2019年3月24日

資本主義は善用も悪用もできる道具だが、清貧な者の慈善の尊さには永久に及ばない

資本主義は使い方によっては幾らかの善になる。悪徳商人を善徳商人が駆逐する場合、そして蓄財したお金を浪費せず、隣人愛に使う場合だ。
 但し、そもそも利益の為に奉仕する、という条件つきの善行(相利性。仮言命法)しか資本主義では駆動しえないので、 その中での善も、いわば究極の偽善としての相利性の追求に留まるだろう。真の善は無条件な善行のみ(利他性。定言命法)に求まるので、資本主義の中での善は、巨視的な意味では偽善でしかありえない。金持ちが慈善活動をしても所詮それは節税や罪滅ぼしの為の偽善の一部であって、清貧な人が貧者の一灯を以て慈善活動をした時の重みには及ばない。前者の結果の方が後者より金銭面で豊富であったとしても、慈善のありがたみはそれを行う人の善意に対するものなので、決してより深く感謝されないだろう。