2019年3月24日

世知は身を守る

自分の人生をふりかえってみると、自分にとって不幸の原因になったことは、一度の例外もなく、卑しい他人(不道徳な他人、悪意のある他人、利己的・サイコパス・マキャベリスト等)との接点から生じていると思う。逆に、自分にとって幸福だった経験は、利他的なごく少数の他人とのまれな接点を除けば、自分ひとりで何か興味のあるしごとをしているか、休憩している時だった。この意味で、自分にとって社交というのはほぼ完全に有害なことだといえると思う。特に、労働者一般との私的接触は自分にはほぼ完全に害悪でしかなかった。自分の場合、労働者中に有徳な人物を見つけた試しがなく、したがって接する限りなんらかの迷惑か、差別や誹謗などの犯罪行為を仕掛けられた。
 自分は20代前半の頃、アルバイトで生計を立てていた親友から「できるなら労働しない方が良い」と忠告され、それに従っていた。またその後できた恋人と呼べるだろう人からもほぼ同じことを言われた。親からも似た様に言われていたので、親身になってくれる人達がほぼ同じ意見な以上、労働を避けてきた。それで自分が感じた範囲では、自分は社交性がない訳ではなくて、寧ろ物凄く気が利く方であり(自分より心遣いが細やかな人はみたことがない)、確かに気疲れはするものの、会社等の組織中でうまくやっていく能力はあるような気がする。実際どこもドロップアウトした試しがなくきちんと卒業している。
 では、私の親しい人達が一体何を私に忠告しようとしていたのか? なぜ労働を避ける様に助言したのだろう。このことはいまだに完全にはわからないのだが、労働者一般の悪徳ぶりを知って、自分がそれと真逆の、高潔な人格を守ろうとしている人物であるから、俗に染まるのを危惧したのではないだろうか?
 ある時、私の父親が私に「世間知らず」になるのは望ましくない、といった発言をした。父親は再三似たような事をいってきており、それで私はできるだけ所属する人間の多様性がある組織を経験しようとして、専門学校の夜間部という場所にいってみて、実際そこには色んな人がいた。妹島さんの事務所には色々な外国人の人がいた。また他にも世間を見る目的で、2chやアメーバピグというかなり多様性が高いだろう場所を観察したりもした(これは衆愚と呼べる連中の考え方や行動規則まで詳細まで知れたが、特に酷い目にあった)。それで自分はもう十分世間を知った、と今は感じているのだが、実際に世間を知ってみて思うのは、はっきりいってそこはろくでもない場所であり、知らない方がよかったのではないか、ということだ。世知は処世には役立つかもしれない。しかし知らなくてよいことの方が遥かに多く、人間の現実に絶望する。
 私が知った世間の人々の中で最も衝撃的だったのは、サイコパスやダークトライアドと呼ばれる脳の持ち主達がいることだった。その人達はインターネット上では現実と違う顔を持ち、想像を遥かに超えた悪行三昧をしていて、しかもそれをただの嗜虐快楽の為にやっているのだった。このサイコパス・ダークトライアドの度合いが高い人達の中でも、理科系の大学を出ている人については更に酷くて、倫理道徳という人間社会の利他的な規則を完全にばかにしていて、世の中の人間を自分の為に利用しよう、そして役立たなければ(逮捕されねば)殺して構わないとしか思っていないのである。確かに温室育ちで世間知らずの人の中には、この種のサイコパス・ダークトライアド的な脳をうまれもっている人が現実にいるのだ、とその実態を知らない人がいると思う。その人は世人はみな信用でき、善意を根底にもっているから悪事をしてもただ勘違いでしているだけで、説得すれば分かると思っている。サイコパス・ダークトライアド度が高い脳の持ち主達は、善悪の思弁が生まれつきできず、その点が盲点になっている。しかも仮に善悪の思慮を世間の人がもっている、と把握したとしても、鳥かごの中で恐怖に震えるニワトリの親子を見る様な目で眺め、人間を取り出し屠殺しても当人の利害しか感じない。
 自分が間近に見て観察した限り、世間的に立派な学歴だと思われている旧帝国大学だの一応は一流から二流くらいだと思われている大卒者とかで、ネット上で荒らしをしている人達の中には、サイコパス・ダークトライアド度が極めて高い人々が数人以上いた。出現確率的には高学歴者の荒らしの中に多い程だ。ここからいえるのは、学校の一般的な試験によって、ただのIQテストに近い論理的知能を使うに過ぎない脳検査では、サイコパス・ダークトライアドは無論、人間の人格的知能を調査は全然できない(しかも入試を全員が平等な条件下で受けるでもないし、IQと一般的学歴も殆ど相関はない様だった)。だが世人は、ある程度の世知や通俗的な意味での常識があると思われる位の平凡な経歴の人達であっても、上述の事実をほぼ全く知らないであろう。それは彼らの世知が不足しているからなのだが、自分は無数の対立する経験をしつつその背景にある制度の状況を知っている。
 世知を得れば騙され辛くなる。
 自分の父親が自分にいおうとしていたのは、世間に騙されるな、ということだったのだろうか? そして自分へ親身になってくれた人達が労働忌避の忠告で伝えたかったのは、その種の悪質な者が混じっている俗世間に染まらず生きた方が幸福だ、というある種の希望的な期待だったのだろうか?