2019年2月7日

いじりと呼ばれる嘲笑を現実にもちこむ有害性

関西文化圏とその他の文化圏は全然違うと思うけど。国内が均質な文化だというのはただの無知。いじりの嘲笑を笑えるのが或る観衆の前提にする均質性があるから、というのは粗雑な意見だ。異文化の外人が見てもいじりで笑ったり、或いはいじり自体を嘲笑することは十分あるのだから。
 いじりの大部分は虐めを喜劇化し、虚構じたてに弱者を嘲弄する手法だと思う。それが主観にとって不快だと笑えない(嗜虐側、被虐側、観衆側いずれにいても)。いじり好きはたぶん共感性と反比例する筈だ。思いやり深い人が弱者をからかうことは殆どありえない。
 非吉本文化・非関西文化の人は通常、いじりをいじめと感じる。「なぜ弱者を嘲弄しているの?」「なぜ弱者である私を嘲笑しているのだ?」と。この意味で、いじりの嘲笑は、喜劇という虚構の場以外で、いじめの正当化でしかない。某吉本芸人は劇中と現実を混同しているから問題を起こしたのだろう。
 いじりが上質な諧謔として正当化できるのは、道化師が王の裸をたくみに指摘する様な場合だけだと思う。いいかえれば本来、権力の弱いはずの側が権力の強い相手の落ち度を指摘する為、或る客観性を使う。場を擬似的に虚構化する技術なしにそれを行うと、通常は権力によって弾圧を受けてしまうからだ。
 自分が劇的ないじりとして最も上質だと思うのは、御三家の徳川光圀が生類憐れみの令を出した将軍徳川綱吉を「いじる」ために、お犬様の毛皮を丁寧に贈るだとか、牛だか羊だかの鍋を堂々と喰らって庶民にうけたというやつ。いじりは弱者の嘲弄に使うべき手法でなく、権力批判に使うと効果がある。