は別である。なぜなら居住や国籍選択の自由を移民排斥などで脅やかすし、集団的差別などで、国際的に人権を迫害しかねないからである。
ブレグジット現象は現時点で単にイギリス一国の移民排斥ヒステリーの様なものと捉えられるが、実は日本でも、他ならぬイギリス捕鯨船の漂着以来、十余年の間、似た様な現象が起きた。いわゆる攘夷運動だ。最後の将軍や志士らの賢明な判断で攘夷戦争は鹿児島や山口で起きただけで済み、わが国は開国した。
もっと遡ると、弥生人の侵入があった頃、その中の一員として天皇家の先祖も彼らの神話によれば中国大陸から上陸してきた(異論の余地はあるが、天皇は『史記』にみられる中国神話上の神、三皇の一人の名。伝説上の初代天皇である神武の先祖は、記紀によれば上陸していた日向国(宮崎県)から東征し、奈良に至った。考古学に照らすと、大まかに移民があった弥生時代の出来事に該当)。そして先住の縄文人らと結構長い間、しばし内乱をはらみつつ、やがては今の日本人の血統に繋がっていった。つまり混血とか文化の混成は別に驚くに値しない。西洋でも同じ筈だ。
なにがいいたいかなら、結局のところ、わが国が全人類の模範に値する素晴らしい社会を作れるか、それとも差別や偏見に満ちた(どんなに他人を差別しようが自分だって差別される)暮らしづらい社会のままでいるかは、国民全体の寛容度によっているのである。しかもそれは知能の質にかなり依存している。
ここで残念なお知らせがあって、日本の平均PISA学力と恐らくそれに関連している一般知能因子だか平均IQの高さと全く別に、国連の幸福度調査の寛大さ(generosity)の順位は、2019年度版で156カ国中92位と下位に属し、相当酷い。いわゆる同調圧力が激しいのは日本人自身なら大抵経験済みであろう。
("World Happiness Report"(国連幸福度調査)、2019年版、32ページ)
これがなぜかだが、日本人一般は西洋人一般より平均学力、いいかえれば潜在的な寛容さは高い筈なのに、現実には文化や風習の面で、同調圧力をかけるという悪い癖から、差別的慣行が相当程度はびこっている。日本で重視された17条憲法以来の「和」がこの種の矛盾した傾向の一つの原因かもしれない。
尤も私の意見では、幾ら文化でしつけたところで潜在的な遺伝子の基底を完全に拭い去れるものではない。IQは大体半分くらい一般に遺伝するとされてきているが、傾向として国の寛容さの質は、ほぼ民度の中央値付近に収まるものと考える。攘夷が割とすぐ反省された一方ブレグジットは長引くかもしれない。
では今後、日本はどうやって、もっと寛容で自由な国をつくれるだろう?
第一に、他国の全く異質な文化を、進んで学ぶ事だ。そして自国なり自分のもつそれと違いがあれば、自文化中心主義(特に京都や東京の人々はいまだに中華思想を持っている傾向がある)を離れ、冷静に全ての文化を評価する事だ。
例えば、私の愛読書には『コーラン』も『聖書』もあれば、『論語』も『ダンマパダ(岩波文庫『ブッダ 真理のことば』)』もある。『武士道』は無論だ。所が私が接した西洋人の皆さんで、これらを全て普通に読んでいた人は1人もいなかった。なぜか異文化の聖典を読まない。自国のだけ読むのだ。上述の私が接したイギリス人、ノルウェー人はまあ教養の水準からいって、それぞれの国では中か最大でも中の上くらいかなと思ったので限界があるとしても、フランスで法学博士をもってる人すら、コーランや武士道すすめても拒絶反応示していたくらいで、東洋への偏見があるのは完全に全く間違いない。
イスラム教徒の考えを私は訳者の井筒俊彦氏を通じ、或いは中国人らの考えを過去の日韓の儒学者らを通じ、またインド思想への糸口を中村元らを通じ、事前に予習していたので、異文化交流に際して多かれ少なかれ相手の立場で考えられた。それで上記の西洋人らと違い、東洋人からも貴重な情報をもらった。所が私の目の前で、上述の一西洋人は、私には詳しい話とか現地の内情がどうなってるかなど色々な知見をくれた親切な中東人へ、明らかに差別的偏見ふくむ罵倒をして(故に相手からも罵倒され返され)仲違いし、それで平気で済ましていたのである。結局、差別や偏見は見識を狭めるばかりか己に不利だ。
「みんな仲良く」と小沢一郎氏が以前いっていた。これは一見すると子供っぽい台詞に聞こえもするだろうが、なんと難しい理想だろう。誰もこの様に高貴なる使命を果たせた者は過去のどの人類史の中にもいなかった。『礼記』『論語』以来の「和」と似て非なるもので、人の違いを慈しむのはもっと難しい。
漢文なら四海兄弟となるが、私にいえるのは、第二に、文化が違う方が、寧ろ、自文化なり自分の個性と他人が似ているよりずっと、世界の豊かさに寄与しているのである。この点で他人が己と違うほど喜ばしい。学ぶ機会が生まれ、自分より優れた人達の功績から恩恵を得て、常に新しい展開が始まる。
この文全体で伝えたいのは、西洋一般は(一イギリス人が自ら私へいっていたよう)日本に比べぞっとする民度だとか、我々が偶像化してもっている西洋主義という幸運なひいき目の反証ではなく、もし本当に西洋一般の民度が低かったとしても、相手の美質を常に偏見をもたず探そうとする方が、頭から見下しているより偉いのである。
私は日本国内で、わが県に魅力度の汚名を着せ、頭ごなしに差別してくる日本人らに大勢会った。特に多かったのが南関東や中部、関西地方、特に京都、そして仙台や札幌の一部の人達だったのだけれども、彼らは確かに間違いを犯してきている。即ち私の知っているわが県の美質を知らないままで済ましている。
所が、わが県民は一般に、私もだけれど日本的な美質というべき謙虚さを当然の様に秘め、自慢が好きではない。だから益々誤解され、「何もない」とすらいってくる人達がいる。無に住んでいたら私は仏なのだが、それはそれとして許してやろう。我々は世界から学び、自らの文化をさらに高める方が優先だ。
自分が完全無欠かつ完璧な理想の存在となったといえる瞬間は、どの時代のどの地点のどの個人にも、恐らく永遠に来ないだろう。或る長所は別の面では短所なので、文化も個人も、相互参照できるに過ぎない。国も同じだ。わが国はイギリスと似た島国だが、寧ろ世界中の人達にあまねく門戸を開くべきだ。