人は総じて自分に有利な考えを信じる。もし自分に有利でない考えを信じられる人がいても、狂人でなければ遠からずより自分に有利である新たな考えに転向しない限り、人生を肯定できない。
資本主義者が資本主義を正義と信じているのは、そのしくみを使う集団中で自分が金持ちになれると夢想しているとか、現に金持ちとか、より合理的に物資や奉仕を手に入れられるとか、比べて資本主義的集団が成功してきたと考えるとか、周りの集団がその種の考えをもっているので無意識に同調しているとか、なんらかの自分に有利な点を信じているのだ。
いいかえれば資本主義者全般は、彼らがその体制が不利と明らかに感じる状態になれば、遠からず別の思想に鞍替えする。社民主義的政党や、共産党、或いは仏教、キリスト教、イスラム教等の宗教的政党といった、必ずしも自由主義的でない政党に票を投じる人々は、基本として自分に有利だと信じているからそうするのだ(たとえより公益度が高く、自分は社会の一員として然るべき安心を得るという間接的利益、或いは良識の満足といった質的利益の意味であっても)。裏返せば自由主義的政党に投票している人々は、単に信仰または信念の為にそうしているだけである。
この意味で資本主義が生産様式に基づく必然的下部構造、というマルクスの見立ては、実際には信仰がその種の生産様式を択んでいる以上、厳密ではない。マルクスの中では上部構造とされていた信仰は、或る下部構造を択び出したり、拒絶したりする能動的な役割を時に果たしている。これが全ての人々が私利通りに最適化していない、いわゆる既存経済学の前提とする合理的経済人が、現実には人類全員でない理由である。