2019年1月23日

無償主義について

資本主義者は単なる悪人であって、利益追求の名目で他人から貪ろうという、人間の道具化を行っている人達の群れなのだ。カントはとうの昔に目的の王国という当為、そして人格主義の定立(人間性を決して手段としてではなく同時に常に目的として行為せよ)を通じこの様な人間の道具的使用を禁じていた。
 商取引の相利性をデリダは返礼の省略として正当化した。だがこの背後には搾取(労働価値の経営上位者からの吸い上げ)や壟断(価値の偏在を取引差額として上乗せする行為)による蓄財を、純粋な無償の奉仕に比べて同等以上に重要な事かの様にする偽装が含まれている。
 政府や宗教による所得調整が生存権確保のため十分に行われない社会では、自由至上主義や新自由主義、その他拝金主義といった資本主義の暗面を単なる自己利益のため強調する資産家が羽振りを利かせだし、傲慢にも彼らが貪ってきた貧民を虐げ始める。この意味で全労働者に生存権を確保しようとした共産主義や、その前段階として公的福祉の充実を進める社民主義(社会主義)は、いまだ労働や投資などの営利活動への参加を否定する者(それは善意というべきだ)を救うことはできていないにせよ、少なくとも市場の需給原理による配分のみに経済活動を集約させたがる自由主義(及びその根底にある資本主義そのもの)よりは人間的でましなのである。
 自由至上主義や新自由主義は、国の中に所得格差を広げ、収奪できなくなった国民を見捨てる富裕層の海外流出を鼓舞する。同時に地球経済に加担し、搾取・壟断を人口が多く経済発展が見込める他国に及ぼそうとする。いいかえれば人間の道具化を一国民から全地球人に向けかえるのが自由主義者の必然的帰結だ。一体これが悪意でなくてなんなのだろう。経済全球主義は発展の後押しという名目で、投資や現地法人を通じ新たに奴隷化した労働者らから貪る目的しか、その本質には何もないのである。これまで国内で貪ってきた結果、もはやなんの上前も吸い取ることができなくなり、生存すらできなくなった奴隷の消費余力が枯渇したので、今度は何も知らない新興国の労働者に同じ収奪行為をしようというのだ。地球規模の格差が縮まっているというありふれた大義名分は、ますます蓄財した超富裕層の節税と売名目的での慈善行為で飾られる。結局、資本主義者がしているのは人間の道具化でしかない。
 我々に善があるなら、それは人間の目的化のみによって実現される。そしてこの善は資本主義の外にある。全く無償の奉仕のみが、真に人間的な生き様なのだ。勿論これまで全宗教が、聖人やNPO団体、ボランティア、一般的善人らと共に試みてきたことはここに含まれる。私はわたしの知識の範囲内では、この立場を命名した人はいないと思うので、無償主義と名づけておく。これは無料のフロントエンド商品を意味するフリーミアムとは全く別の立場である。全ての仕事は全く無償で行われねばならないということが、資本主義のもたらしているあらゆる全地球的災厄から離脱する唯一の方法だ。